《白紙の私に無題の道を 第12話 単純な解法》作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

 やってしまった……家に帰ってから、ずっとその後悔に苛まれている。ベッドに倒れ込んだまま動けないまま、何時間経っただろう。

 記憶を失った菊花に告白されて、思わず押し倒してしまった。そういう意味で押し倒すならまだしも、なにもかもよくわからなくなって、暴力はよくないとブレーキをかけた結果の押し倒し。

 私が記憶を失った菊花に暴力を振るったことを、あの鈍い日美香でさえ瞬時に察していた。あの目は、自分の愛する人を奪われたことへの驚きや困惑ではなく、愛する人に暴力を振るわれたことへの純粋な軽蔑だった。

 日美香は単純だからこそ、こういう直情的な感情は見間違わない。複雑で繊細な心の機微はよくわからないのに、そうしたことが積もり積もった感情の発露だけは的確に捉えてくる。

 そういうのは、ちょっと悪質じゃないかと思う。二人きりの時、記憶を失った菊花のことを、菊花だと思えないと言っておいて、私のことを大切な菊花を傷付けた人として見てくるのは、理不尽だ。

 都合よく菊花と、菊花とは思えないを使い分けないでほしい。記憶を失った菊花は自分を菊花ではない誰かだとずっと感じていて、私はそれを極力尊重しようとしていた。なのに日美香だけが、ふらふらと菊花と菊花でないを、自己都合で行ったり来たり。

 私は理不尽な暴力を振るってしまったけど、それでも日美香よりはさすがにマシじゃない? してはいけないことをした自覚はあるけど、日美香はそれさえ全くないんだから。

 なんてことを考えてみるけど、自分のことを棚に上げて、現実逃避しているだけ。色々と理屈を立てて自分を擁護してみるけど、結局何も解決しない。

 私がしでかしてしまったことの責任をどう取るか。それを考えるしかないけど、どうすればいのかわからない。

 記憶を失った菊花には当然嫌われただろうし、日美香が私をどう思っているかなんて確認するまでもない。

 いかに日美香が記憶を失った菊花に酷いことをしていたとしても、私への印象が変わることはない。

 だからこそ、ちゃんと説明しないといけない。そうするしかないのに、それができない。

 私と、記憶を失う前と後の菊花も、日美香に理解してもらうことを諦めていたけど、理解してもらえなかったらもう何もかも終わりだ。

 記憶を失った菊花は自分を押し殺して日美香と結婚することになり、私は幼馴染と奇妙な親友を失うことになる。

 その未来が見えているけど、どうにかする方法が思いつかない。何か方法はあるのかもしれないけど、この困難に自分から立ち向かえる能力があれば、そもそもこんなことになっていなかった。

 

 もう何もかもどうでもよくなって、もう一度眠ろうとした瞬間、玄関が開く音がした。

 空き巣、強盗。そういう物騒な単語が浮かぶけど、家の中に入ってきた足音の感じからして、そうでないことがわかった。

 ずっと一緒にいたから、何度もお互いの家に遊びに行ったことがある。だから足音だけで誰かわかる。

 日美香に合鍵を渡しているから、それで入ってきたらしかった。あんなことをがあった後に会いに来たということは、私を非難しにわざわざやって来たのだろうか?

 日美香はそんなことをしないけど、どうしても許せないことがあったら意外な行動に出ることだってあり得る。

 大学に入ってすぐは日美香と二人で住んでいたけど、菊花と付き合い始めてからは菊花と日美香は二人で住んでいた。結局、日美香への未練が捨てられなくて、菊花とケンカしたときに、いつでも私の所に逃げて来てもらえるようにと、鍵を持たせたままにしていたのが間違いだった。

 鍵を渡してさえいなければ、あるいはこの家に住み続けていなければ、こんなことにならなかったのに……日美香への執着が、家という逃げ場すら不完全にした。

 追い返そうにも、追い返すためには会話をしないといけない。今回のことは私に非があるから、そう簡単には帰ってくれないだろう。

 菊花さえいなければ……あの女さえいなければ、私がこんな思いをする必要はなかったのに……

 彼女さえいなければ私は、日美香と友達以上、恋人未満の深過ぎず浅過ぎない、心地良い関係のままずっといられたのに……全部めちゃくちゃにされた。

 菊花は記憶があってもなくても、私を苦しめる。恋心なんていうしょうもないことに、ここまで心を掻き乱されていることが納得できなくて……いないことにできないかと、布団を被ったまま息を殺す。

「そんなんじゃ誤魔化されないよ。何年一緒にいたと思ってるの?」

 だけど日美香はこんな時だけ勘が鋭かった。私の誤魔化し方が杜撰すぎるというのももちろんあるけど、納得できなかった。

 なんてことを思うと同時に、日美香の声が穏やかであることにも気付いた。それが単に怒りを通り越しているだけなのか、私の知らないところで何かがあったのか。

……菊花に、もう菊花じゃないんだよね……あの子に言われたんだ。私の言動の全部が辛かったって。蓮の言葉に救われたって……私が一番近くにいたのに、私が真っ先に気付かないといけないのに、蓮があの子を支えてくれてたんだよね。色々気付けなくてごめんね……

 まさかこんなことを言われるなんて思っていなかったから……すごく怖い。私はそんなに良い人間じゃない。この期に及んで、日美香と記憶を失った菊花にいい人だと誤解されているのは、恐ろしさしか感じない。

