〈作者コメント〉
ギリシャ神話に曰く、ニンフとは森や水辺に棲む女性型の妖精達です。気ままで執着が強く、そしてとってもえっち。彼女らの価値観と人間の価値観は上手く噛み合うのでしょうか……?
二、クリノの慰め
「今年から『四季の訪問』の一団に入りました、アチェロと言います。ど、どうぞよろしくお願いします」
「もう、そんなに畏まらないでくださいな。はい、これ」
泣きじゃくる神官をねぐらへと連れ帰ったクリノは、ひとまず彼女のためにお茶を煎れてやることにした。たったそれだけのことだが、アチェロの涙を引っ込めさせるには十分の出来事だった。
何せこの若き神官はたった今、精霊島の長とも云える神秘の存在、大精霊クリノのねぐらに招かれてきたはずなのだ。それなのに、「私の部屋よ」と言われて通された空間は、よく慣れ親しんだ人間の民家に非常によく似た造りをしている。のみならず、目の前で湯気を立てているのは、故郷でさんざん愛飲した豆茶そのものだ。混乱するのも無理は無かった。
「あら、何か驚かれてる? 人間は友人を家に招くとき、お茶でおもてなしすると聞いたのだけれど……おかしいところがあったかしら」
「いえ、そんなことは! 謹んでごちそうになります」
アチェロは姿勢を正すと、茶の注がれた木の盃を手に持ち、恐る恐る傾ける。一抹の不安を含んでいた若者の目は、たちまち驚きと喜びに見開かれた。
「すごい。今まで飲んできたどのお茶よりも美味しいです」
「本当?」
「はい。ここのところはめっきり忙しくなって、自分で煎れる暇も無く。よもやこの地でこの芳醇な香りを味わえるなんて思いもしませんでした」
「まあ、よかった! 人間の方にこれを飲んでもらうのは初めてだったの。気に入っていただけたようで何よりだわ」
深々と頭を下げるアチェロに、クリノは良いのよ、と声をかける。自分達の習慣でアチェロを喜ばせられるかどうかが不安だったが、上手く行ったらしい。身に着けた知識でアチェロを笑わせられたことが、クリノには純粋に嬉しかった。まだ見ぬ知識を日々希求し続けているレヴァンタであれば、いつもこんな気持ちを体感しているのだろう──そう思うと、無性にレヴァンタが羨ましくなる。
「いったいどこでこのようなお茶の淹れ方を? 並みの腕ではありませんね」
「一時期流行ったんですよ。島のみんなの間で」
「は、流行った」
「レヴァンタが……ああ、レヴァンタのことは知ってるでしょう? あの子はね、いつも人間の本から知識を取り入れているけれど、その中からみんなを豊かにするような知恵を見つけると、それを仲間達に教えて島に広めるの」
「はあ……」
「お茶もそうだし、こうして石や木の家に住むのもそう。みんなめいめいに好きな家を建てて、そこで寝起きしているのよ」
「建てた? この家を、ご自分で?」
アチェロは改めて部屋の内装を見る。造り自体は本当に人間の部屋と同じだ──甘さを含んだ森の空気を取り入れる窓があり、きしきしといい踏み心地のする床がある。ふかふかの布団の敷き詰められた寝台があり、ごく小さいものだが台所のようなものもある。住屋にしては多少清潔すぎるきらいはあるものの、何も知らずに通されれば普通の民家と勘違いしてしまうところだ。
「レヴァンタに教えてもらった通りにやっただけなのだけどね。そんなに気に入ってくれたのかしら」
「はい。本当に見事だなって……知り合いが大工をしていますけれど、この家を見ればきっと羨ましがるだろうと思います。やっぱりニンフ様って、すごい」
「レヴァンタの家なんかもっとすごいわ。本の保存条件がどうって……ええと、湿度がどうとか、日照がどうとかなんてことを考えながら家を建てて、そこにみっちりと本を仕舞い込んでるんですもの。考えも及ばないでしょう?」
