《秋の訪れ、ニンフの婚姻》 一 ※全年齢回 (作:ブルーミント・ユー(Blueminto You))

一、秋の訪れ

果てなく広がる大海原の中心、人間の描くごくちっぽけな版図の片隅に、クリノの故郷はひっそりと存在している。その古き森を、周縁に暮らす人々はただ「精霊島」とのみ呼ぶ。この森を取り巻く人の敬意、それに積み重ねた歴史を最も端的に表した通り名がそれだ。
全体にわたって青々とした木々が生い茂る以外、何の変哲もない孤島に見えるが、みだりに近づく人間は無い。ガレオン船を丸呑みにする得体の知れない大鮫、渦と触手で島をも絡め取る大蛸、船乗りを死へと誘うセイレーン──すぐ隣の海域では御伽噺に語られるような怪物達が、かの島の近辺にはありふれている。だから一部の例外を除いて、精霊島には船の行き来が無い。
精霊島に暮らすニンフはおよそ40人ほどであるが、彼女達に時間の数えというものは存在しない。人間より遥かに長い命を持ち、飢えや穢れ、老いとまったくの無縁であるニンフは、そもそも時間を何かしらの基準で区切るということを必要としないのだ。
だが、これが四季の流れについてとなるとまた話は違ってくる。今が海の向こうの人間たちにとって誰の紀の何年であるかなどということに、ほとんどのニンフは関心を持つまい。しかし、今が春夏秋冬のうちのいつであるかについては、この島に住むニンフの大勢が知っているのだ。

「お知らせします、クリノ様」

果たして祭壇での行為の翌々日が、まさにその「理由」のやって来る重要な日取りであった。クリノのねぐら、島一番の大樹の根本近くにある簡素な家に、ヴァイオ──クリノに強烈な口淫を見舞っていたあのニンフ──がそれを知らせにやって来た。

「もうすぐ『秋』がこの島に参ります。先程、向こう岸で待機しているのをセンリが見たそうです」
「うん、レヴァンタの言った通りね。みんなにも歓迎の準備をするように知らせてちょうだい。寝てる子が居たら起こしてあげてね」
「かしこまりましたわ、」

クリノがふいと手を振れば、その手からはたちまち亜麻に似た生地の大布が現れる。ニンフの魔力をもってすれば、自身の思うものを思うがままに作り出すなど造作もない。その一枚布を、これまた魔力で身体に巻き付け、肩で留めて衣とする。来客のある日に着込むのは、いつも身に纏っている真白の衣に、いくらか彩りを加えた服だ──人間の作法とはそういうものなのだと、これはレヴァンタから教わった知識である。
幾人かを伴って森から海岸へと出る。果たしてニンフ達の待ち望む「秋」は、海を挟んだ遠い対岸に静かに佇んでいた。

「お願いいたします、クリノ様」

傍のニンフが厳かな面持ちで差し出したのは、島の木に成るオリーブの実だ。クリノはそれをしめやかに受け取ると、少し念じて魔力を込める。数秒の間に今にも輝き出さんばかりの魔力で満たされた枝を、クリノは静かに波間へと投げ放った。

「守り手の皆々様、しばらく道を空けてちょうだいね」

実が海面で小さな水音を立てる時、その接点から何かが波紋となって海中に広がっていく。実の中に溜め込まれていた魔力が、精霊の魂を形作る透明な分子が、魔物達のみに知覚できる「匂い」の波紋となって海全体を覆う。
それは合図だった。海域に遍く泳ぎ回る魔物達が、獲物を食らわんとする牙を収め、その身を一時海の底に隠さんと潜航していく。今日もまた特別な日々が始まる。年に四回、精霊島が唯一外からの来客を受け入れる日が。

