菊花の突拍子のない提案から一週間。私の日常には、何一つとして変化がなかった。
大学に通い、バイトをしたり、友達と遊んだり。そうしたいつも通りが繰り返される。私と日美香と菊花の関係も同じ。あんな普通ではあり得ない提案をしたのに、菊花の振る舞いは、いつも通りだ。
今日もそれは変わらない。週末の晴れた日曜日。私は、日美香と菊花のデートに誘われて、同席している。
私が二人の間に割り込んでも、あまり物事を気にしない日美香は当然として、菊花すら文句一つ口にしない。それどころか、以前よりも楽しそうにしているようにすら見える。
私に対して、できる限りのことはしたから、肩の荷が降りた……という感じにも見えない。
菊花の行動が謎すぎる。あんなとんでもないことを言っておいて、その提案を押し付けることもない。かといって、断ったんだからもう二人の邪魔をしないで、というようなことにもならない。
菊花の目的地がわからない。彼女が最近楽しそうにしている姿も、心に刺さっていたものがなくなったのではなく、ただ単に三人一緒に過ごすことが楽しくて仕方がない、というようにしか私には見えない。
日美香と二人ならわかる。日美香と誰かの三人でもわかる。でも、私との三人はあり得ない。私から菊花への対応は塩というレベルを超越している。
そのはずなのに、菊花はニコニコ楽しそうにしている。
「やっぱり、蓮を誘って正解だったね」
「そうだね」
歩道を歩いている日美香の言葉に、菊花が同意する。その心中が、どうやっても理解できない。
「私……邪魔じゃない?」
「蓮に限ってそれはないよー」
日美香はいつものように明るく笑ってくれる。この病的な鈍さに、私はこれまで救われてきて、いまも救われている。私と菊花の間に流れるおかしな空気を、日美香は吸うことがない。
「やっぱり、気不味い?」
なぜ、菊花はこんなことを言えるんだろう。そんなの気不味いに決まっているだろう。それでも私は、日美香が私の知らないところで菊花を好きになっていくことを許せなくて、こうしている。
「二人が受け入れてくれてるから、全然」
そうした感情が混ざり合い、口から出た言葉は、嘘のようでもあり、本当のようでもあった。
自分でもよくわからない。だけど、この状況を気不味いと感じる自分と、どこか居心地が良いと感じる自分もいて……
日美香にはずっと伝えられなかった想いを知られないまま。それでいて、日美香を突然奪った菊花には、私の想いが伝わっていて、私には理解ができない角度からではあるけど、気を遣ってもらえている。
だから意外と、悪くない気分なのかもしれない。そう思うと、私はとても醜悪な人間だと思う。
「いつか蓮にも恋人ができて、ダブルデートとかする機会もあるのかな?」
「どうだろうね」
相変わらずあまりにも鈍い日美香の発言に、菊花は私に気を遣って、相槌を打ってくれる。
菊花の振る舞いは狂っているとすら感じる。でも、清らかにさえ感じてしまう。
自分の気持ち以上に、菊花のことがわからない。どうしてこんなことをするのか。こんなことができてしまうのか。何一つわからない。
でも、そういうところが羨ましい。自分が正しいと思えたことを、まっすぐに、いつでもどこでもできるところが。
それにしても、菊花の提案を受け入れていたら、この状況はダブルデートなのだろうか? それとも、二人の組み合わせを三組作れるからトリプルデート?
