《白紙の私に無題の道を 第13話 忘我的リトライ》作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

「蓮がこんなことするなんて、信じられない。私がついてればこんなことにならなかったのに、本当にごめん」

ベッドの側で申し訳なさそうに平謝りしている日美香さんを見て、心が急速に冷静さを取り戻していく。

蓮さんに突然押し倒されて、怒られて。当たり前だけど日美香さんが怒ってくれて。記憶を失ってからずっと、他人のセーブデータで人生をプレイしている感覚だった。チュートリアルもなく、イベントも全て閲覧済みの、クリア済みのデータ。

でも、何だかいますごく、私として生きている感じがしていた。性格が悪いなって思うけど、仕方ない。

蓮さんは菊花ではなく、私の言葉にキレて、私のために怒ってくれた。日美香さんでさえ、いまこんなにも謝ってくれているのは、私が菊花の記憶を継承していないから、何が何だかわからないだろうとわかってくれているから。

私は生まれて初めて、菊花ではない私として世界に扱われ、大切にされている。それが嬉しかった。

健康な体ならなんてことなかったんだろうけど、押し倒されて、痛みがある。この痛みすら、嬉しかった。この痛みは蓮さんからの贈り物。私の告白に逆ギレして、短絡的に暴力を振るってしまう蓮さんらしいプレゼント。

口にした言葉は取り消せないから、せめて蓮さんが不利にならないようにしないと。そのために、私がやらないといけないことがたくさんある。

とにかく私は、菊花から引き継いでしまったものを整理しないといけない。私はそこからずっと逃げ続けてきた。菊花が築き上げた人間関係という財産を失ってしまったら、生きていけないから。

家族を失い、リハビリに付き添ってくれる人を失ってしまう。治療費さえ払えるか怪しい。

だけど、その不誠実で利己的な判断が、この破滅的状況を産んでしまった。なら、もう捨てないと。捨てることでしか蓮さんは悪くないと日美香さんに伝えられないし、菊花にがんじがらめにされた私の人生も解放されない。

それに、これ以上私が日美香さんの人生を搾取するのも申し訳ない。なんだかんだ思うところはあったけど、日美香さんが私に自分の人生を捧げ、尽くしてくれたことは紛れもない事実。

いま、それを終わりにしないと、日美香さんの人生まで道連れにしてしまう。菊花が私を塗り潰した時、私のこの判断をどう評価するかはわからないけど、私は私の人生をやるしかない。

「いえ、私は大丈夫です。それよりも、日美香さんに伝えておきたいことがあります」

「……どうしたの、改まって?」

これまで私が日美香さんを利用していたことを告白することは、蓮さんに告白するよりもずっと怖い。

私のことを献身的に支えてくれた人に、それが辛かったと伝えることの罪深さに心と体が震える。

私の人生を利用しないでと怒鳴られても、当然過ぎることを私はした。だからこそ、ちゃんとしないと。そうじゃないと、蓮さんと日美香さんの人生まで台無しにしてしまうから。

「…………こんなことを今更伝えることが不誠実なことはわかっています。でも、こうなった以上、伝えないといけなくて……」

うまく言葉が出てこない。人間関係を構築した経験のない私に、普通でも難しいことを伝える勇気、あるわけない。それでもやらないと。

菊花の遺産をなあなあで相続して、そのおかげで助けられて、助けられておきながら勝手に苦しで。そんな身勝手の償いをしないと。

日美香さんに謝る。そのはずなのに、日美香さんを見ることができない。自分のことで精一杯で、日美香さんの身体の末端一つ、髪先さえ視界に収めることができない。

「……ずっと辛かったんです……見ず知らずの母親と、婚約者に、菊花であることを望まれていることが……私なんていらないって言われてるようにしか感じられなくて……私の一番近くにいて、支えてくれている人に死を望まれていることが耐えられなくて……」

くねくねとした言い方しかできない。言ってはいけないことを言っている自覚がこうさせているのかもしれない。とにかく、いますぐ逃げ出したかった。私の体が事故に遭っていなければ、自分から始めたことなのに、この場から逃げていた。

事故による怪我に救われている。単に記憶喪失なだけだったら、本当の私を日美香さんに言えずじまいだったから。

「蓮さんだけが、私のことを菊花としてみなかったんです。お医者さんも、家族も、婚約者も、世界中が私に菊花を望む中で、蓮さんだけが……だから、告白してしまったんです。日美香さんがいるとわかっていたのに、自分が抑えられなくてそれで……蓮さんが怒ったのも当然なんです……だから、蓮さんを責めないでください……」

