蓮さんが来てくれない。最後に蓮さんと会ってから二週間以上経っているのに。
わかっている。蓮さんにとって私は、友達ですらないってことくらい。
蓮さんと友達だったのは菊花であって、私とではない。蓮さんは私を菊花
ではないとわかってくれているからこそ、私に会いに行く理由がない。
むしろ、会いに行く必要なんてないのに、二度も会いに来てくれた奇跡に感謝しないといけない。
私が入院した直後は、菊花の友達が会いに来てくれたけど、それもなくなって久しい。
記憶を失い、全く話の合わない友達に会ったって、面白くない。大怪我だけでも気を使うのに、記憶までないなんて、どう接すればいいのか、当事者である私自身でさえよくわからないくらいなのに。
そう考えると、蓮さんはどうして二回も会いに来てくれたんだろう。そこには理由があるはずだけど、蓮さんと二回会っただけの私にはわからない。
蓮さんとは昔からの友達らしい日美香
さんに聞けばわかるかもしれないけど、彼女の前で蓮さんの名前を出すことは、強い抵抗感がある。
菊花の婚約者であり、入院生活を支えてくれている日美香さんではなく、蓮さんに恋をしている不実な私。こんな状態で彼女の名前を口に出したら、態度に出てしまうと思う。
私が日美香さんのことを好きでないことが。私は菊花じゃないけど、同じ肉体を共有しているから、心にまで誓約がかかる。
記憶喪失である私に、自由はない。事故に遭ってから一ヶ月が経って、そろそろリハビリの成果が出始め、病室の中くらいならある程度動けるようになった。
肉体はベッドから解き放たれようとしているけど、私の心は菊花に縛り付けられたまま、微動だにできないまま。
「菊花、最近元気ないね」
「そうでしょうか。そうかも、しれません」
ベッドの脇にある椅子に座っている日美香さんが、菊花を心配して、声をかけてくる。
入院から一ヶ月が経っても、まだ日美香さんは毎日のように私に……いや、菊花を求めて、会いに来る。
彼女の助けがなければ、私は病室の中を自力で歩くことはできなかった。できたとしても、何ヶ月も先になっていた。
だから本当に感謝している。そのはずなのに、未だに日美香さんを好きになることができない。
日美香さんが菊花を好きだからじゃない。日美香さんが菊花を好きなだけなら、私はただ片思いをすればいいだけ。私は、片思いすらできていない。
「菊花らしくないなー。元気出していこ、げんきー」
お世話になっているのはわかっている。感謝もしているし、本当にありがたいと思っている。それでも、こういう無神経さを、どうしても許容することができない。
私に記憶がないことは、誰よりもわかっているはずなのに。一ヶ月もこの状態の私と一緒にいたら、菊花と同一視されることに、耐え難いストレスを感じていることに気付いてくれたっていいのに。
私と一ヶ月も一緒にいるのに、日美香さんは私の心に思い至ることはなく、日美香さん自身が望む菊花を押し付けてくる。
「……私には菊花の記憶がないので、そういうのは難しいです……」
「大怪我して、満足に動けないから暗くなっちゃうだけだと思うけどなー。いくら菊花でも、さすがにここまでされたら、ヘコんでも仕方ないって」
日美香さんは私が菊花であると、絶対に譲らない。それは、愛する人を突然記憶喪失という形で失った日美香さんなりの、悲しさからの逃避であることは理解している。
でも、理解できることと受け入れることは、同じではない。理解できることと納得できないことは、両立する。
そんなに嫌なら、やめてほしいと言えたらいいのに……日美香さんのお世話になりすぎているのは現実だし、日美香さんの助けなしでは生きていけないこともまた確かだから、打算でお互いが不幸になる関係を維持してしまう。
「体が治っても、話に聞く菊花と同じ考え方ができるとは、思えないですけど」
「記憶が戻れば、また昔みたいに、どんなことでも笑い飛ばせる菊花に戻れるよ。それまで私が何があっても支えるから、安心してね」
そう言って優しく微笑む日美香さんに、言葉にならない悍ましさを感じる私は、日美香さんが遠回しに言うように、マイナス思考すぎるのだろう。
だとしても、それが私だ。物事を良い方向へ考えることは良いことで、悪い方向に考えるのは悪いこと。そんな風に私を否定して、菊花を求めてくるのは、理不尽だと思う。
日美香さんが私を否定するのは、事故から一ヶ月が経ったいまも、無自覚のまま。そのせいでなおさら、理不尽だと感じる。
日美香さんは、どんなことがあっても、私が私でなくなり、菊花に戻るまで、ずっと”そば”にいる。二十四時間、一秒として休むことなく、私への呪詛を囁きながら。