──満を持して岸を発った「秋」は、数刻もすると無事に島の南側の浜へと到った。その正体は、合わせて三十人ほどのうら若き人間の女を乗せた、樫作りの船である。素朴だが頑丈な造りで、側面には神殿の権威を表す大きな紋章が描かれている。乗り合わせた女達は朽葉色の刺繡の入った衣を着て、静粛な面持ちで次々に船を下りていく。幾人かの女は果物や織物、工芸品などの入った大きな籠を抱えていた。
刺繍の表す紋様は、海と島々を造りし二大地母神を称えるものだ。船に乗った者達はみな、この島の近隣にある人間の領域──つまりは、人と精霊の辺境より遣わされた神官達なのだった。
先頭に立つ女は、周りの者達とはまた意匠も色も違う、立派な服に身を包んでいる。後ろで編み込んだ黒髪に、鋭く辺りを見据える金の瞳。クリノにとっても見知った顔だった。

「ご機嫌よう、大精霊クリノ。翡翠島の神官を代表し、祭祀長オルキデアが秋の訪れをお報せします」
「ご機嫌よう、オルキデア。相変わらず壮健で何よりだわ。精霊島を代表し、クリノがあなた方を歓迎します」

ここ数年、この島へとやってくる「四季の訪れ」の儀は、このオルキデアが取り仕切っている。彼女はまた、クリノにとって数少ない島外の友人でもあった。この儀式の日以外で人間と出会うことは、三百年の時を生きるクリノの経験上もそうそうあることではない。
一年に四度──人間の暦の上で四季の始まりにあたる日にだけ、それも決まった紋章を掲げた船のみが、精霊島へ向けて漕ぎ出すことが出来る。これは古の人間と精霊達によって取り決められたならわしである。
島を守る魔物や魔法の数々は、この日神殿からの船を通すためだけに静まり返る。そうして海を渡り、精霊島に辿り着いた神官達が、ニンフ達に新しい季節の訪れを報せるのだ。人の理と関りを持たないニンフ達が、人間にとっての時間の流れを知る。そのこと自体が、両者の親善の証となる。
巫女達は島の中央近くの神殿で数日ほどを過ごし、島中の祭壇の手入れをし、人間達の代表としてニンフ達と交流を深める。これは島の環境の調査も含めた重要な仕事なのだが、そちらはクリノにとってはあまり関わりのない事柄である。

「いい香り。私、いつも『秋』のお土産が一番楽しみなの。今年の葡萄はどう?」
「ええ、お陰様で。今年は特に西部の畑のものがとてもよく実って、私の父母を始め農家の者どもは大忙しです。お供えも張り切らせていただきました」
「ありがとう。後でみんなでお上がりましょう」
「すぐにというわけには参りませんが、その通りに手配します」

ニンフ達は思い思いに神官達に駆け寄ると、きゃいきゃいと話しかけたり荷物持ちを手伝ったりしている。見目麗しいニンフらに気を取られっぱなしの神官も数多いが、オルキデアが声を張ると皆ぴしりと背筋を正した。

「羽目を外すな。供え物を運んだ後しばらくは自由だが、暮れまでには神殿に集まっておくように。寝所の掃除が待っているのだからな」
「はい!」
「何度も言うが、仮にも地母神キクローの名を背負う身だ。無体を働けばどうなるか分かっているな」
「は、はい……」

離れた場所からでも下級神官達にきびきびと指示を出すオルキデア。視線を向けられた神官達が次々にが居住まいを正す様子からも、日頃の彼女の厳格さが伺える。

「そんなに怒っちゃかわいそうよ」
「別に怒っているわけではありません──これもいつも申し上げていることですが。特に、今季は新たに『訪問』に加わった若い者も大勢おります。二大地母神の眷属たるあなた方に、失礼があってはなりませんから」
「それなら猶更じゃなくて? どんな草花だって新芽は柔らかいのだから、若い子ほど大切に育まなくっちゃ」
「それを言うならば、どんな果実とて成り立ては硬く青いものです。彼女達にはもっと成熟してもらわなくてはならない。精霊を物珍しく思うあまりに、本分を忘れてもらっては困ります」
「もう、いつの間にああ言えばこう言う子になってしまったのかしらね。一番頭が固いのはどう考えてもあなたよ、オルキデア」