「は、はあ。さすがは智の大精霊と呼ばれるだけはありますね。精霊ってもうちょっとこうのん──泰然としたイメージがありましたけれど、あのお方のエピソードは明らかにその域を逸しています。昔の神殿長に宛てた手紙なんて、未だに拝殿に飾られてるんですよ」
レヴァンタへの称賛を聞いたクリノの胸の内に、温もりにも似た喜びが湧き上がってくる。しかし同時に、その喜びの傍らに影のように兆すものもあった──この理不尽ともいえる気分を、クリノは訝しんだ。最初にレヴァンタを讃えたのはクリノの方だし、実際その心に嘘は無い。しかし、いざ他人の口からレヴァンタを褒められるとなると、どうにも胸の隅から湧き上がってくる不穏な気持ちを認めざるを得ないのだった。
(いけない。今はお話を聞いてあげなきゃ)
クリノは疑問に蓋をすると、アチェロを不安にさせないようにっこりと笑いかける。それだけで、精霊の美貌を見慣れないアチェロは真っ赤になってしまう。クリノの内にますます親愛の情が湧き上がった。心配事とは別に、もっとこの子と過ごしてみたい。
「そういえば、さっきはどうしてあんなところで泣いていたの? どこかケガでもしてる? それともご病気?」
「いえ、労わっていただけるようなことは何もありません」
「それじゃあ、何か嫌なことがあった? 悲しいことが?」
「それは……あながち、間違いではないですが」
「もしよかったら、聞いてもいいかしら」
少女は椅子の上で身を縮めると、両眉をハの字に傾けた。
「お聞かせに堪えるようなことではありませんよ。つまらないですし」
「無理にとは言わないし、全部じゃなくても構わないわ。でも、人目のないところで泣いてしまうほど思い詰めているのなら、一度誰かに話してみた方が良いと思うの」
「でも……」
「大丈夫、みんなに言いふらしたりなんてしないから。精霊にとって、秘密ってとっても大事なのよ? 作り話を交えてもいいから、私お話を聞きたいわ。アチェロのお話を」
少し強引かもとは思うけれど、きっと彼女にはこのくらい強い押しの方がいいだろう。クリノはほぼ直感で判断していた。他人の相談をよく受ける身なればこそ、身に付いた勘がそう囁いていた。
ためらいがちに目を逸らすアチェロだったが、すぐに決意は固まったらしい。膝の上で両手を小さく握りしめると、一つ一つ言葉を追うように話し始めた。
「いいえ、正直に白状します。私、マヤに……レヴァンタ様と一緒に居たあの神官に、ずっと恋してるんです」
「まあ!」
「マヤは同い年の幼馴染です。昔から、彼女は精霊島に自分で足を踏み入れられるような優秀な神官になりたいと言っていました。私が同じ道を志したのも、彼女の影響が大きかったと思います。ずっと追いかけているんです」
「ということは、あなたはマヤに導かれてこの島にやってきたのね。素晴らしいことだわ」
アチェロの頬が照れ臭そうにふにゃりと綻ぶ。飾り気のない、暖かな笑みだ。きっと数多くの者が、彼女のために努力することを厭わないだろう──そう確信できるだけの素朴な魅力があった。
「マヤは素晴らしい友達です。賢くて、真っすぐで、ちょっと気位が高過ぎるところはあるけど、優しくて……私の誇りで、大好きです。でも、きっとこの想いは実らない」
「それは、どうして……」
「マヤの心の真ん中には、ずっとあのひとがいるから」
言葉の意味するところが解らなかったわけではない。クリノは幾度もマヤを目にしている。彼女が一番の笑顔を誰に対して向けるのかも、当然知っている。だから、アチェロの言う「ひと」がレヴァンタを指しているということも、過たず理解することができた。
