《白紙の私に無題の道を  第4話 二度目の初恋》 作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

入院生活は二週間を超えた。ようやく事故の怪我が治り始めたこともあって、少しずつだけど体を動かす練習をするようになった。
体は少しずつ元に戻ろうとしているけど、記憶は相変わらず戻る前兆さえなく、菊花きくかを知らない無垢な私のまま。
誰にもこんなこと言えないけど、それが嬉しかった。体を動かせることなんかよりも、私の人生がまだ続いていることが。
二十一歳から始まったゼロからの人生。いつ起こるかわからない、記憶の再生と同時に終わってしまう不確かな人生だとしても、こうして二週間も生きていられたことが、何よりも幸福だった。
記憶を失うことで生まれた私は、”記憶を取り戻す”という再発可能性が極めて高い難病に侵されている。そんな儚い私が、いまもこうして存在できていることが、嬉しかった。

「今日はこんなものにしとこっか」
「うん」
立つ練習に付き添ってくれている日美香さんが、声をかけてくれる。
まだ病室の中で、日美香ひみかさんや、薫子かおるこさんに掴まりながら、少しずつ立つ練習をしている状態。
怪我の影響で、立とうとするだけで痛みが走るけど、このまま寝たままで過ごしていたら、筋肉が衰えていくから、動かさないわけにはいかない。
頭を強く打った影響で、運動機能にも影響が出ているみたいで、元に戻るまでの道のりは険しい。
「今日も頑張ったね」
「いつもすいません。迷惑かけてばかりで……」
「そんなこと言わないでよ。婦妻はっていうのは、支え合って生きていくものでしょ」
「……そうですよね……それでも、ありがとうございます」
日美香さんのことはどうしても好きになれない。だけど、本当に感謝している。それは紛れもない本心。
日美香さんの言葉は私を傷付けるけど、日美香さんの存在が支えになってくれているのもまた、確かだ。
もしもこうして私に会いに来てくれる人が、母親である薫子さんだけだったら、誰にも会えない日がどうしても生まれていた。
それがないのは、日美香さんのおかげ。日美香さんと薫子さんが、上手に予定を合わせてくれているから、私が一人きりになる日はこれまで一日としてなかった。
二人からの言葉がどれだけ辛いものだとしても、こうしてほぼ毎日会いに来てくれることは、素直に嬉しい。
それでも寂しさを感じてしまうのは、この優しさは私に向けられたものではなくて、菊花に向けられているものだから。
二人が優しいのは、菊花のことが大切だからであって、私が大切だからではない。それが……苦しい。
それに、菊花では決してない私が、二人の優しさをこうして受け取っているのは、詐欺のようだとも最近強く思う。
二人は私を菊花だと思っている。あるいは、思おうとしている。失った心の空白をごまかすために。私はそうした二人の複雑な気持ちに、背乗りしている。
意図してこうなったわけじゃないけど、結果的に菊花が築き上げたものを頼りに、二人を利用することになっているのは、申し訳ないと感じている。
日美香さんにも薫子さんにも悪いし、菊花にも私は悪いことをしている。
「冷蔵庫の水が切れてるから、買ってこようと思うんだけど、何か他にほしいものある?」
「特にありません。ありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくていいのに。それじゃ、行ってくるね」
今朝からずっと一緒にいた日美香さんが、今日初めて私から離れる。
そして訪れる、一人きりの時間。日美香さんと薫子さんが会いに来てくれるのは嬉しい。私は幸せ者だと思っている。それでも、こうして一人きりの時間が訪れると、この方が楽だと思ってしまう。
親しい人だけじゃなくて、私はお医者さんや看護師さんにまで、菊花であることを望まれている。そんな私が、菊花でなければならない重圧から解放されるのは、一人きりでいられるこの時間だけ。
こうして色々お世話になっている身でこんなことを思っちゃいけないことはわかっている。わかっているけど……こうして一人ぼっちでいられる時間が、私には必要だった。