口ではそうは言いつつも、オルキデアの堅物っぷりをクリノは好ましく思っている。精霊島のニンフ達は、一応はこの聖なる島の維持という使命を抱えて生まれてくるが、その使命に対して高い意識を持つ者となると、なかなか見当たらない。多くのニンフは放埓な自由主義者だし、日々の仕事も魔力をもってすればさしたる労力はかからないからだ。
だからオルキデアのような生真面目な性格というのは、クリノからすれば物珍しかった。折しも神官達の長とニンフ達の筆頭、互いの種族を代表する者として付き合えたのは幸運なことだと思う。あの目頭の間の皺を取ってあげるにはどうすればいいかしら、などと考えるのも、今やお馴染みの愉しみである。

「それでは、今後の段取りについてはまた後程。お世話になり通しですが、せめてこの時間をしばしお楽しみください」
「ええ」
「それから、船の改修への助言に関して感謝を──お陰様で、今回の訪問では一人も船酔いの者が出ませんでした。レヴァンタ様にも後でよろしくお伝えください」
「いえ……あれはレヴァンタのお手柄であって、私のやったことではないわ。お礼があるなら、レヴァンタに直接伝えてちょうだい?」
「ご謙遜を。かの大精霊を薫陶なされたのは貴女様でしょう。であれば、貴女様にもこの誉れを献上しなければ嘘になります」

船の方へ歩き去っていくオルキデアの後ろ姿を、クリノはぼうっと見送っていた。ローブの下からもくっきりと浮き上がる優美な足腰に、ついつい熱い視線を送ってしまう。神官達の中でも格別の肢体の持ち主は、しばしばニンフ達からも褥の誘いをかけられるものの、その全てを丁重に断っている。神職にある者が精霊の誘惑に乗ることは禁じられているとのことだ。残念なことに、自分の口から言った以上、オルキデアはその規律を実践するだろう。

「確かに、見ないお顔の子が多いわ……」

新参と思しき神官は、忙しなくきょろきょろと辺りを見回しているのですぐに判る。ニンフ達の中でも活発な類のものは、そんな気配を敏感に察知しては、人懐っこく傍に寄っていろいろと教えてやったりしている。幾人かの神官は、ニンフ達が離れた後も顔を真っ赤にしてうつむいていた。
日光の影響を受けないニンフは抜けるように白い肌を持ち、また一人一人が非常に整った容姿をしている。衣服に対する意識が薄いので、身体に纏った布一枚のあちこちの隙間から、その肉体の美しさを垣間見ることができる。地母神の作りたもうた中で最も実り多き果実、精霊種。自然、うぶな新人神官も夢中になろうというものだった。
若人達の微笑ましい惑いを眺めながら、クリノは知らず相好を崩した。恋は良いものだ。既に三百年の年月を生きているクリノだけれども、恋に胸をときめかす人やニンフほど見ていて飽きないものはない。恋を宿した命は、風に吹かれる木の葉のように、どこに流れていくものか予測がつかない。くるくると流転する心や関係を漫然と眺めることを、クリノは心から好いている。
と、特に何を探すでもなく立保うけていたクリノの目に、一人の神官が映った。周囲の神官達に何かと声を掛けられており、しかも頼りにされているようだ。動きにもふらついた所や迷っている所がない。こちらは新人達を世話するベテランだろうか──と目を凝らしたところで、クリノは思わず声を上げた。

「──あら?」

クリノが目を付けた神官は、周りを気遣いながらも、森の中へとまっすぐに歩を進めていた。少し縮れた栗色の髪の持ち主で、利発そうな目つきをした娘だ。そして、他の貢ぎ物とは明らかに様子の違う、木でできた大きな箱を背負っている。彼女もまた、クリノにとっては知った顔である。

「あの子……」

クリノは僅かな逡巡の末、急いで神官の後を追う。追いつかないよう距離を保って、けれど見失わないほどには速く、クリノは己が足を動かした。精霊島はニンフの庭だ。道なき森の中であろうと、歩くことに支障はない。一方で、神官の歩きは今にも躓きそうなほどにぎこちない。しかし、たたらを踏むように前につんのめりながらも、決して足を止めようとはしない。
神官の後に続いていくと、やがて妙なる琴の響きが耳に届くようになった。クリノの胸の端がまた小さく痛む。今の彼女を最も悩ませる響き。疎ましくはなくとも、心をざわめかせるものだった。

