《白紙の私に無題の道を 第11話 全方位好意的変換装置》作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu) 

病院からの帰り道を、一人で歩く。日が暮れ始めていて、一日が終わることを感じさせる。

あのまま菊花の病室にいれば、日美香と会えたと思う。だけど、そうすることが怖くて、逃げるように退散した。

記憶を失った菊花は、菊花ではない誰かだった。あんな姿を見せられたら、傍若無人に限りなく近い日美香でさえ凹むのもムリないと思う。

でも、記憶を失った菊花がああなることを、意外だとは思わなかった。むしろ、知識以外の全てを失ったことで、人と接することでしか育まれない想い出と、それに伴う対人能力が完全に喪失すれば、菊花は当然ああなるという強い納得があった。

日美香が気付いていたかはわからないけど、菊花は他者の心中に敏感だからこそ、明るく振る舞うようにしていただけで、本当のところは”ああいう”タイプだった。

それを何を勘違いしていたのか、日美香は菊花を明るくて、なんでも受け止めてくれる人だと思っていた。

婚約者だというのに、日美香は菊花のことを何もわかっていない。私の方が菊花のことをわかっているし、日美香のことだってわかっている。

いまの菊花を菊花だとは思わないけど、どこまでも菊花らしいとは思う。記憶を失ったら普通、もう少し、記憶を取り戻さないとって思うだろう。なのに、菊花の脳は心に敏感すぎるから、そうはならない。

自分は菊花ではない新しい人間だと信じて疑わない。これまでは他者へ向けられていた感受性の強さが、余裕のなさゆえに自分の内側にだけ向けられていて、手がつけられなくなっている。

元々賢い人だからか、そういう記憶喪失に伴う苦悩を隠そうとしているみたいだけど……私にだけ、吐露してきた。

その行為が、三人で付き合うことを私にだけ提案してきたことと被ってしまう。

思い上がりなんだろうけど、菊花は日美香ではなく、私のことが好きだったんじゃないかと勘違いしそうになる。いや、好きではないのかもしれないけど、本心を見せられるのは日美香ではなく私だと、本能が察知していたのかもしれない。

私の初恋を奪った相手にこんなことを思わされるのは極めて不愉快だけど、記憶を失った菊花が信頼できる相手として選んだのが、日美香ではなく私だというのは、そんなに悪くない気分。

それはつまり、記憶を失った菊花は日美香を好きにならないってことだから。

それがはっきりしたから、菊花に会う必要はそんなになさそう。でも万が一、必死に寄り添う日美香を好きになられたら困るから、たまには様子を見に来ようとは思う。

大学ではいつも三人一緒だったのに、菊花に会いに行かないのは、日美香への心象を悪くするだけだろうから。

それにしても……自分が醜悪な人間であることは自覚していたつもりだけど、まさかここまでとは思っていなかった。

これでも菊花に日美香を奪われたのは仕方なかったと納得していたというか、敗けたこと自体は素直に受け入れたつもりだった。

でも、そんなことなかった。こんなわけのわからない悲劇的な状況なのに、日美香を取り戻すこと以外に何も考えられないなんて。

それもこれも、菊花が悪い。私を散々振り回して、掻き回して、一言も言わずに、どこか遠くに行ってしまう菊花が……あなたさえいなければ、こんなにぐちゃぐちゃになることなんてなかったのに。

※※※

記憶を失った菊花のお見舞いに行ってから、数日が経った。私はあの日以来、菊花のようで菊花でない人のお見舞いに行けていなかった。

本当はもう少し高い頻度で会いに行くつもりだったけど、できなかった。

菊花がいなくなって沈んでいる日美香を見るのが辛いというのもあるし、まっすぐ過ぎて歪んでいる菊花がいなくなったことを直視したくなかった。

日美香と菊花がいない大学生活は、なんというか張り合いがなかった。

日美香と菊花は大学を休んでいるけど、出席を厳密に取らない授業であれば、試験さえパスすればどうにかなる。

そのために、ちゃんと私がノートを取ったり、勉強することは役割分担。

そう思っているし、日美香もわかってくれている。だから、大学生活をこれまでで最も真面目に送っている。なのに、張り合いがない。

当たり前だけど、日美香と菊花以外の友達は大学にいる。同じ授業を取っていないから、接点が二人に比べると薄いだけで、二人がいないと一人ぼっちというわけじゃない。

なのにこの虚無感。二人がいないと、彩りが足りない。私が大学に通っているのは、人生を成立させるためだ。生涯年収が多くなるとか、出世しやすくなるとか、新卒でいい企業に入りやすくなるとか、そういうため。

