《白紙の私に無題の道を  第2話 無地の瞳》 作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

記憶を失う前の私は、とても友達が多かったようで、毎日のように誰かがお見舞いに来てくれる。
来てくれるけど……一人の例外なく、記憶を失った私を見るなり、「記憶が戻るといいね」とか、「きっといつか、元に戻れるよ」なんてことを言われる。
新しい命が誕生する瞬間は祝福されるのに、新しい私の誕生は呪いをかけられるばかり。
家族も、恋人も、比較的関係が薄い友達たちでさえ、新しい私を受け止めてくれない。
事故の衝撃で折れた骨や、ほとんど寝たきりで衰えていく筋肉よりも、孤独の方が遥かに苦しい。
記憶を失った私にとっては、折れた骨も、衰えた筋肉も、”最初からこう”だった。体の痛みも、不自由な肉体も、最初からこうだったから、これが私にとっての普通でしかなく、特別苦しいとは感じない。
だけど、この孤独は特別。私の周りには、面会が不可能な時間以外は、ほとんど常に誰がいてくれるのに、心には誰もいない。
寄り添おうとしてくれている人ばかりであるのはわかっているけど、それは記憶を失う私にであって、いまの私にじゃない。
過去の私は、眠りの中か、死んだのか、それはわからないけど、過去の私はたくさんの人に囲まれている。いまを生きている”いまの私”は、どこまでも一人ぼっちなのに。

薫子かおるこさんと日美香ひみかさんは、いまは外出中で、昼下がりの病室には、私一人。
奇妙なことに最近の私は、一人でいるときの方が、一人じゃないと感じる。
一人でいる間は、ただ一人なだけ。でも、誰かが側にいると、過去の私だけが人に囲まれていて、私だけが一人ぼっちになってしまう。
この空間で私だけであることよりも、この空間の中に人がたくさんいて、それなのに私の心には誰もいないことの方が、遥かに一人ぼっち。
だからこそ、願ってしまう。私をこの孤独から救ってくれる誰かを。家族じゃなくていい。恋人じゃなくていい。理解者じゃなくていい。
ただ私に、過去の私を見ない誰かを。新しく生まれた命である私を、ただありのままに見つめてくれる人を。
そんな都合の良い相手が実在してくれるのなら、もっと早く現れているはずで、望みがないことはわかっている。わかっているけど……
求める自由くらい、認めてほしい。誰にも望まれない命にだって、心にだって、夢を見ることくらい、許してほしい……

ごわごわとした病院の布団に包まって、自分で自分を温める。誰も温もりをくれないのなら、自分で自分の心を温めるしかないから。
産まれたての雛鳥を温めるように、私は私の心を抱きしめる。本当は、他の誰かにこうしてもらうことを望んでいるのに。
そんな自愛とも、自傷ともつかない感傷に浸っていると、病室の扉が開く音がした。薫子さんと日美香さんが戻ってくるには少し早いから、過去の私の友達だろうか。
そんなことを考えながら、扉の方に視線を向けると、そこには見たことのない女性がいた。
私や日美香さんと同い年に見えるから、大学の友達だろう。
「お見舞いに来たよ、菊花きくか
私の名前を知っていることから考えて、おそらく私ではない私の知り合い。だから、当然私にはこの人が誰なのか、全くわからない。
「えーと、その……ごめんなさい……私には、あなたが誰なのか、わからなくて……」
本当に心の底から、覚えていないことを悪いと思っているわけじゃない。菊花のことばかりで、私の死を望むばかりの人たちに申し訳なく思えるほど、私はできた人間じゃない。
でも、いまの私は果てしなく無力だから、こうして媚び諂うしかない。体はボロボロで、人との繋がりも存在しない、何もかもがマイナスの私には、菊花の遺産に頼ること以外に、生き永らえる術がないから。
「記憶喪失って本当だったんだ。それじゃ、知らない人が近くにいても怖いだけだろうし、帰るよ」
それは……それは、私にとって、この世のどんな言葉よりも待ち望んでいた……夢にさえ見ていた言葉だった。
名前さえわからないあなたは、私を菊花ではない誰かとして扱ってくれた、初めての人。
この一見冷たい言葉は、菊花へは冷ややかだったかもしれない。でも、でも……私にとっては、温かすぎるくらいで……
「ま、待って! 行かないで!」
まともに動かない体を動かそうとしたせいでベッドから転げ落ちそうになる。
そんな私を支えようと、扉を閉めていますぐにでも私の前から姿を消そうとしていた女性が、飛んできてくれた。
「ちょっと! 危ないな」
「す、すいません……」
「私は別にいいけど、君はまだ病み上がりですらないんだから、気をつけなよ」
最低でも、お見舞いに来てくれる程度には菊花と交友があったその女性は、ベッドから落ちそうになった私を助けたら、そそくさと部屋から出て行こうとする。
それはまるで、私の存在は”自分とは一切関係のない他人”という冷めた態度が見え透いていて……それが、すごく嬉しかった。
この人の、菊花の友達であることを一切感じさせないドライな対応は、私に菊花であることを求めないこととイコール。
怪我のせいで身動きの取れない私の世界は、ずっと狭いまま。菊花でなくなった私に菊花であることを強いてくる世界から出ることができない。
だから、私にはあなたが必要だった。広げることのできないこの閉じた世界に、外側からやってきてくれたあなたが。
「あの……い、行かないでください……」
気付くと私は、顔も名前も知らない、初めて会う女性の右袖を掴んでいた。
快活な菊花なら、初対面の相手でも構わず右手を掴んでいたんだろう。そして、もっと気の利いた言葉で、相手を引き止めていたのだろう。
でも、記憶を失った私は菊花ではないから、菊花と同じようにはできない。
「なに? どうしたの?」
「えっと……その……」

