《白紙の私に無題の道を 第10話 望まぬ不戦勝》作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

 菊花が事故に遭ったと連絡を受けた私は、彼女が入院しているという病院へ、比喩ではなく文字通り、飛んで駆けつけていた。

 私の行動、その動機が、これまで耳にしたことがないほど声を震わせている日美香への心配だったのか、それとも純粋に菊花のことが心配だったのかは、自分でもよくわからなかった。

 でも人として、ただ純粋に、菊花が無事であることを祈っていたことだけは確かで……その祈りが届いたのか、菊花は無事とはとてもじゃないけど言えない状態ではあるけど、生きるか死ぬかという状況は、事故に遭ってからほんの数時間で超えてくれた。

 だからといって、安心できるかというと、全く違う。菊花は事故に遭った時、頭を強く打ってしまった。その結果、後遺症が残るのか、あるいは何事もないのか。あるいは、このまま植物人間になってしまうのか。

 意識が戻るまで何もわからないのが現状で、とてもじゃないけど、見ていられなかった。悲しみに曇っている日美香もそうだし、いまにも枯れ落ちてしまいそうな菊花のことも。

「きっと大丈夫だって。あの菊花がこの程度でどうにかなったりしないって」

 待合室で、菊花の容態が良くなるのを待ちながら、日美香に声をかける。

 自分が発した言葉は、日美香を励ましたいのか、自分に言い聞かせているのか、酷く曖昧だった。

……菊花ってそんなに元気なキャラじゃないよ……

「いや、下手に元気な人よりも、元気というか、図太かったと思うよ」

 状況が状況だけに、狂ってるとか、イカれてるとは言わなかったけど、菊花の性格はそういう感じだった。

 意識を失ってしまえばただの人だから、三人で付き合おうという提案は、もう夢みたいに感じる。

 正直……このまま眠ったままでいてくれないかと思う自分がいる。菊花に日美香を盗られて、私が思っていた以上に、私には日美香が必要だということがわかった。

 この酷く察しが悪くて、だからこそ、私の性根の悪さにも気付かないでいてくれる日美香が。

 だから、婚約者が意識昏睡状態になって傷心の日美香を、献身的に支えた親友となり、告白されるか、告白して、付き合って結婚する。そうなれたら理想なんじゃないかって、最低な考えが浮かぶ。

 だけど……菊花は頭がおかしいから、自分が意識を失えばそうなるとわかっていて、私と日美香が付き合い始めたと同時に目覚め、「これで三人一緒に付き合えるね」と言い出しそうな謎の信頼感があって、空恐ろしいものがある。