善良なるニンフ種とて、嫉妬や怒りを始めとする心の淀みと無縁ではいられないものだ。惚れた相手が他の者に懸想しているとなれば、彼女らも当然心穏やかではいられない。多くのニンフの相談事に乗ってきたクリノなればこそ、そのただならぬ心情に思いを到すことができた。自然、アチェロの話を聞く姿勢にも熱が入る。
「マヤの家系のことはご存じですよね? 彼女の一家は、ずうっと前から代々レヴァンタ様にお仕えしているんです。何でも、最初にレヴァンタ様に人間の知識を教えたのが、彼女のご先祖様だからとか」
「うん、知っているわ。キリコのことね? 正直、もう顔も曖昧になってしまっているけれど、とっても心配性だったのをよく覚えてるわ。いつもレヴァンタの行く末を案じてた」
「そっ……そうですか。さすがは大精霊どのですね」
時間のスケールの違いに少し調子を狂わされながらも、アチェロは咳払いして先を続けた。
「彼女のお母さんがマヤをこの島に連れてきて、レヴァンタ様に会わせたことがあるらしいんです。まだ物心ついてない、幼い彼女を……普通はそんな子供がこの島に立ち入ることはできないんですが、お母さんの強い希望があったようです。で、マヤはその日からずっと、レヴァンタ様にお仕えすることを願っていたというんです」
──アチェロの語るところによると、出会った頃のマヤは既に高位の神官を目指して勉強を始めていた。本を持ち歩きすぎてくたびれてしまったマヤをアチェロが助けたことが、二人の関係の始まりだった。
名のある神官家の出でありながら驕らず、常に慈悲深く人に接するマヤを、アチェロはすぐに好きになった。そして同じ頃に、彼女が努力を惜しまぬ理由を知った。
「ここからなら見えるでしょう? あの島にね、私にとって一番素敵な人が暮らしているの」
港の端の小さな波止場から、二人はよく精霊島を眺めて過ごしたそうだ。人里の季節がいくら移り変わろうとも、その島は海上に浮かぶ大粒のエメラルド。それを見るマヤの目は、いつも憧れを纏って光り輝いていた。
「私、まだ物心ついて間もない頃だったけれど、あの人の手ならいつだって思い出せてよ? 私の頭を優しく撫でる、あの大きくて柔らかい掌を。精霊種を恐ろしいという人も居るわ──実際、ニンフが変じたセイレーンなどは人に害を及ぼしますものね。でも、あの人はそんなのじゃないの」
レヴァンタの名であれば、幾度も本で読んで知っていた。精霊島に住まう、知恵と魔力に長けたニンフ。精霊の中でも飛び抜けて世の理を解し、優れた詩人でもある。過去には神殿に魔術の知恵を貸したこともあるという。精霊種の研究者であれば誰でも名前を知っている、ここ二百年余りの「有名人」だ。
アチェロの頭の中で、レヴァンタは風のない日の柳のように物静かな人物だった。しかしマヤの口から聞くレヴァンタの性格は、樫の木のようにからっとして逞しく、遊び心に満ち溢れていた。アチェロからすればややキザったらしいように思える所作でさえも、マヤにとっては憧れてやまない美点であった。
「私の髪を一房取って、口づけてくれたの。それで、『ようこそ、可愛らしいお嬢さん。船旅に疲れていないかい?』って……あの素晴らしい人が、片目をつぶって笑いかけてくれた。あの笑顔があれば十分だわ。その日から、精霊島に行ってレヴァンタ様にお仕えすることが私の夢なのよ」
常に優等生然としたマヤが不意に見せた、晴れやかな羞恥に染まった笑顔。それはアチェロの中に二つの心を生み出した。憧れを衒うことなく語るマヤのことが、自分は本当に好きだ。けれど、こんな気持ちに気が付いてしまった自分は、一体どうすればいいのだろう?