誰かの助けを借りなくては生きていけないいまの私が、自分の気持ちを吐露できるのは、一人きりの間だけ。
一昨日から始まったリハビリは、辛い。純粋に痛いし、衰えた体を無理矢理動かさないといけないのは、言葉にできないほど疲れる。
それでも、これが自分のためになるのなら耐えられた。だけど、記憶喪失の私に限っては、自分のためにならない。
私がリハビリを頑張って、事故に遭う前と同じ状態に戻れたとして、もし記憶が戻ってしまえば、私の頑張りの全てを、菊花に奪われてしまう。
痛い思いをしたのも、辛い思いをしたのも、全て私なのに、成果を全て菊花に奪われてしまう。その可能性が高い中で、リハビリに全力を出すなんて、とてもじゃないけどできない。
確かに私は菊花の遺産のおかげで、なんとか生かされている。それはわかっているけど、だからって、私と言う存在も、頑張りさえも、全て根こそぎ菊花に奪われると半ば約束されている状況で、どうして頑張れるだろう。
私がすること全てに、意味なんてない。だって、私という存在それ自体が、この世界で酷く曖昧な状態で揺らいでいるんだから。

そんなことを考えていたら、扉が開く音がした。日美香さんが戻って来たにしては、あまりにも早い。だから、彼女ではない。
おそらく、菊花の友達の誰かということになる。本音を言うと、もう少し一人にしてほしかった。
「よっ、久しぶり」
でも、そんな後ろ向きな気持ちは、訪ねて来た人の声を聞いた瞬間に吹き飛んでしまった。
「お久しぶりです、蓮さん!」
「覚えててくれたんだ。菊花の友達が、一度にたくさん押しかけてるから、もしかしたら覚えてもらえてないかもって心配してたんだけど」
「そりゃ、覚えてますよ」
苦しくて、険しくて、慌ただしい毎日の繰り返しに押し潰されて、こうして顔を見るまで蓮さんの存在を忘れていた。
私を菊花ではなく、ただの人間として見てくれる人がいてくれることも含めて。蓮さんはこうしてまた私に会いに来てくれたのだから、私はずっと一人じゃなかったのに。
一人ぼっちだと絶望していた私は、蓮さんに対してなんと不実なんだろう。
「リハビリが始まったって日美香から聞いたから、会いに来たんだけど、迷惑じゃなかった?」
「迷惑なんてことないです! 会いに来てくれて嬉しいです!」
「なら、よかった」
日美香さんや薫子さんがそうするように、蓮さんもベッドのすぐそばにある椅子に座る。
ここに人が座る度に、胸が締め上げられるような感触が走る。それはここに人が座るということは、菊花であることを求める言葉を耳元で浴びせられることとイコールだから。
でも、蓮さんが座っても、胸が締め付けられることはなかった。
「最近はどんな感じ?」
「ちょっと大変です。リハビリは痛いし、苦しいし……それに……」
「それ以外にも辛いことがあるの?」
勢い余って、自分の気持ちが飛び出してしまいそうになる。蓮さんとは前回、ほんの二十分くらい会話をしただけの関係でしかない。
菊花ではない私と蓮さんの関係は、ただの他人。それなのに、私は蓮さんに話したくなっている。
蓮さんは、この世界のどこにも居場所のない私の感情を、受け止めてくれる唯一人。だから、本当はちゃんと同じ時間を重ねることで、関係を積み重ねてからじゃないといけないのに、この孤独な心を溢れさせたくなってしまう。
こんなにも菊花であることを当然視されて、死ぬことを望まれているんだから、少しくらい菊花が積み重ねた関係に甘えても許されるんじゃないかって……
「いまは辛い時期なんだからさ、遠慮せずに言っちゃいなよ。こういうことを言われると君は嫌だろうけど、菊花とは友達だったから、放って置けないよ」
そんな言い方、ずるい。私と菊花をちゃんと分けて考えてくれる人に、こんなことを言われたら……いまの私は耐えられない……
「…………わかってもらえるかわからないですけど、リハビリをどれだけ頑張っても報われる気がしなくて……」
言ってしまった。ついに、口にしてしまった。この世界に居場所なんてない私が、誰にも必要とされていない私が、思うことすら許されていない感情を。
「どうして? やっぱり、怪我が酷くて、回復する希望が持てない感じ?」