「レヴァンタ様!」

若き巫女が辿り着いたのは、先日クリノが皆と褥を共にしたあの祭壇だ。腰掛けているのは案の定、琴を手にしたレヴァンタだった。人間達からは「智の大ニンフ」と畏敬される賢き精霊は、琴の手を止めてぱっと顔を綻ばせた。

「マヤ! よくぞ来てくれたね」

それは、レヴァンタが古くからの友人を迎える時に見せる顔だ。千年、二千年に及ぶニンフの長大な命からすれば、人間のそれはとても短い。しかし、だからといって人間とニンフとの間に長きにわたって関係が築かれる例が無いわけではない。

「ああ、今日はその木箱いっぱいに? 早いなあ。そいつよりも軽い君を抱き上げたのが、つい昨日の事みたいだ」
「もう、お戯れを。とっくに二年もお仕えしているじゃありませんか……ほら、ご所望いただいたご本ですよ」

マヤが留め具を外して箱の蓋を開くと、その中には何冊もの背綴じの書物が平積みにされている。レヴァンタは笑みを深めると、その中から一冊を手に取った。

「どれどれ──ふむ、鉱石を用いた浄水機構の試作、か。こと綺麗な水を飲むことにかけて人間達は必死だね」
「命が懸かっていますから。執政官達は西方の島々で起きた疫禍を忘れておりません。他の島々で惨劇を繰り返さないためにも、彼らは浄水設備の設計に血道を上げているんです」
「立派な志だ。失われた命を顧み、その上で発展の礎とする。そういうのは人間の良い習慣だよ」
「その習慣をこそ科学と呼ぶのですよ。神官のお仕事にも通じるものがありますけれどね」

そんな風に話している間にも、祭壇の上にはマヤの手で何冊もの本が積み重なっていく。クリノは知る由も無いことだが、三分の一ほどが都で書かれた論文や学術書の写本で、残りは都に出回っている詩や文学の類だ。どれもが製本されて間もなく、紙の質も真新しい。

「建築、化学、歴史、とりわけ祭祀。レヴァンタ様のご興味は相変わらず深遠ですのね」
「まあ、時間だけはたっぷりあるからね。この世の全てとまでは行かなくとも、知られるところまでは知りたいところだ」
「もういっそこちらにいらしてはいかがです? 神殿長と文通までした仲なのですから、きっとお許しが出ますよ」
「嬉しい言葉だ。でも、私がここを離れると泣き暮れてしまう子達が沢山いるからね。遠慮させてもらおうかな」

二人の会話を、クリノは離れた木陰からおどおどと覗き見ていた。マヤとレヴァンタが一緒に居るところは、正直少し苦手に思う。二人が揃うと知らない言葉が話の中にぐっと増えるので、ついていくのに精一杯になるのだ。
解らないものを更に解らない言葉で説明されるというのは、どうしてこうも眠気を誘うのだろう? クリノは欠伸をしながら首を傾げる。

「──ほう、ロードス氏がまた詩集を出したのか。本当に彼女は筆が速い。質は言わずもがなだが、たった三か月でよくもこれほど形にできるものだ」
「えへへ、実は先月お会いいたしましたの」
「えっ、本当かい? かの大詩人の人となりにはとても興味があったんだ。是非とも印象を聴かせてほしい」
「想像してたよりも物静かで、ちょっとびくびくしてるけれど優しいお方でした。眼差しも、お言葉も常に慈しみに溢れていて、教養をひけらかすような態度も取らない。雛鳥を世話する親鳥のような態度で他人に接する方ですわ」
「親鳥──そうか、それはとても素晴らしいひとだな。是非とも会ってみたいね」

話題が学問から文学へ移ると、やはり多少は聞きやすくなる。しかし、クリノの入り込む隙間が無いことに議論の余地はない。マヤとレヴァンタの育んだ関係は、人間達の居るあの「向こう岸」から漏れる光を思わせる。それが尊く眩い営みであることはクリノにも理解できるけれど、この手にはとても届きそうにないものだ。
息を殺してひたすら二人の言葉を拾っている間に、どうしてこんなことをしているのかも解らなくなってくるクリノである。元々、明確に理由があってこうしていたわけではない。ただ、レヴァンタが人間と何を話すのかということにそれとなく興味があって、駆り立てられるようにして覗いているだけなのだった。