「私にできるのは、ただマヤに向かって歩み続けることだけでした。マヤの隣に居たい一心で努力を重ねました。元々神官のお仕事に興味があったのもあるけれど、マヤと同じ本が読みたくて、同じ話がしたくて……時には当のマヤにも手伝ってもらって」
──経緯を語るアチェロの身体から、あの湿った悲しみが漏れ出し始める。何故だかクリノは、そこに妙に慣れ親しんだ気配を嗅ぎ取った。アチェロの感じている想いに、自分はきっと覚えがある。そう思い至ると、自然と心臓が小さく跳ねた。
「私、修行時代はずっとマヤの一番近くに居ました。断言できます。精霊島行きは少し追い抜かされちゃいましたけれど、遂に今日、その差も縮まったんです……だから何だっていうんですか? 私、今更マヤに『レヴァンタ様に会わないで』なんて言えない。あの子はそのためにずっと頑張って来たのに」
絞り出すようにそう言うと、アチェロは遂に両手で顔を押さえ、しくしくと泣き始めてしまった。椅子の上で身を縮める泣き姿を前に、座して見守ることなどクリノにはできない。自然、その腰は椅子を離れてアチェロの元へと向かう。両腕で憂える若者の身体を抱え込み、広い胸元へと抱き寄せた。
「振り向いてもらうために、何もしなかったわけじゃないです。贈り物をして、言葉でもきちんと好きって言って、でも、マヤからは何もなくて」
「アチェロ……」
「遠目にレヴァンタ様を一目見ただけで、分かっちゃった。勝てっこないって。あんな素敵な人に恋しちゃったら、あたしなんて相手にもならない……! それが悔しくって……」
泣きじゃくるアチェロを嫋やかに包み込みながら、クリノは一人納得しつつあった。好きな人の心の中心に居たいのに、既にその場所には他の誰かが居座っていて、自分の入り込む余地がない。アチェロをここまで沈み込ませているその悲しみは、きっと自分がレヴァンタに抱いている気持ちと同じものなのだろう。なればこそ、自分は彼女の泣く声にレヴァンタよりも早く気付き、寄り添ったのだ。
レヴァンタのことを考えるたびに、胸の隅を刺す痛み。生まれてこの方初めて抱く、嫉妬の感情。アチェロとであれば、その一端を共有できるかもしれない。その願望が、ますます胸の中の彼女への愛着を掻き立てた。クリノに次の行動を決意させるには、十分な熱量を持った願望だった。
「うん、ありがとう。お話はもう十分よ……今度は私がお返しをする番ね」
アチェロは実に幸運と言えた。彼女の苦悩を癒す飛び切りの術を、クリノは既に知っていた。存外にごわごわとしたアチェロの髪を指先に感じながら、クリノはその身体をひょいと抱き上げてしまう。驚きに目を瞬かせる年若き娘を、そのまま部屋の隅の寝台へと運び、そのまま自分ごとごろりと横たえた。綿よりも柔らかく、絹よりもきめ細かい極上のシーツの上で、アチェロはどぎまぎと身を縮める。クリノは一際慈愛を込めて微笑みかけた。
「あ、あの、クリノ様……?」
「いいのよ。そのまま楽にしてて」
クリノに横抱きにされる格好となったアチェロは、当初こそ目を白黒させていたものの、すぐに言われるがままに身を預けてきた。未だに小さくひくつく背中をさすり、頭を撫でてやると、彼女の畏まった気負いも薄れてくる。
静かに流れ出る血の如き感情を、ひたすらに受け止めることに努める。豊かな乳房の谷間が汚れることも意に介さない無辺の抱擁は、だんだんとアチェロの気持ちを安定へと導きつつあった。アチェロの心は今やクリノの掌の下にあり、その起伏は一分たりとも見逃すことは無い。頃合いとみて、クリノは段階を次へと進めることに決めた。
掌に一枚の布を作り出すと、アチェロのぐしょぐしょの顔、それに自身の胸元を拭って綺麗に清める。続いて、アチェロの身体に触れるニュアンスを少し変え、その肌に触れるか触れないかのあわいの力加減で、身体中をゆっくりと撫でまわす。愛撫は常にアチェロの腰元から始まり、背筋の正中線をするすると通り抜ける。クリノの細長い指が若人の肩や腿に絡みつき、手足の末端へと抜けていく。
「ン……んむ……?」
身体の前面を深く密着させ、自らのたわわな双実を更に存分に感じさせてやる。アチェロの体は腕の中で小さくむずがりながらも。じわじわと血を巡らせ、昂っていく。アチェロは心地よさげにぽうっとクリノの目を見つめていたものの、やがて「あっ」と小さく声を上げた。ようやく自身の置かれた状況が理解できたのだ。