とにかく、悍ましいこと、この上ない。菊花の発想もだけど、それ以上に、あんなことを言われたのに……菊花にだけ、日美香への想いがバレているとわかっていながら、二人のデートに「せっかくならついてくる?」と菊花に聞かれて、頷いてしまった自分自身が。
「私は、四人目は必要ないと思うけど」
「確かに、この三人は案外バランス悪くないのかもね」
ダブルデートというものの何が楽しいのか想像すらできないこともあって、三人が良いと口に出てしまう。
その取り繕ったような言葉に、日美香が同意してくれたからなのか、この三人が確かに良いと感じてしまう自分がいる。
ここに四人目がいることなんて、考えたくないし、いまさら日美香と二人きりが良いとも、どうしてか思えない。
大学に入るまでは、確かに二人きりが良かったはずなのに。この全てが気に触る菊花がいる方が、いまではしっくりときてしまう。
いまからでも遅くない。菊花の提案を受け入れることが正しいと思う。
菊花は優しいから、気にしないだろう。日美香はこんな調子だから、まぁ、大丈夫だろう。結局、三人一緒を受け入れることができていないのは、私だけ。
いまからでも正しい道に戻ることは可能なのに……三人一緒に、付き合うルートに入り直すことはできるのに……それができない。
菊花の施しを受けたくないという、ちっぽけなプライドが邪魔をして、正しい選択の邪魔をする。
思えば私の人生はこんなことばかりだった。日美香に告白するチャンスは何度もあったし、日美香と違う進路を選んでも一緒にいることだってできたはずなのに、気持ちを言葉にすることを恐れて、日美香と同じ進路にしたり。
自分自身でさえも納得のできない感情が正解を遠ざけ、単純な課題をわざわざ複雑な問題に変身させる。そんなことを繰り返して、ここまで来てしまった。そしてその悪癖は、きっとこれからも治らない。
人の行動が人との出会い程度で、変化するわけがない。私は、日美香との関係をこれ以上進展させることができないまま、二人の結婚を親友として見守り、そしてたまに三人一緒に遊ぶことに、それなりの心地の良さを感じたりして生きていくんだろう。
それが、勇気のない、妥協だけで生きてきた私に相応しい人生なのかもしれない。
「ずっと三人一緒にいられるといいねー」
日美香の何気ない、本心からの言葉。そのあまりにも明るすぎる感情は、私の心に洞窟の中よりも深い影を作る。
三人一緒が良いと言ってくれるのなら、思ってくれているのなら、どうしてあなたは、私を置きざりにするようなことを……菊花に告白したのだろう。
私は何があってもずっと一緒にいられると思ったから? 菊花はちゃんと恋人や家族として繋いでおかないと、どこか遠くに行っちゃいそうだった?
日美香に直接聞けば、きっと答えてくれる。でも、私から聞かない限り、その答えは永遠にわからない。日美香が私の心を察して、答えを教えてくれるなんて絶対にあり得ないから。
「私は新参者だけど、私も叶うのならずっと三人一緒がいいな」
「ねー」
菊花の含みがある言葉にも、日美香は相変わらず無反応。しかし、こんな遠回しな言い方で、三人で付き合おうという提案だと理解するのは、エスパーでもないと不可能だとも思う。
世界には一婦多妻の文化もあるけど、それは一人が立場として突出していて、他を引き連れているという感じ。でも、菊花の望みは全員対等な関係。
そういう関係構築をする風習を、私は知らない。あったとして、実現できるとは思えない。だって、人間の感情はわがままで、身勝手だから。
大切な人が、恋人が、自分以外の誰かを自分と同じくらい好きで愛しているなんて、耐えられない。そんな中途半端な人に、自分の人生を預けることなんてできない。そう考えるのが当然で、私だってそう考える。
それは最大幸福を実現する考え方ではないんだろうけど、ごくごく一般的で、普通の考え方。普通から著しく逸脱しているのは、菊花の方だ。
でも、正しいのは菊花だ。菊花だけが、私たち三人全員の幸せを心から願っている。
「こんな騒がしい二人に囲まれてたら、早死にしちゃうから、ほんと勘弁してほしんだけど」
「まぁまぁ、そんなこと言わずにさ」
「そうそう。万が一の時は、私と日美香の二人で、面倒見てあげるから」
「そんなことされたら、余計に体調悪くなるから、ほんとやめて」
二人が言っていることは、どこまで本気かわからない。日美香の言葉を本気だと思いたい自分と、本気なのだとしたらどうして菊花と付き合ったのかと、不満に思う自分がいる。
そして、自分でも不思議なことに、菊花に面倒を見られることを、そこまで悪くないと、思ってしまう自分までいる。
全く、心というものは始末に負えない。ついこの間まで、恨みつらみしかなかったはずの菊花に対して、こんなことを思うようになるなんて……
菊花が三人で付き合おうなんて言い出すから……いや、その前から、菊花の人となり、それ自体はキライではなかった。
ただ単に、私の日美香を突然奪ったこと。ただそれが、それだけが、どうしても許容できなかっただけで……
それさえなければ、私の心は一枚岩でいられたのに……日美香の告白をなんとなくで受け入れた菊花を恨むべきなのか。それとも、私ではなく菊花に告白した日美香を責めるべきなのか。
いや、そうじゃなくて……全ての原因は、私自身にあると、わかっている。日美香の一番の友人であることに、甘えていた私。菊花が散々悩み抜いて、ついに伝えてくれた提案に、頷くことができなかった私。
この人間関係の膠着は、紛れもなく私自身が招いたもの。どうにかする機会は、何度も何度もあったのに。いまだって、その機会の一つなのに。
菊花は今日だけでも、私に何度も何度もチャンスをくれているというのに。私はその全てを、掴もうとすらせず、地面に落とし続けている。
結局、それは昨日までと同じように、今日も変わらないまま。私と、日美香と菊花の間にある関係は、何一つとして進展がないまま、休日が終わった。
菊花が、交通事故に遭ったと、日美香から突然連絡が来たのは、それから三日後のことだった。