人生というキャンバスに色を塗るために勉強をしているわけじゃない。白紙の部分を多く取るために、こうすることが最善だと判断して、そうしているだけで、これ単体では人生は真っ白のまま。

人生を彩るのはもっと他のこと……帰ってきてほしかった。私の恋心に全く気付かない日美香に。そして、あまりにも鋭すぎて、隠し事まで見抜いてくる、容赦がない菊花に。

二人に会いに行っても、そこにいるのはどこにもいない菊花のことで頭がいっぱいの日美香と、自分を菊花ではないと主張する誰かがいるだけ。

私が行動を起こしても、この空白感は消えてくれないことが目に見えている。菊花の不在に乗じて日美香の心を奪えたとして、それは本当に菊花から日美香を奪うことに他ならないから、心が晴れないこともわかっている。

人生よりも、卑近な人間関係の方がよっぽど厄介だ。自分主体で変化を起こすことができないから、解決の道筋が立たない。だから、解決するかはわからないけど、行動するしかなかった。

いつ以来かぶりの記憶喪失の菊花へのお見舞いを終えて、病室を出ると、そこには日美香がいた。

「今日もこっそり来たの?」

その言葉が、気まずかった。前回のお見舞いも、日美香には何も伝えずに来て、日美香を避けて帰った。隠し事をしているつもりも、隠しているつもりもないけど、なんとなく隠していた。

そのことを記憶喪失の菊花経由で伝わっていて、今回もそうなったのが、悪い意味で私らしくて居心地が悪い。

「二人の分もしっかりしないとって思うと、いい加減に授業受けられないからさ。連絡すると絶対行かないといけなくなるのが、いまはちょっとね」

「そんなこと気にしなくていいのに。出席が甘い授業は先輩から試験問題手に入れたりしてなんとかするし、取り損ねは来年以降なんとかするから、蓮が頑張ることじゃないよ」

「やりたくてやってることだから」

「なら、甘えちゃうね」

そう言って微笑む日美香は、とても可愛かった。記憶喪失の菊花から聞いていた通り、毎日毎日、来る日も来る日も、全身がほぼ動かない菊花に付き添っていて、その疲労が滲んでいるのに、私のために頑張って笑顔を作ってくれる日美香の頑張りが、可愛い。

そして、怒りが湧いてくる。日美香に毎日付き添ってもらえているのに、絶望を口にする記憶を失った菊花への。だけど、あの菊花のようで菊花でない女性の気持ちもわかるから、この感情は胸に留めておくしかなかった。

完全に白紙状態なのに、人間関係だけ鎖のように巻きついている人生を始めさせられた辛さは、想像に難くない。好感度上昇に伴う諸々のイベントを制覇された状態で、回想モードすらない恋愛ゲームなんて、プレイする気が起こるはずない。

それよりも数百倍酷いプレイ環境で生きているのが、いまの菊花で、おまけに大怪我までしているんだから、余計な負担はかけたくない。

「……ねえ、蓮。このあと時間ある? もうすぐ面会時間も終わりだから、どこかで食事でもしない?」

片想い中の相手から食事のお誘い。通常なら浮かれてもおかしくないシチュエーションだけど、全くそういう気持ちにはなれなかった。

記憶喪失の菊花がそうであったように、日美香は日美香で参っているようで、それは無理からぬことではあるんだけど……

「私は構わないよ。それじゃ、一階で待ってるから」

返事も聞かずに、エレベーターへと向かう。「一緒に菊花と合わないの?」と聞かれるのがイヤだったから。

さっきお別れをしたばかりの人と会うのが気まずいというのもあるにはあるけど、それ以上に、耐えられる気がしなかった。

周囲が全く見えていない日美香と、自分だけで精一杯の記憶のない菊花の、あまりにも噛み合わないやりとり。

そんなものを目にしたら、自分を抑えられる自信がない。多分、私の中の何かが暴走してしまう。だから、距離を取るべきだと思った。

 

「最近、菊花のことが菊花だって思えなくなってきたの……」

お金に困っているわけではないけど、社会人ではない私と日美香は、イタリア料理がメインのファミレスに来ていた。

席について、メニューを注文し終えて、それと同時に日美香はそんな告白をしてきた。

そして、言うまでもなく私は困っていた。あの菊花を見て、徐々に菊花だと思えなくなっていくという心理が、致命的にズレていると感じたから。

あの状態の菊花が、日美香と二人きりの時に、上手に振る舞えているとは思えない。そもそも、菊花の器用な振る舞いは、膨大な人生経験の蓄積で成り立っていたと私は推理している。