「久しぶり……って、日美香も一緒だったか……」
日美香さんと毎日ずっと一緒にいる息苦しさに、溺死しかけていると、なんの前触れもなく、蓮さんが病室の扉を開けた。
文字通り恋焦がれていた人だから、まだちゃんと立ち上がって歩けるわけでもないのに、ベッドから立ち上がって、駆け寄りそうになる。
「来るなら連絡くれればいいのにー」
「手が離せない日美香の分の、ノートを取って、コピーして、それを渡しにきたようなものだから、わざわざ連絡しなかったんだけど……」
日美香さんに大学の課題を渡しにきた。そう言われて、胸が必要以上に痛むのを感じる。
他の人なら、他の菊花の友達になら、全く同じことを言われても、なんとも思わない。蓮さんだから、私に会いに来る以外の目的があったことを、切なく感じてしまう。
「二人の邪魔をするのも悪いし、お邪魔なら退散しようか?」
「邪魔なんてことないです! ……入ってください……」
勇み足で、しかも自分で思っていたよりも上ずった声が出て、なんだか恥ずかしい。
私に会いに来たわけじゃないなら、引き止めないと帰ってしまうと思ったのも、声が変な感じになった大きな要因。
「そ、そう。なら、お邪魔させてもらおうかな」
私の声に困惑している蓮さんを見ると、私まで恥ずかしくなってくる。
「蓮と私たちの仲なんだから、遠慮することないって」
「状況が状況だから、躊躇うって……」
私が知っている人の中で、遠慮しないでほしいと思える相手は、蓮さんだけ。でも、そういう思慮深いところが好きになった理由だから、蓮さんは一歩引いてしまう。
世の中、ままならないことばかりだ。少しくらい距離をとってくれたらと思う人はぐいぐい来るのに、もっとそばにいてほしい人は一歩引いたまま。
私が勇気を出して一言、日美香さんと蓮さんに伝えれば、解決するのだろうか。それとも、菊花の偽物でしかない私には、
「菊花だって蓮が相手なら気にしないよね?」
そう言って、屈託のない表情で日美香さんが、私を見つめる。
こんな簡単な質問に、私は答えることができなかった。気にしない。それどころか、毎日でも会いに来てほしい。そう答えたいのに、私の気持ちを伝えるには、日美香さんが邪魔だった。
私の気持ちは、日美香さんと蓮さんと菊花の関係を破壊してしまうものだから。そして、それだけじゃなくて、”菊花”と聞かれていることも、答えを難しくさせる。
だって、私は菊花ではないから。菊花ではない私が、菊花への質問に答えることは道理に反する。
普段なら気にしないけど、蓮さんの前で菊花らしく振る舞うことはしたくなかった。
他の人の前で菊花のフリをするのは諦めているけど、蓮さんの前でだけは、私であることを諦めたくなかったから。
「私とは今日で会うのは三回目なんだから、こんなこと聞かれても答え辛いよな?」
「えぇ、まぁ……」
「二人とも変なの。大学で毎日顔合わせてたのにー」
ああ……やっぱり、私と日美香さんは、全然合わない。何一つ心が噛み合うことがない。蓮さんとはこうして、ささいなことまで心が合うのに。
だから、こんな酷いことを考えてしまう。本当に菊花と日美香さんと蓮さんの三人は仲が良かったのかなって。
菊花がどんな人なのかは伝聞でしか知らないけど、日美香さんと蓮さんは知っている。だから、その三人が仲良くできる風景が見えない。
日美香さんのような無神経を明るさと勘違いしている人と、蓮さんみたいに相手のことを考えて、その上で前向きに物事を捉える人は正反対だから。
私には、蓮さんは日美香さんのようなタイプの人間に、無意識に踏み躙られ続けるんじゃないかと思えてならない。私が同じ目に遭うのはまだいい。でも、許されない片思いだとしても、大好きな蓮さんが傷付けられるのは、我慢できない。
「それより、日美香は大丈夫なのか? 最近ずっと、大学にもあんまり来てないし、単位もそうだけど、精神的に」
「平気平気。好きでしてることだから」
「それでも、今日はずっと付きっきりだったんだろ?」
「まぁね。もしかして、心配してくれてる?」
「そりゃね。私が見てるから、ちょっと外に出て、休んできたらどうだ」
「それじゃ、蓮に甘えようかな。菊花は私がいなくても大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
「じゃ、三十分くらい、外に出かけようかな」
私は菊花と違って良い子じゃないから、三十分なんて遠慮しないで、明日まで帰って来なければ良いのにと、そう思ってしまう。
そして、蓮さんの提案は日美香さんを気遣ってのことだと頭では理解しているのに、私と二人きりになるためなんじゃないかと、つい期待したくなってしまう。