言葉が出てこない。この人の瞳は、私に興味を持っていない。だって、私とあなたは他人だから。
菊花になら優しくする理由があったのかもしれないけど、菊花でない私には、親切にする理由はどこにもない。
この人には地続きの人生が、ちゃんとある。この人には、記憶喪失なんていう面倒な事情を抱えた人間と親しくなる理由がない。
人生が途中で途切れた、成人してから弱くてニューゲームの私だけが一方的に、完全な他人を必要としている。
私だけが得をする取引を相手に納得させるような術を、私は知らない。
「……ずっと一人ぼっち、だったから……誰かにいてほしくて……」
悩んだ末に出た言葉は、きっと誰にも理解されない言葉。入院してからの私は、常に誰かがそばにいる。
なのに、ずっと一人ぼっちだと口にする私は、わがままであるとすら思ってもらえないだろう。
現に、目の前にいるあなたは、目を丸くしながら固まっている。
「……ごめんなさい、いきなりこんなこと言って……きっと忙しい合間を縫って、菊花に会いに来てくれたのに、私がわがまま言ったらダメですよね……」
生まれて初めて出会った他人に、心が乱高下して、涙が滲み始める。生後間もないけど、私は悪い子だから、こうすればあなたを引き止められるかもなんて、打算があるのかもしれない。
「他人の私がいたら君が怖いかなと思っただけだから、別に構わないよ」
涙の効果なのか、それともあなたが優しいからなのか……一緒にいてくれると言ってくれた。
私が生まれてから、かけられた言葉の中で、唯一嬉しいと素直に感じられた言葉だった。