なんとか、最低限の伝えたいことを伝えることができた。日美香さんと向き合うことはできなかった。自分を伝えることしかできなかった。

菊花を好きな日美香さんが、こんな私を好きになってくれるとは思えない。でも、それでいい。蓮さんの傷が少しでも浅くなるのなら、私の犠牲は大したことない。

「……私がずっと辛かったって……なんでもっと早く言ってくれなかったの!? 私、記憶喪失になったことないのに、そんな複雑な心情、言われないとわからないよ!」

反応は、日美香さんの反応は、あまりにも予想外だった。怒られて当然なことをした。日美香さんが私のために犠牲にしたものの大きさは計り知れない。

だから、どんなことを言われてもいいと、本当に覚悟していた。だけど、日美香さんはあっさりだった。

「なんかおかしいなとは思ってたんだよね。最近なんとなく、菊花っぽくないなって思ってたし、二人で一緒にいてもあんまり楽しくないどころかむしろ苦しかったりして……何なんだろうって自分で思ってたんだけど、君が私といて辛いんだから、そりゃ私も辛いよね。納得納得〜」

恐る恐る日美香さんの表情を確認すると、本当に納得というような表情を浮かべていた。そこには確かに、徒労感や苦痛が混じっているけど、むしろ安堵感のようなものが勝っているように見えた。

「……許して……くれるんですか?」

「許すも何も、私も無自覚とはいえ酷いことしてたわけだしさ、こうして勇気を出して、伝えてくれただけで充分だよ」

私が間違っていた。第一印象でこの人はダメだと勝手に決めつけて、心を交わすことを放棄して、勝手に一人で傷付いていただけ。

わかってもらう努力をしていなかったのに、わかってもらえないことを理不尽だと感じて。話せばこんなにも簡単に、わかってもらえたのに。菊花がどうして日美香さんを好きになったのか、こんなにも簡単に知ることができたのに。

「……いんですか、私、日美香さんの菊花への想いを利用していたんですよ。それを、こんな簡単に許してしまって……」

「一対一の時にけっこう言われるんだよね。いくらなんでも鈍過ぎるってさ。悪気がないことはわかってくれてるからなのかな、みんなの前で言われたり、何人も同時に詰め寄られたことはないんだけど、一回や二回じゃないからさ。それで、何度か改善しようと思って本を読んだこともあるんだけど、全然ダメだった。これが人生で一番大きい挫折かも」

日美香さんが意外な言葉を口にした。もしかしたら菊花は知っていたのかもしれないし、蓮さんも知っているのかもしれないけど、私にとっては意外だった。

日美香さんが自分の無自覚さを自覚しているということが。だからこそ思う。本当に自覚していてこれなのだとしたら、なんて悲劇なんだろうと。

話さえすればこんなにすんなりと理解してくれるのに、自力で辿り着けないというだけで、嫌われたことも一度や二度じゃないんだろう。

私だって、蓮さんに押し倒されていなかったら、日美香さんを知ることはできなかった。私が理解してもらえなかったように、日美香さんもまた、きっと誰にも理解されない苦悩があって、私と日美香さんに違いなんて、実はほとんどなかったのかもしれない。

「菊花が日美香さんのことを好きになった理由が、わかった気がします」

「そのレベルで傷付けてたの!?」

「まあ、はい。でも、もう気にしてません。それよりも、蓮さんのこと、お願いしてもいいですか? 私のせいで、ものすごく傷付けてしまって、本当なら私が行きたいんですが、この状態ですし……」

「まあ確かに。君より私が話す方が聞いてくれると思うから、それ自体は構わないけど……そもそも、なんで蓮はあんなに怒ったの? 君に告白されて怒るなんて、らしくないし」

伝えていいのかわからない。蓮さんがこれまでずっと隠し続けてきた片想いを、私の推測とはいえ伝えてもいいのか。

これが日美香さんでなければ、伝えてもいいと思う。だって、普通なら蓮さんの態度で予想がつくだろうから。でも、日美香さんは完全に蓮さんの想いに気付いていない。

蓮さんが気持ちを伝えなかった事情はわからないけど、その事実はある。だけど、これを話さないで先に進めるのは難しい。

ましてや、日美香さんだし……心の機微を全くと言っていいほど予想できない日美香さんに、このまま行かせたら余計に事態をややこしくする気がする。でも、知ってさえいたら、必ず丸く収めてくれると思う。