「クリノ様……これ……っ」
「見過ごすことなんてできないから──じゃ、駄目かしら」
「いや、その……でも、ええと……」
「貴女ったら、萎れかけの花みたいに悲しみでいっぱいよ。そんな友達を無下に放り出していくなんて、私にはできない」
「と、ともだち……ふや!」
情愛を込めた指先でアチェロの首筋をなぞってやると、彼女はまた小さく身体をよじらせた。慣れたニンフ達との行為では到底見られない未熟な反応に、未だ性的な経験が無いことを確信する。頬から耳元までを幾重にもいとおし気に撫でて、今に対する安心をそれとなく誘ってやると、緊張したまなじりがとろんと下がり始めた。
「私達だってね、憂鬱な時、悲しい時が無いではないわ。友達と喧嘩することもあれば、好みじゃない天気が続いてやる気が出ない時もある。そんな時にはね、こうやって誰かと肌を合わて、胸の中のもやもやが融け去るまでまぐわうのが一番なのよ……」
「ま、まぐわっ、」
潜り込ませた手をアチェロの肩甲骨の周りに滑らせれば、自然とその背がぐぐぐ、と反り返る──人肌に粘りつくように引っかかる森の淑女の指は、早くもアチェロの弱い部分を見つけてしまったらしい。後でじっくり開拓してやることにして、もう片方の手でアチェロの衣の留め具を外す。彼女自身の片手程の乳房には、小豆色の乳首がちょこんと乗っていて、愛らしかった。
「あうう……」
「木陰で物憂げに顔を伏せていると、大抵は仲のいい誰かが声を掛けてくれるわ。家へ招かれて、一緒にお茶を飲んだり、並んで昼寝したり、ふざけ合ったりしているうちに、ふと視線が重なるの」
「ん、っふぅ……あっ……」
「やがて手が重なり、唇が重なり、肉体そのものが重ね合わさって──互いの一番熱い部分を感じながら、幾度も幾度も高まり合って──そうしているうちに、いつの間にか悪い気分はさっぱり消えて無くなってしまうの。貴女にもそうしてあげたいわ」
「そ、そんな、だって、そんな……あっ、ケダモノみたいな……」
思わず口から漏れた失言も、クリノは小さく微笑んで受け止めた。
「それの何がいけないの? だって、人間のままじゃだめなんでしょう?」
「え?」
「人間の考えはとっても豊かだけれど、人間には考え付かないことだっていっぱいあるわ。それなら、いっそ私達精霊の考えを借りてみるのもいいと思うの」
「でも……それでも、だめ……」
「どうして?」
「ニンフと身体の交わりを持つことは、神殿に禁じられてるから。オルキデア先生に怒られちゃう……」
「心配しないでいいのに。ここには姿隠しの術をかけるから、外の子達に気づかれる不安はありません。決してアチェロが酷い目に遭うようなことにはしないわ」
クリノは嫣然と微笑み、やや硬く握られたアチェロの手を取った。緊張に震える小さな手をそっと包み込み、すりすりと撫で回す。森の乙女の嫋やかな温もりに癒され、アチェロの手は少しずつ緩んでいく。
「私は新顔の貴女をここに招いて、ちょっと相談を聴いて、親交を深めていただけ。何もおかしいことは無いわ? 私は貴女の傷を癒してあげたい、ただそれだけなのよ」
「傷──」
アチェロの手がきゅぅと自身の胸元を掴む。まさに今そこに疼く切り傷があるように。クリノはその手にも恭しく顔を寄せ、口付けた。アチェロの瞳が今度こそ大きく揺れる。
「ね、アチェロ……私の、とても若いお友達。今はただこの腕に身を任せてちょうだい。辛いことは何もかも忘れましょう?」
「──」
「大丈夫、これはこの森では当たり前のこと。私だって、とてもとても長い間、仲間達とこうして支え合ってきたのですから」
クリノはアチェロとぴったり目を合わせ、情を込めて問いかける。同時に、自身の真綿のように柔こい乳房を曝け出し、アチェロの裸の両胸にふわりと載せる。若人は穢れなき肌に炙られるように呻き、のけ反り、しばらく身を震わせていたが、やがて切なげな視線をクリノに向けた。緊張でぎこちなく固まった両腕が、おずおずとクリノの背に回る。肯定の証だった。
「あたし、そういう経験、ないんですけど。優しくしてもらえますか?」