※※※

「泣き止んだ?」
「見ての通りです。いきなり、すいません……」
生まれてからずっと私は、家族にも、恋人にも、友達にも、お医者さんにさえ、消えて失くなることを望まれていた。
そんな世界に何の前触れもなく、突然、私を見てくれる人が現れて、感極まってしまった。
それは恥ずかしいような、申し訳ないような、嬉しいような……一言ではとても言い表せない。
「いいって別に。事故に遭って、記憶まで飛んでるんだから、急に泣きたくなることだってあるよ」
会ったばかりの相手に、こんなことを思うのは、ただの勘違いなのかもしれない。だとしても、この人はとても優しい。
ただ優しいだけじゃなくて、相手がどう思うかを考えて、寄り添ってくれる、繊細さを持っている。
この考察が大外れで、偶然私の気持ちと噛み合っただけなのかもしれない。別にそれでもいい。
私はただ、私を殺すことで菊花を取り戻そうとする、”菊花にだけ優しい人たち”から、ひとときだけでも解放されたかった。
「こんな状況なんだし、泣きたい時はすきに泣けばいいんじゃない?」
「……こういう泣き方はできなかったから……」
「そういうものなんだ」
結局、名前を聞きそびれたままで、あなたはベッドの脇にある椅子に座って、私と他愛のない会話をしてくれる。
私が泣き出しても、「必ず記憶を取り戻せるよ」とか、「ちゃんと元に戻れるよ」なんて、私の死を望んでいるかのような言葉を、あなたは決して言わなかった。
それがどれだけ嬉しいか、特別か、伝えることができない。こんな重い感情を、出会ったばかりの人にぶつけるほど、非常識じゃない。
私が泣き出したら、みんな決まって、記憶を失ったせいだと思う。思い込んでいる。
でも、本当は違う。私が泣いている理由は、不安だからではなくて、ただただ恐ろしいから。
世界のどこにも居場所がないという現実が。誰にも望まれていない心だという実感が。
私にかける言葉の全てが、悪意ではなく善意であるからこそ、容赦無く心を切り裂いていく。
悪意による言葉であれば、立ち向かうことができる。だけど、善意には立ち向かうことができない。
優しさからの言葉だからこそ、私が本当にいらない存在であることが、どんな言葉よりも実感できてしまう。
「入院生活はどんな感じ?」
「この生活以外知らないので、特に何も。まだ安静にしていないといけないので、リハビリもできないから、ちょっと退屈ではありますけど」
「言われてみれば確かに、入院生活が辛いのはそれ以外の生活を知ってるからだよね。そう考えると、ここまで酷い怪我をするなら、いっそ記憶が飛ぶ方が楽なのかも」
この人は、不思議な人だ。記憶喪失は悲劇だと、みんな決めてかかっている。だから、みんなそれ以外の見方を知らなくて、私もその思考に踊らされていた。
この人は、自由だ。常識に囚われていない。だから私に菊花を求めない。私がただの私であることを許してくれる。
「あなたと話してると、面白いです」
「そんなことを言ってくれたのは、君が初めてだよ」
「そうなんですか? 世界を見る角度が、変わってて、面白いです」
「変わってるね、君。もしかして頭でも打った?」
「数日前に、かなり強めに」
「きっとそのせいだね」
「はい、そのせいだと思います」
やっぱり、おかしな人だ。普通、事故に遭って記憶を失った人に、冗談でも頭を打ったなんて言えない。
でも、この人は軽く言えてしまうし、言われた本人も笑えてしまう。それはきっと、この人にとっては、事故に遭ったことも、記憶喪失になったことも、ただの事実でしかない。
だから、嫌味がない。仲が良かったであろう菊花が消えて、こんな暗い人間に変貌してしまっても、現実を受け入れてくれる。
いまの私がほしいもの。この人はそれを全てくれる。家族や恋人のような、菊花と近過ぎる人から貰えないものを、この人はくれる。
「ただいま」
生まれて初めてできた友達と話し込んでいると、病室の扉が開く音がした。そして、買い物から戻ってきた日美香さんの声がして、それに続いて薫子さんの姿が見えた。
「……おかえりなさい」
二人は私の母と、恋人。だからこんなこと思っちゃいけないとわかっているけど……二人の時間を邪魔しないでほしいと、そう思ってしまった。
「あれ、蓮、来てくれたんだ」
「人が多いのは得意じゃないから、いまになってね」
「正解だね。ここ数日、ずっと私たち以外の誰かがいる状態だったから」
蓮と呼ばれた女性は、日美香さんと仲が良いように見えた。菊花なら二人の関係を知っていたんだろうけど、私には推測することしかできない。
「落ち着いた頃を見計らったおかげで、ゆっくり話ができたし、よかったよ。それじゃ……家族の時間をお邪魔するのも悪いし、この辺りで退散させてもらおうかな」
蓮さんは、私と日美香さんに気を遣って、帰ろうとしている。それが……すごく、苦しい。
蓮さんがいない世界は、私を窒息させて、締め殺そうとする。だから、そばにいてほしい。私がこの世界でただ一人、そばにいてほしいと思えた人だから。
「遠慮することないのに。私と蓮の仲じゃない」
「大学の課題だってあるしさ。日美香は最近、菊花のことで忙しいから、私がしっかりしてないと、単位危ないでしょ」
「そりゃ……そうだけど……」
どうやら、蓮さんと日美香さんは同じ授業を取っているみたいで、後でノートやテスト範囲を見せてあげるつもりらしい。
やっぱり、蓮さんは優しい。そういう事情があるとわかったら、蓮さんを引き止めるわけにもいかない。私と日美香さんに気を遣ってくれているのも本当だろうけど、課題のことも事実なのだから。
「それじゃね」
そう言って私に挨拶をして、立ち去ろうとする蓮さんに、何を言えばいいのかわからない。
もしかしたら、これが蓮さんとの最後になってしまうかもしれない。記憶を失った友達に会うために、わざわざ二回目も来てくれる人はいまのところいないから。
どうすればまた、お見舞いに来てくれるだろう……
「あの、また来てほしいです……私、友達、少ないから……」
同じ部屋にいる日美香さんと薫子さんには聞こえないよう、小さな声で、蓮さんにそう伝える。
ついさっき、連日友達が押しかけていたという事実と反する言葉を伝えれば、繊細な優しさをくれる蓮さんなら、わかってくれるような気がしたから。