「いまはとにかく、祈りながら見守ろう。それが私たちにできる、精一杯なんだからさ」

……そうだね、頑張る」

 日美香の肩を抱き寄せる。以前の私だったら絶対にできないこと。それを淡々とこなせてしまう自分に、驚いてしまう。

 そうすることの必要性を菊花が教えてくれたから、こうして勇気を出して一歩前へ、踏み込めている。

 私はいま、日美香の優しい親友。決して、菊花から日美香を取り返そうなんて考えていない。そんな卑怯な人間、日美香は好きじゃないと知っているから。

 だって私は日美香の幼馴染。日美香の好みはちゃんとわかってる。だから、こうして不意に優しくされると弱いことも、私を信頼してくれていることも、ちゃんとわかっている。

 でも、親友として少し優しくしすぎてしまって、人生のお昼寝してる菊花から日美香の愛を奪ってしまう。そんな展開も、あるかもしれない。

※※※

 結局、菊花が入院したその日は何も変化がなくて、私はお昼頃には家に戻って、次の日には普通に大学に通っていた。

 日美香は私が日常へと戻った後も、病院に寝泊まりしている。日美香を好きな私でも、さすがにそこまで付き合い続けることは難しかった。

 純粋にしんどいというのもあるし、意味があるとも思えない。それに、大学の授業を三人の内の誰かがこなさないとまずいという現実もある。

 誰か一人が授業内容を把握していれば試験対策ができるし、知識を吸収する手段も確保できる。

 昏睡状態の菊花は当然こんなことできないし、精神的に疲弊して菊花のそばにいることでなんとか身を持たせている日美香にこんなことをさせるわけにもいかない。

 なんて、理由をたくさん並べてこの行動を正当化するけど、要はつまり、私は狂えないということだった。

 菊花のように三人で付き合うという異常な発想に適応することもできなければ、日美香のように大切な人のそばに無意味と知りながら付き添い続けることもできない。

 まともとも言えなくもないけど、冷めている。恋することはできても、恋に殉ずることはできない中途半端さ。

 十年来の幼馴染を盗られて当然な人間だと思う。一線を越えられない人間が、誰かや何かの特別になることなんてできない。

 そんなことを思いながら食堂でお昼ご飯を食べていると、スマホが鳴った。相手は日美香だった。

「どうしたの日美香?」

……菊花の目が覚めたの……

 朗報、のはずだった。私だって一瞬嬉しかったくらいだ。割とそれなりに、このまま植物人間になってくれないかと思っていたにも関わらず。

 だけど、その割には日美香の声は曇っている。それはつまり、意識を取り戻した菊花に何か問題が生じているということだ。

 それは私にとって良いことなのか、悪いことなのか、判然としない。もしも後遺症が残るとしたら、日美香は献身的に支えることにのめり込むタイプ。

 日美香は良くも悪くも相手のことを見れない。その分、まっすぐだから、介護への適性は高い。だから、菊花に後遺症が残るのは、最悪の展開だ。

 日美香を取り返すどころか、菊花にもっと持って行かれてしまう。しかし、菊花が意識を取り戻しても元気にならないどころか、余計に沈んでいるということは、後遺症が残ったということだろう。

 事故という大きな出来事を経ても、私は菊花に勝てなかった。わ

「どうしたの、そんな声を出して。やっぱり、体に麻痺が残っちゃったの? なら、相談してた通り、二人でいい方法を……

「違うの。そういう後遺症は運が良くてなかったの。だけど……記憶がないの。生まれてから今日までの想い出が……全部消えてなくなってるの……

 耳を疑うなんて表現があるけど、聞きたい音を拾い損ねたり、葉が風に揺れる音を幽霊と錯覚したり。こんないい加減な物を、どうしてそこまで信頼できるのかわからない。

 それでも、耳を疑った。記憶喪失? 菊花が? それはつまり、どうなる?

 菊花と日美香の婚約関係は? 三人で付き合うという、あの狂った提案はどうなる? この菊花への言葉にできない、嫌悪感とも好意とも違う、憧れのようで殺意のようでもある感情を、私はどこに向ければいい?

……菊花、戻ってくるよね?」

……えっ、そりゃ戻ってくるに決まってる。菊花はそんな、やわなやつじゃないって」

 適当に相槌を返しながら、終わったと思った。菊花と日美香の関係は終わりだ。

 日美香は致命的にズレていると思う。日美香はまた無自覚に、自分を押し付けている。

 記憶を失った状態の菊花を、この世に存在しちゃいけない者だと、無意識に思い込んでいる。

 菊花が本当に記憶を失っていたら、これではきっとうまくいかない。いずれ、菊花であって菊花でない誰かは、日美香にうんざりしてしまうと思う。

 これで日美香は菊花に振られることがほぼ確定した。菊花が昏睡状態のままだったら、屈託なくまっすぐな日美香は、意識を失ったままの菊花と結婚する可能性があったけど、振られたら終わるしかない。

 邪魔者が消えたんだから、あとは機を見計らって告白する勇気を持てば、それでいい。そのはずなのに……なんだろう、この不完全燃焼感は。

 ずっと好きだった人と、付き合える可能性が生まれたというのに、この煮えきれなさ。

 菊花から日美香を奪おうとか、いっそのこと三人で付き合うと考えていたわけでもない。ましてや、菊花のことが好きだったなんてありえない。

 でも、菊花がいなくなった。そのことを意識すると、呼吸が少しだけ乱れて、鼓動がほんの少しだけ早くなるのを感じた。

※※※

 菊花が意識を取り戻してから数日が経った。その間、日美香は記憶を失った婚約者に付きっきり。私はというと、菊花のお見舞いに行くことすらできないままでいた。

 偶然か意図的か、三人全員が大学の授業をほぼ同じ内容で履修しているからということを言い訳にして、授業を優先している。

 菊花に会ったら、冷静でいられる気がしないから。日美香との関係をどうしたいのとか、三人で付き合うっていうあの提案はどうなったのかとか……記憶を失った直後の人間に押し付けるには、あまりにも重たいものを、反射的に押し付けてしまいそうだから。

 それでも会いたいという思いは消化されずに、地層に染み込む地下水のように少しずつ心の内に蓄積し続けている。いつか溢れ出すことがわかっているから、会いに行くべきなのに。

 菊花がどうなったのか。記憶失った菊花は本当に菊花でなくなってしまったのか。日美香を好きなることがないほど、人が変わってしまったのか。

……友達だったんだし、連絡なしで会いに行ってもいいか」

 独り言で自分に行動を促す。勇気を出さないとこのまま、ずるずると行ってしまうとわかっている。

 日美香との関係を十年以上、進展させられなかったのと同じように。菊花との関係もこのままじゃ、不完全のまま終わらせることになる。

 そんな後悔だらけの人生を送るのは、もうたくさんでしょう?