だとすれば、弱くてニューゲーム状態の菊花は、そんな器用なことができるはずない。つまり、私が日美香の立場であったとしても、菊花が菊花でない香りを感じられるはず。

にも関わらず、これだ。何が困惑するかって、日美香の口ぶりから察するに、私はあの状態の菊花を、昔と何一つ変わらない菊花だと解釈していることを前提にしていること。

相変わらず、日美香は鈍いというか、なんというか……こういうところが好きなんだけど、こういうところが苦手だとも思う。

知られたくない私の心の醜さにずっと一緒にいても気付かないでいてくれる鈍さと、気付いてほしいことにいつまでも気付いてくれない鈍さ。それは表裏一体ですらなく、完全に同じもの。

それを都合よく発動してほしいなんていうのは、わがままだというのはわかっている。わかっているけど、限度がある気がする。

私や他の人に鈍いならまだいい。だけど、菊花の婚約者なんだろう? 菊花のことが好きなんだろう? なら、菊花だけは例外であるべきなんじゃないの? それで恋人や婚約者を名乗っていいの?

そんな強い肩書きで、記憶を失った菊花を縛り付けるのなら、それ相応の振る舞いがあるんじゃないかと、思ってしまう。

「……まあ、記憶喪失だから、そういうもんじゃない。記憶を失った後の人を変化について行けない家族の話を昔聞いたことあるし。一緒にいるのが苦しいなら、少し距離を取るのも選択肢の一つじゃないかな」

少し言い過ぎたかと、口にしてから思った。これじゃまるで、二人が別れることを提案しているみたいだ。

そう一瞬考えたけど、理性がそれを却下した。通常推奨されるアドバイスの範疇を出ていないということもあるし、日美香がそんな機微を読み取れるわけがないことを、私が一番よく知っている。

「そうかもしれないけど、私よりも菊花の方が辛いはずだから、私が折れてられないなって」

「そうは言うけど、日美香が折れたらどうしようもないよ。菊花には家族がいるんだし、日美香が頑張りすぎる必要ないと思うな」

「私はもう菊花の家族だよ」

一番聞きたくない言葉だった。日美香にとって、菊花が記憶喪失になったことは、友達や恋人というスケールではなく、家族の問題だった。

家族だからって、ここまで献身的になる必要があるとは思わないけど、日美香にとってはここまでするのが家族。

たとしたら、私に付け入る隙はない。だってこれは家族の問題なんだから、日美香や菊花の友達でしかない私が介入できる次元じゃない。

できることがあるとしたら、こうして悩みを聞いたり、お見舞いに行くことくらい。

私は日美香と菊花の恋愛の登場人物ですらなかった。

「……私としては、日美香が壊れないかの方が心配だな。菊花を支える人はたくさんいても、日美香を支える人は少ないんだからさ……」

「確かに、最近菊花のことばっかりで、自分のことは全部後回しにしてちゃってる。私の代わりに気付いてくれてありがとう。そういうところが、昔から頼りになるんだよね」

ため息を飲み込む。こういうところだ。こういうところがあるから、私は日美香が好きなんだ。

日美香は他人の心の機微に鈍いと同時に、自分の心への感度も低い。だから、すぐに自分を犠牲にしてしまう。いまだって、菊花のために自分のキャリアを犠牲にしていることにさえ無自覚だ。

それで自分が崩れたって、誰も責任を取ることなんてできないのに。だから、放っておけない。無鉄砲な日美香に首を突っ込んだら面倒なことになるってわかってるのに、日美香は私をこうして誉めてくれるから。

私の陰湿な性格を、”自分の代わりに、大切なことに気付いてくれる存在”として、いつも勘違いしてくれるから。

本当はそんなんじゃないのに。私はただ、日美香に告白する勇気が持てないから、日美香に近寄る人間を、あの手この手で遠ざけとうとしているだけのに、日美香は鈍いというか奇跡的な勘違いをいつもしてくれる。

だから、離れることができない。日美香に婚約者ができても、こうして付き纏ってしまう。無自覚天然勘違い人たらし美人のあなただけが、私のひねくれた心を美しいと言ってくれるから。