 私はずっと誤解されていたかった。この心の醜さ、気に入らないことがあると手が出てしまう身勝手さ。そういうことに気付かないでいてもらいたかった。だけど、関係が深まったら理解されてしまう。

 だから誰とも仲良くなりきることができなかった。でも日美香だけは、どれだけ一緒にいても持ち前の鈍さで気付かないでいてくれた。菊花はそれを知りながら優しくしてくれた。

 だけど、あんなことをしてしまった後に優しいとまだ思われるのはたまらない。誤解されたかったのは事実だけど、ここまで関係が深まってしまったら誤解されていたくはない。

 正しく理解された上で拒絶される方が、幾分かマシ。本当の私を知られたくなかっただけで、知られてしまったならちゃんと見てほしい。わがままだとは思うけど、こういう甘い結末は私が望んだものじゃない。

「謝らないで。私が勝手にして、勝手にキレたんだから……日美香に悪いことをしたとは思ってないけど、あの子には悪いことをしたのは事実だし……

「だけど、それも私が蓮の気持ちに気付かなかったせいだって、言われた。それをちゃんと自分で確かめてきなさいって、そうあの子に言われたから」

 またか。私はまた、菊花に救われようとしているのか。菊花は記憶を失ってもなお、私に手を差し伸べてくれるのか。

 一体私の何が彼女にそこまでさせるのかわからない。こんな人間に入れ込んだって、それに見合う見返りなんて期待できないのに。

……確かめるって、何を確かめろって言われたの?」

「蓮が私のことずっと好きだったんじゃないかって。あの子が蓮に告白したのも聞いてる」

……そう。なら、あの子が言ってることが全部だよ。菊花はいつでもずっと正しいからね。だからわかったでしょ。もうどうにもならないよ……私たちの関係は……

 ここからどうにかなると思えない。どう考えたって終わっている。日美香と記憶を失った菊花は、どうやら私の蛮行を許してくれたみたいだけど、そういう問題じゃない。

 私たち三人を繋いでいた、肝心要の菊花がどこにもいない。私は日美香のことが好きで、日美香はいなくなった菊花のことが好きで、記憶を失った菊花は私のことが好き。

 矢印が何一つ一致していないこの状況で、妥協点を探すなんて不可能だ……

「好きなら好きって、今更なんて思わずに言ってくれたらよかったのに。ならさ、これはあの子の提案で、私も別にいいと思ってることでもあるんだけど……もういっそ、三人で付き合っちゃわない?」

 なんて思っていたのに……どうしようもないと思っていたのは、私だけみたい。

 普通なら信じられないような言葉だけど、耳を疑うことはなかった。だってこれは二度目だから。驚いたことがあるとすれば、日美香がこの提案を口にしたことではなく、記憶を失った菊花が同じ提案をしたこと。

 彼女には申し訳ないけど、記憶を喪失しても菊花は菊花だった。だってこんな発想、菊花以外誰にできるというんだろう。思いつくことは誰にだってできるけど、実現させたり、納得させるハードルの高さに誰もが諦めてしまう。

 でも、菊花は諦めなかった。記憶を失ってもなお、私の幸せを祈り続けてくれた。ここまでされたら、私が折れるしかないじゃん……

 ここで三人で付き合うのはムリとか、現実的じゃないと言ったら、いくらなんでも酷すぎる。

 それに……人のことを誰よりもよく見ている菊花が三人で付き合うのが一番良いと言い、生まれたての記憶を失った菊花まで三人で付き合うしかないと言うのだから、本当にこれしかないんだと思う。

……同じことを、菊花にも言われた」

「はあ!? なら、なんでその場でオッケーしなかったの!? どう考えたってそれが一番良いじゃん!」

……おっしゃる通りです、ごめんなさい……

「本当にごめんなさいだよ! 蓮がいてくれたら、あの子の苦悩だって取りこぼさずに済んでたのに!」

「いや、それは日美香が悪……いや、日美香にそれはできないよね」

「そう! だから私には蓮が必要なの!」

 被っていた布団を脱いで、外の世界に一歩出てみる。そこには、これまで見てきた中で一番穏やか日美香がいた。

 あんなことをしたのに、私はなぜか二人に許されてしまった。こんな私が、ここまで優しくされていいんだろうか。一番幸せな選択肢を選ぶことすらできなかった臆病な私が、こんなに優しい二人と同時に付き合うなんてことが許されていんだろうか。

 でも、どうせ一人は死ぬほど鈍くて、一人は死ぬほど優しいから、構わないって言うんだろう。二人はあまりにもあんまりだから、二人に甘えること以外、どうやったって許してくれないみたい。

 だからこそ、一つだけ納得できないことがある。記憶を失った菊花はこれで幸せかもしれない。だけど、私が三人で付き合う気になれたのは、二度目だからだ。

 この提案が一度目だったら、蹴っていた。こんな自分にはふさわしくないとか適当な理由をつけて、二人の前から姿を消すことを選んでいただろう。大学を辞めはしないけど、可能な限り関係を断ったはず。

 私が三人で付き合うのが一番だと思えているのは、菊花のおかげ。なのにこの提案の三人には、菊花がいない。私と日美香と菊花、そして記憶を失った菊花。この四人で付き合うって結末じゃないと、納得できない。菊花だけが犠牲になるようなエンディングは、ここまできたら違うなって、そう思う。