蓮さんと出会ってから三日が経った。その間、彼女がお見舞いに来てくれることはなかった。
入院生活も一週間を超え、菊花の友達がお見舞いに来ることもほとんどなくなり、比較的静かな病室が、しばらく続いている。
「毎日すいません」
「いいのいいの。私が好きでやってることだから」
日美香さんは、私が入院している間、毎日病室に来る。日美香さんが毎日”来てくれる”と思えたら、どれだけ幸せだろう。素直にそう思えたら、自分の醜さに嫌悪せずに済むのに。
でも、現実の私は、”毎日来てくれる”ではなくて、”毎日来る”と捉えることしかできない。
「早く元の生活に戻れたらいいのにね。一緒のベッドで寝て、同じ大学に行ってさ」
「……うん、そうだね……」
菊花と日美香さんは、相当お熱かったみたいで、正直ついていけない。日美香さんにとっては、これは私と共有できるはずの想い出なんだろうけど、私の視点では他人の惚気話でしかない。
そういう類の話をされることそれ自体が不愉快なわけじゃない。その主役を勝手に私にされることが、納得できないだけ。
私が日美香さんの日常に組み込まれることが、日美香さんの人生に取り込まれることが、当然のものとして扱われるのが耐えられないだけ。
菊花はそれでよかったんだろうけど、私は違う。
「私たちが初めて会った日の話をしてもいい?」
「うん」
動けない私に代わって、着替えなどの荷物の整理をしてくれた日美香さんが、ベッドのすぐそばにある椅子に座る。
「て言っても、お互い初めて会った日のことなんて、覚えてなかったんだけどね」
「そうなんですか?」
「大学のゼミが同じだったから、それをきっかけによく話すようになったの。調べてみたらお互い同じ授業を取ってることがわかって、気付けば相手のことが隣にいるのが当たり前になってたの」
日美香さんは、菊花との思い出をよく語る。現実でここまで不自然な説明口調を耳にする機会は、記憶喪失になる以外にないだろう。
菊花の話をしているときの日美香さんは幸せそうで、寂しそう。この表情を見ていると胸が締め付けられる。私なんていない方がよかったんだと、これ以上に実感させるものは存在しないから。
私のせいで、日美香さんは最愛の人を失った。隣にいることが当たり前の人が、ある日突然目の前から消えて、別人に生まれ変わられる感覚とは、どんなものだろう。
想像するにそれは痛いのだろう。でも、だからって、私がここまで全方位から死を望まれることが正当化されていることを、理不尽だと感じることさえ禁止されるほどの痛みなの?
「だからね、こうやって二人で一緒にいることが当たり前になったら、私のことを思い出してくれるんじゃないかって、そう信じてるの」
日美香さんの寂しは理解できる。菊花を取り戻したい気持ちも、よくわかる。だけど、それが私の死をこれほどまでに強く望んでいい理由になるとは、思いたくない。
日美香さんがこうして、毎日、ずっと、二人の思い出を語るのは、思い出をきっかけにして記憶が戻ることを期待してのこと。
記憶を取り戻すことが死に直結している記憶喪失の私にとって、日美香さんのこの行動はナイフを突きつけているのと何も変わらない。
明確な殺意が、私に向けられている。比喩でもなんでもなく、日美香さんは私に消えてなくなってほしいのだから。
だって、日美香さんにとっては、私が消えることでしか、元の日常に戻る方法はないんだから。いや、日美香さんどころか、この世界中全てが、そうなのだ。私が消えることでしか、失ったものは元に戻らない。世界に愛されている菊花は帰って来ない。
でも、記憶を失った私に取っては全てが逆。取り戻すことで、存在の全てを失ってしまう。
立場が違うだけで、”記憶を取り戻す”ことの意味が逆転してしまう。そして、その差異を理解してくれる人はいない。理解しようとしてくれる人さえ、存在しない。
記憶がないから孤独なんじゃなくて、誰にも望まれていない心だから、私は生まれてからずっとひとりぼっち。
「いまは不安かもしれないけど、きっと元に戻れるから。それまで私がずっとそばにいるからね」
私を元気付けようとする、優しい言葉……なのだろう。側から見てもそうだろうから、そう思えない私が、きっと、おかしいんだ。
日美香さんの強い想いを、心強いと思えない私が悪いんだ。そんなことくらい、生まれた瞬間から、多数決で押し潰され続けている私が、一番よくわかっている。
でも、そんなこと、私には関係ない。誰がなんと言おうと私は私。元に戻るも何も、私は最初から”こう”だ……
「……別に私は戻らなくても……」
「そんなこと言っちゃダメ! 信じることをやめたら、できることもできなくなっちゃうよ!」
あぁ……日美香さんのこういうところが、やっぱり受け入れることができない。
直接、ちゃんと気持ちを言わない私にも問題があるのかもしれない。でも、こんな日美香さんに素直な気持ちを話す勇気、私にはないし、できる人がいるとはとても思えない。
私に不安があるとすれば、記憶が戻らないことではなく、”いつ”、”どの瞬間”、私の存在が消えてしまうかわからないこと。
こんなに存在が不安定な存在の気持ちなんて、この人たちにはわからないだろう。ちゃんと人生が続いている人たちになんて……わかってもらいたいとさえ、いまはもう思えない。
日美香さんの心に、私は映っていない。ずっと側にいるはずなのに、日美香さんは菊花のことしか見ていないし、考えていない。
こんな人に私の気持ちを話したところで、機嫌を悪くするだけ。それどころか、私のことを消えてほしい存在だと、より強く思う契機になるだけだとすら思う。
「……そう、だよね……ちゃんと戻るって信じないと、ダメだよね……」
「そうだよ! 不安になった時は、その度に私が支えるから! 二人で頑張ろう!」
日美香さんの気持ちが重い。私には勿体無いほどの好意と善意に、私への殺意を見出してしまうほどに。
日美香さんの想いを素直に嬉しいと思えない自分が嫌いだ。悪意なんてないとわかっているのに、傷付いてしまう自分自身が嫌いだ。
そして、私をこんな気持ちにさせる日美香さんのことが、嫌いだ。
菊花と同じように、同じ人を好きになれたらいいのに。日美香さんはある種無条件で、菊花ではない私を求めてくれているんだから、この人を好きになれたら、どれだけ楽だろう。幸せになれるだろう。
そう思うのに私の心は、一度として日美香さんに惹かれることはなくて、離れていく一方。
それでも、事故でボロボロになった体と、記憶のないこの人生を立て直すためには、婚約者である日美香さんが必要。だから、打算で心が通じ合っているように振る舞ってしまう。
さも、私も記憶を取り戻すことを望んでいるかのように。