「そういうことではなくて……こんなこと言われても困ると思うんですけど……記憶が戻ったら、私、消えちゃうと思うんです。菊花の一部になるのか、私の全てが消えるのかはわからないですけど……菊花が事故に遭ったのに、その痛みも、後遺症も、私がたくさん頑張って治しても、全部菊花に奪われるんだったら、頑張る意味ってなんだろうって……つい、そう考えちゃうんです……」
気付いたら、これまで抱えていた感情が言霊になり、堰を切ったように一呼吸で溢れ出していた。
そして、全てが手遅れであることを、病室を包み込む静寂が教えてくれる。
こんな気持ち、誰にもわかってもらえないことなんて、わかっていたはずなのに。受け入れてもらえるはずがないと、知っていたのに。
「なら、頑張らなくていいんじゃない? 記憶が戻る可能性がどれくらいなのか私にはわからないけど、自分の頑張りが全部他人に奪われるのがわかってる状態で頑張るのは、そりゃキツいって」
ほぼ初対面の相手にこんなことを話して、うんざりされたと思っていた。でも、そんなことなかった。蓮さんは、私が夢見ていたよりも温かい言葉をくれた。
どうして、蓮さんはこんなに優しんだろう。私の気持ちをわかってくれるんだろう。
薫子さんも、日美香さんも、菊花の友達も、お医者さんたちも、菊花のことが大切で大切で仕方がなくて、だから私が存在していることにさえ気付いてくれない。
菊花ではない私がいることを理解した上で、私に”死ね”と言うのなら、まだ耐えられる。菊花と私を比べて、菊花が大切だから、”私と菊花の命を交換しろ”と命令されるのなら、譲歩できる。
だけど、誰一人として、私の存在にすら気付かないまま、善意で私に死を望み、心を踏む。それは、悪意なんかよりもよっぽど残酷。
そんな世界の中で、蓮さんだけが、私の存在を認めてくれる。蓮さんだって菊花と友達だったはずなのに、いま存在している私のことを見てくれる。他人のために自分を犠牲にしなくてもいいとまで、言ってくれる。
「……どうして、蓮さんはそんなに優しいんですか? 実は、菊花のことがそんなに好きじゃなかったんですか?」
「鋭いね。菊花の底抜けに明るいところが、ちょっと苦手だった。だから、いまの君の方が話しやすくて好みかな。まぁ、一番は、目の前にいる人の気持ちが、尊重されるべきだと思うからだけどね」
正直な人だと思う。ここでわざわざ菊花のことが苦手だったことを言う必要はなかった。後半の部分だけで、どう考えても充分だった。
むしろ、後半部分だけの方が、私の胸はときめいたはず。その方が、私のことを純粋に見てくれているということだから。
でも、蓮さんはそれをしなかった。いくら菊花と私を切り分けてくれていても、重ねてしまう部分があることを、隠さないでいてくれる。
そんな飾らない、誠実であろうとしてくれる蓮さんだから……出会ったばかりなのに、私は蓮さんにどうしようもなく惹かれてしまう。
「私が菊花のこと苦手だったってことは、日美香には内緒ね」
「私が記憶を取り戻したくないってことを、みんなに黙っておいてくれるのなら、構いませんよ」
「交換条件とは、なかなかに狡猾だね」
婚約者である日美香さんとも、母親である薫子さんとも、私は会話ができない。私に菊花であることを強く求めてしまう二人とは、心が通うことがないから。
でも、蓮さんとなら、こうしてちょっぴり過激な冗談を交えた会話ができる。私を私だと見ようとしてくれる蓮さんとなら、心が通うから。

ごめんなさい。誰にかはわからないけど、心の中で謝っていた。菊花には日美香さんという結婚を約束した相手がいて、私にもその約束は引き継がれている。
なのに、私は別の女性に惹かれている。蓮さんと出会って、やっと心の内を打ち明けられたのに……また、隠さないといけない感情が増えてしまった。
いつ消えてしまうかもわからない、不安定な私の恋心。婚約者がいる私の恋心。こんなものを知ってしまったら、蓮さんを困らせてしまう。
日美香さんと蓮さんは、見たところ親しい友人同士。もしも私から蓮さんへの想いを日美香さんに知られたら、二人の仲まで引き裂いてしまう。
だから、この恋は、閉じ込めておかないといけない。それは菊花のためでもなければ、自分自身のためでもない。
好きになった人のため。世界でただ一人、私に優しくしてくれた蓮さんに迷惑をかけないために…‥この恋は、報われちゃいけない。