二週間ぶりに訪れた、蓮さんと二人きりの時間。二人きりがたった三十分しか続かないと考えるだけで、胸が苦しくなってくるくらい、大切な時間。
この世界で唯一、私のことを菊花ではない私として見てくれる人との、かけがえのない時間。
次いつ会えるかわからないから、いまを噛み締めないと……
「君がずっと黙ってるなんて珍しいね」
「そう、かもしれません……何を話せばいいのかわからなくて……」
この二週間、ずっと待ち焦がれていて、もう二度と会えないとさえ考えていた蓮さんとの時間。
何度も何度も、夢想した光景。数えきれないほど繰り返した、空想の蓮さんとの会話。それが邪魔をする。
あまりにも脳内で繰り返しすぎたせいで、どの話題が本当に盛り上がる話題かわからない。そして、あまりにも蓮さんを意識しすぎて、言葉を切り出すことができない。
日美香さんとの時間も気不味いけど、蓮さんとの方がずっと気不味い。蓮さんのことがあまりにも好きすぎて、ふとした拍子に、心が溢れてしまいそうで……今日の天気について話すことさえ、躊躇ってしまう。
「日美香との時間を邪魔しちゃったかな?」
「いえ! ……そんなこと、ないです……」
またしても、自分で予定していたよりも感情が出てしまう。普段、自分を押さえ込んでいるからか、蓮さんの前だとおかしくなってしまう。
前回会った時はまだ恋を自覚していなかったから堪えられたけど、いまはそんな簡単なことができない。
生後一ヶ月の、初恋しか知らない私には、この感情をどう扱えばよいのか、全然わからない。
「そんなに強く否定しなくても、どこにも行ったりしないって」
「そう、ですよね。すいません……」
こんな感覚は、初めて。自分が自分でないような、ふわふわとした感覚。
記憶をなくした直後でさえ、私はちゃんと私だったのに。いまは自分という定義の足元さえ、全く覚束ない。
「今日、なんか変だよ、大丈夫?」
「どう、でしょう……大丈夫では、ないかもしれません……」
この気持ちを抑えないといけない。そう思っているのに、想いの欠片が突き刺さった言葉が溢れ出して止まらない。
菊花を中心に回る世界に、この恋を知られてしまえば、全てが壊れてしまうと、私はわかっている。だから浅ましい私は、この中途半端な言葉で、蓮さんが察してくれないかと期待している。
本来なら秘めることさえ許されていない恋だとしても、優しい蓮さんなら察して、受け止めてくれそうだから。
「そりゃ、入院生活の経験しかないとしても、こんなのが一ヶ月も続けば参ると思うよ。よく頑張ってるよ、君は」
「蓮さんが言ってくれた通り、ほどほどにですけどね」
どうせ私がリハビリを頑張ったところで、いつの日か菊花に成果を奪われてしまう。だから頑張らなくても良いと言ってくれた蓮さん。
蓮さんは気付いているだろうか。あの言葉に、私がどれだけ救われたかを。
「回復してるんだから、程々ってことはないと思うけどな」
「蓮さんは優しいですね」
「普通のことだと思うけど」
「普通のことを言ってもらえるのが、嬉しいんです」
蓮さんの言葉だから。そう伝えられたら、どれだけ楽だろう。この胸の高鳴りを、ずっと内側に閉じ込めておくのは、とても苦しい。
でも、躊躇ってしまう。蓮さんは私にとって特別な存在であることを。どうして、”好き”というたった二音の単語を、言葉にすることができないんだろう。
菊花の人生に縛られているから? それとも、恋とはそういうものだから? 私にはわからない。他人の人生を生きることを、こうも激しく強要される生き方しか知らないから。
この胸の苦しみが、菊花であることを強いられる痛みか、それとも恋の痛みか。蓮さんは私に、菊花でいる必要のない時間をくれたけど、痛みの見分け方までは教えてくれなかった。
聞けば教えてくれるんだろうか。
「…………ねえ、その、私の勘違いだったら悪いんだけど、何か、私に言いたいことでもある?」
ついに、聞かれてしまった。だけど、聞かれることを密かに期待していた。
蓮さんから聞いてもらえたら、好きだって言える気がしたから。でも、現実はそんなことなくて、言えそうで言えないまま。
「……どうしてですか?」
「だって、さっきから挙動不審だし、私の目を見て喋ってくれないから」
「それは、その……」
いっそ言ってしまおうか。私を取り巻く世界の全てが壊れてしまうとしても。