「心配ないわ、そういう子の扱いにも慣れてるから。花の新芽を扱うように可愛がってあげる」
「……お願いします。多分あなたになら、いい……」
「じゃあ、目を閉じて。身体と顔の力を抜いて」
くにゃりと身体を開いたアチェロにぐっと密着すると、その朴訥で生気に満ちたかんばせに迫る。クリノの落とした影の中で、アチェロはじゃれつく子犬のように身じろぎする。ややあって、クリノの肉厚な唇がアチェロのそれへと、軽い新雪のように舞い降りた。
「ん、ちゅ……」
「ん、……んん……」
精霊ならぬ人間とのキスを味わうのは実に久々のことだ。アチェロの無垢は野苺のごとく瑞々しく弾け、クリノの唇の上にすべすべとした柔らかさを広げた。その心地よさを逃すまいと、僅かに口を広げて強かに吸い付く。両腕に抱き込んだアチェロの身体がびくり、と震える。鼓動が早くなり、幼き心が不安定に揺れ動くのを感じる。
「初めてというのは強く胸に刻まれるもの」──ふと、先日のレヴァンタとのやり取りを思い出す。そうであれば、この口づけをアチェロもまた忘れないのだろうか。この島を離れ、他の誰かと口づけを交わす時が来た時、クリノの掌と唇に愛でられる心地よさを思い出して、また可愛らしく顔を赤らめたりするのだろうか……。
そう考えると、クリノの胸は知らず躍った。遠く知らない人間の土地で自身の存在を思い返されること、自らの成した思い出が人間に影響を与えること。それらが何故だかたまらなく嬉しかった。そして喜びの余り、つい湿った唇をアチェロの耳に寄せて囁いた。
「アチェロの初めて、貰っちゃった……あなたのたった一つの……何だかとってもわくわくするわ……」
床の上にて、クリノは胸の内を正直に語ることを是としている。何物にも隔てられず、最も近くで──時には相手の指を己が体内に受け容れながら交わす睦言に、偽りの余地は無いと信じている。隠すことのない心からの賛辞、心からの歓びこそが、クリノにとっては最も行為を滾らせる燃料なのだ。
だから此度の秘め事にも同じようにしようと、クリノはアチェロの耳にそう伝えた。それが此度の情事において、一番の悪手であることも知らずに。
「あ……ああ……?」
掌に感じ取っていたアチェロの心が、その一言を契機にぐらりと傾いた。微睡むようにうっとりと細められていた目が、大きく見開かれる。火照りに満ちた顔からみるみるうちに血の気が引いていく。
気付いた時には、もう全てが意味をなさなかった。身体はきつく強張り、もう如何なる愛撫をも受け入れない。毒でも喰らったものと見まがう程の変化。しかしそうではないことは、彼女の両目を覆っていく分厚い涙の膜が示していた。
「……? どうしたの?」
二百年以上もの経験を蓄えたクリノの手指が、アチェロの身を傷つけるはずもない。彼女が傷付いているのは心の方であり、そのきっかけが先のクリノの言葉であることは明らかだ。しかし、クリノは混乱の極みに突き落とされた。つい先ほどまで、アチェロの身も心も自身の物となっていたはずなのだ。なのに、たった今それはすっかり手の内から零れ落ちてしまった。
クリノが慌てふためいている間に、不安定な脈動はアチェロの中でみるみる膨れ上がり、やがて静かに決壊した。
「うあ──あ、ああ──!」
クリノの乳房を歪めんばかりに顔を押し付け、アチェロはさめざめと泣きだした。人の身体の燃えるような熱さ、髪の硬さ、涙の濡れた感触が胸元に染み渡っていく。先程まで見せていた忍び泣きではない、駄々をこねる幼子の如き号泣。クリノは困惑のままにアチェロの変貌を受け容れるほかない。
「えっ? えっ? 私、何かしてしまったかしら……?」
「ちがうの──悪くないの、悪くないんです、クリノ様は……」
ここに至れば、もはや甘やかな睦事を続けることは出来なかった。万物を動かす力ある精霊とて、人の心の働きにまで干渉することはできない。クリノは狼狽を胸の内に押し込めながら、ただアチェロの背をさすり続ける他になかった。
一体何がいけなかったのか──? その一念だけがアチェロの胸の片隅に静かに巣食い、干からびた根を下ろした。
続
〈作者 あとがき)
若干暗めの展開でございますが、次回でまるっと解決します。