(変だわ、私……)

元来、クリノは島の住人達の中でも一際強い力を宿していた。ニンフ種にとって力とは、即ち生命を育む才だ。クリノの手によって生まれる花や草木は、他の誰の手によるものよりも強く、大きく、健やかである。生まれて以来歳月と共に成長し続けた身体も、また一際豊かで美しい。まさしくニンフ達の長となるべく生まれた優良種であると言える。
しかし、真にクリノを精霊島の長たらしめたのは、何よりもその度量の大きい性格だ。嵐も、雷の音も、外からやって来る人間達も、昔からまるで怖くはない。それらに対して惑い、怯える同胞達をなだめるのは、昔からいつだってクリノの役割だ。現在の精霊島で最も温厚なニンフと言われるクリノだが、その性格の下地には、いっそ図太いとも言えるこの恐れの無さがあった。

(そうよ、いつもならこの木の陰から出てきて、二人に声の一つでもかけるところじゃない。怖がる必要なんて本当は無いのに)

この脚を木陰に留める不可解な力が、ある種の恐怖であることにクリノは半ば気が付いていた。レヴァンタが他の者と親し気に話し、称賛を受けているところを見ると、身体が竦むようになったのはいつからだろう。恐れを知らないクリノは、だからこそ心に落ちたこの小さな影を持て余している。初めての感情に上手く輪郭を与えられず、戸惑っているのだった。
マヤがまた一際大きな声で笑う。レヴァンタが得意げに鼻を鳴らして、応えるようにまた見識を披露する。祭壇にさんさんと降り注ぐ金色の日光が、二人の姿に輝かしい彩りを与えている。青く深い影に覆われたクリノの居場所とくっきり分かたれた営み。眩しく目を焼く光景が、自然とクリノの胸の内を陰らせていく。
ついにふらりと足が木陰を離れ、クリノは虚しくもその場を後にしようとした。しかし、その足がぴたりと立ち止まる。クリノの耳が、葉擦れに紛れた一つの小さな声を捉えたのだ。

(? 今、確かに……)

島に住まう鳥獣の類ではないということはすぐに判った。聞こえてきたのは、草木に聞かれることさえも忍ぶような啜り泣きの声だったからだ。クリノはすぐに呼吸を整え、周囲の気配の揺らぎを感じ取ろうと試みた──生命を育む精霊なればこそ、クリノは生命の放つ気配や感情にも敏感である──祭壇から少し離れた木陰に、確かに瑞々しい命の気配がある。詳らかなところはまったくわからないが、誰かが涙を流しているのは確からしい。
仲間のニンフが悲しい目に遭っているのかもしれない。あるいは、森に慣れない人間の誰かがケガなどしたのかもしれぬ。いずれにせよ、彼女の元へ行かなければならないという思いが生まれた。一人で泣く子に声を掛ける。それはこの島でのほほんと生きてきたクリノが唯一欠かさない行動、いわば信念とでもいうべきものだった。
果たして、クリノはすぐに目当ての相手を見つけた。自分に姿隠しの術をかけると、抜き足差し足で歩き、声の主にの元に辿り着く。木々の狭間にしゃがみこんだ彼女にも姿隠しを施すと、そっと腰を下ろし、傍に寄り添った。それは、雛をかいがいしく世話する一羽の親鳥のようだった。

「どうしたの?」

啜り泣きの主である若い神官は、クリノの声に反応して恐る恐る振り返る。髪はさっぱりと切り揃えられて短く、目は小動物めいて円い。
見ない顔だ。どうやら、こちらはこの島にとっての新参者であるらしい。戸惑いに揺れるその目は、充血して赤く染まってもいる。

「誰……」

クリノは微笑みだけを返すと、衣の袖で神官の頬を拭ってやる。木立の間に吹きこんだ一陣の風が、僅かに残った涙の余りを乾かした。
これが、アチェロという名の若者──マヤの知己であり、クリノにとって非常に大切な友人となる人間との出会いである。