どうせ、私はこの世界に居場所なんてないんだから。私が生きた証も、私が犯した罪も、記憶を取り戻してしまえば全て消えてなくなってしまうのだから。
そう思っているのに、できない。自分一人だけの問題なら、簡単に言えた。禁断の恋を宣言しようとしまいと、世界は私の死を望んでいることに変化はない。
できないのは、蓮さんを巻き込んでしまうから。私の告白は、蓮さんを困らせてしまう。近い将来、私という存在は菊花に上書きされて消える。
そんな私との恋なんて、あまりにも報われなさすぎる。おまけに私は、菊花の婚約の責任まで負わされている。
私自身ではなく、蓮さんのために、言えない。そこまでわかっているのに……好きな人を困らせることになるとわかりきっているのに、この想いが溢れ出すのを止められそうになかった。
「もしかして……日美香を好きになっても、菊花に奪われることが辛いの?」
「違います! 蓮さんが好きなんです!」
私の死を望む日美香さんへ好意を抱いているなんて、そんな著しい勘違いをされていたことが耐えられなくて、気付くと感情が溢れていた。
恋を言えた。それが嬉しかったのは最初だけで、瞬く間に、迸る後悔に心が呑み込まれる。
どんな顔で蓮さんを見れば良いのかわからなくて、俯いたまま、顔を動かすことができない。
それでも、勇気を出して蓮さんを見ると……そこには当惑している蓮さんではなく、怒りに打ち震えている蓮さんがいた。
鈍い私は、ようやく気付いた。いまのいままで、自分の気持ちで精一杯で、蓮さん自身を見ようとしていなかったことに。そして、今更気付いたところで、全て手遅れ。
蓮さんは……日美香さんのことが好きなのだ。きっと、昔からずっと好きだった。
私には推測することしかできないけど、きっと蓮さんは日美香さんを諦めたんだろう。日美香さんの恋人になりたかったはずなのに、菊花が日美香さんの恋人になったから。
日美香さんの友達で手を打つことにした。それなのに私は、知らなかったとはいえ、蓮さんの気持ちなんて考えもせず、蓮さんが好きな日美香さんではなく、蓮さんに告白してしまった。
「……日美香さんのことが……ずっと好きだったんですか……」
「……あんたに見抜かれるのは、これで二回目だね」
蓮さんの気持ちを菊花は知っていた。でも、蓮さんと日美香さんの口ぶりを見るに、蓮さんの想いを知らないのは、日美香さんだけ。
菊花と蓮さんはどんな関係だった? 出揃っている情報で判断するなら、仲が良いわけがない。でも、菊花は蓮さんの想いを知って、わざわざ確認を取ったということは、この三人で一緒に過ごしていて、どこかのタイミングで気付いたということ。
菊花の性格なんてわかりたくなんてないけど同じ脳だから、想像が及ぶことはある。きっと菊花は、蓮さんの想いを知った上で、蓮さんの分まで日美香さんを愛すると決めたのだろう。
だとしたら私は……菊花に縛られて生きるのなんて、絶対に嫌だ。誰になんと言われようとも、世界に呪われようとも、私は私だから。
でも、好きになった蓮さんが、私を私として見てくれた蓮さんが、菊花が相手ならと日美香を諦めてくれたんだから、その決断を踏み躙りたくない。
これは誰に決められたわけでもない、私の想い。私がそうしたいから、そうする。
「……さっき言ったこと、忘れてください。私、ちゃんと日美香さんと結ばれ……」
「ふざけないで!」
日美香さんと結ばれる。その誓いが言葉になることはなかった。これまであんなに優しく、穏やかだった蓮さんが声を荒げ、私の首元を掴んで、ベッドに押し倒してきたから。
「私を哀れんでるわけ!? それで、日美香が好きなのに、日美香と結ばれることができなくて、だからあなたとも結ばれることもできない私があんまりにも可哀想だから、あなたが我慢して日美香と結ばれるって!?」
いま目の前にいる人が、あんなに私を気遣い、言葉を選んでくれていた蓮さんと同じとは思えなかった。
全力でベッドに押さえつけられていることで、事故の怪我が治りきっていない全身が、悲鳴をあげる。
でも、抵抗することはできない。怪我のせいというのもあるけど、それ以上に、蓮さんのありったけの想いを、これまで堪えてきた想いを、受け止めないといけないと思ったから。
「生まれ変わっても、身勝手なまま! 何も変わってない! うんざりする! 私から日美香を奪っておいて、次は私を好きになったって……良い加減にしてよっ! っ…………」
そこまで口にして、蓮さんの表情が固まった。感情のまま私を押し倒して、あらん限りの罵倒をして。冷静さを取り戻したことで、自分がしでかしたことを理解したかのように。
でも、そんな蓮さんの自己嫌悪に満ちた表情に反して、私は蓮さんに嫌悪感なんて微塵も抱いていなかった。
むしろ、大好きな蓮さんの想いを聞くことができて、嬉しいくらい。
私と菊花を重ねてしまうことも、そりゃ仕方ない。むしろ、重ねてしまいそうな自分を抑えようとしてくれていたことがはっきりとわかって、嬉しかった。
自分がずっと好きだった人を奪った菊花が、記憶を失った途端に自分のことを好きになったなんて伝えてきたら、冷静でいるなんて無理なことくらい、わかっている。
だから、蓮さんは悪くない。蓮さんがそんな顔をしないといけない理由なんて、どこにもない。
「ただいまー。やっぱり、菊花のことが心配で、ちょっと早く帰って……」
あぁ……なんて……なんて空気が読めない人なんだろう。日美香さんはいつだってそうだ。無意識なのはわかっているし、今回のことだって、彼女の責任でないこともわかっている。
だけど、それでも、いくらなんでも間が悪すぎる。あと十分……いや、五分あれば、この最悪の状況を脱することができたかもしれないのに……
「……れ、蓮? 菊花に、な、何してるの? まだ骨だって完全には治ってないって、言ったよね!? 何考えて……」
「蓮さんは悪くないんです! だから、責めないであげてください!」
「なんで菊花が蓮を庇うの? 暴力を振るわれた側でしょ!?」
出掛けて帰ってきたら、蓮さんが私をベッドに押さえつけている場面に出くわして、状況を俯瞰して見てほしいと願うことが酷であるのはわかる。
それでも、考えてほしい。こんなこと、理由もなく起こったはずがないことに。何がどうなってこうなったのか、想像力を働かせてほしい。
でも、日美香さんに想像力がないことくらい、わかっている。蓮さんは確かに私に暴力を振るった。それは変えようのない事実。でも、それは日美香さんだって変わらない。
いや、日美香さんの方が遥かに暴力的だった。蓮さんは私の死を望んではいない。ただ、不満を言いたかっただけ。でも、日美香さんは違う。日美香さんは、私に死んでほしかった。ずっとずっと、毎日毎日、耳元で私に死んでほしいと、囁き続けていた。
その暴力がわからないなんて……根本的に私とは合わない。同じ脳を共有している菊花が、日美香さんとの結婚を考えていたことが信じられないくらい、脳の構造からして合わない。
「……ごめん、本当にごめん……帰るね……」
そう言い残して、蓮さんは私の上から立ち上がって、病室から出て行こうとする。
「なに説明もなしで出て行こうとしてるの!?」
「ごめん日美香……いまは無理……」
出口を塞ぐ日美香さんを押し退けて、蓮さんは病室を出ていく。あんなに一緒にいたくて仕方なかった蓮さんだけど、いまだけは引き止めたくはならなかった。
「大丈夫、菊花!? 怪我してない!?」
心配してくれている日美香さんのことは、全く頭に入ってこない。私は、私自身への心配よりも、蓮さんの方がよほど気がかりだった。
事故で壊れた私の体は治っていない。だから、こんなことをされたら、怪我が悪化してしまうかもしれない。つまり、すごく怒って、傷付かないといけない。
なのに私は……あろうことか、幸せだった。蓮さんは菊花にずっと好きだった人を奪われたのに、私が自分を犠牲にしようとすることに怒ってくれたから。
蓮さんが本気で怒ったのは、私が蓮さんに告白した瞬間ではなくて、私が自分の心を無碍に扱ったから。
蓮さんは本当に優しい。これでどうして、好きにならずにいられるだろう。今日のことで、私はもっともっと、蓮さんのことを好きになってしまった。
でも、この恋が彼女のことを、たくさんたくさん傷付けてしまった。私が告白しなければ、蓮さんは日美香さんと”友達”ではいられたのに、私のせいでそれも叶わなくなってしまった。
私が事情を説明したら、短絡的というか、自分の視点でしか物事を考えることのできない日美香さんは、蓮さんが私を寝取った、みたいな謎の解釈をするだろうから。
私はこれから、どうやって蓮さんに償えば良いんだろう。そもそも、償う機会がやってくるかさえ……
だからせめて、今日のことで日美香さんが蓮さんを責めないように、できることをすることくらいしか、いまは思いつかない。