「……蓮さん、たぶんなんですけど、日美香さんのことがずっと好きだったんだと思います。だから、日美香さんを奪った形になる菊花が、自分に告白してきたことが耐えられなかったんじゃないかって」

「確かに理屈は通るけどさ、蓮が私のことを好きってことはないんじゃない? だって、蓮の恋心に気付いて、私から気を遣って告白できるような人間じゃないことは、蓮が一番わかってるだろうし」

「そうかもしれないですけど、日美香さんから告白したことはないんですよね?」

「菊花には近いことを言ったと思うんだけど、蓮のことが好きだったことあるし、あんな光景見せられたいまも好きだよ。だけど、私の気付き力を誰よりもわかってる蓮が、いつまでも告白してこないってことは、脈ないってことだから諦めたんだよね」

鈍さもここまできたら、芸術的だと初めて知った。記憶を失って知らないことだらけだけど、こればっかりは、菊花も知らないことだと思う。

なんというか、日美香さんは物凄くバランスが悪い。頭は物凄く良いのに、心への感度があまりにも鈍すぎる。それが合体した結果、とんでもないモンスターが誕生してしまった。

心がわからないだけだから、知識や経験で推測できる推理は、非常に冴えている。だから確かに、蓮さんがいつまでも告白して来ないから、脈なしと判断するのは、理屈としては納得できる。ただ、その判断の仕方が、まるで機械のよう。

この人は本当に言われないとわからない。言えばちゃんと理解してくれるけど、言わない限り絶対に理解してくれない。

言わずに理解されたとしたら、それは理解してもらえたんじゃなくて、日美香さんの一方的な思い込みが実態と偶然一致していただけ。

そういう偶然の噛み合いが不幸にも存在しているから、私は勘違いしてしまった。いつも明るいからわからないけど、これが日美香さんの辛さなのかもしれない。それを菊花はうまく影で支えていたのかもしれない。私と違って、しっかりと日美香さんの婚約者をしていた。

「……とにかく、日美香さんから話した方がいいです。私のためじゃなくて、蓮さんのために。あの人、物凄く思い悩む人だと思うので、行ってあげてください」

「そうは言うけどさ、私これだよ? 的確なことが言えると思う?」

言えるわけないよね、という自信が全身から溢れ出している。日美香さんは良くも悪くも、自分のことがわかっているみたいだった。

どれだけ頑張っても改善できない、人並み未満にすら至れない能力がどこであるか、自覚してくれている。

だったら、誰かが埋められたら、事態を収拾してくれる。というか、この拗れた状況の中心には日美香さんがいるから、日美香さんしか収められない。

だけど、そんないい方法なんて……そう思ったけど、割とあっさり解決策が浮かんだ。気付いてしまえば簡単なこと。常識という壁の裏側。発想の死角に潜んでいただけで。

「……あの、三人一緒に付き合う、っていうのはどうですか?」

「三人一緒に?」

「そうです。私は蓮さんが好きで、蓮さんは日美香さんのことが好きで、日美香さんは菊花と蓮さんのことが好きで……菊花がいないから、日美香さんが損しているかもしれませんが、三人一緒に付き合えば誰も悲しまないで済みます」

「うーん、確かに良い案だとは思うけど、私、それなりに結婚願望あるから、三人以上は困る部分が……」

「それは後で考えましょう。思いつきですが、三人で交代交代で籍を入れて回るとかどうですか? 今月は蓮さんと日美香さんで、来月は私と蓮さんで、再来月は私と日美香さんで、みたいな」

「そんなことしたら、離婚歴がとんでもない数になるし、役所の人が見たら、三人で結婚を回してる異常者だよ?」

「違法ではないはずです。わからないですけど……三人以上で結婚することを想定していない制度が悪いです」

「なかなか無茶苦茶言うね。でも、そういうの嫌いじゃない。わかった。蓮が本当に私のことを好きだって言うなら、三人で付き合おうって、提案してみる」

「突拍子もない話ですが、これでうまくいくと思います」

根拠はないけど私の脳が、これでうまくいくと確信している。”これはうまくいく”でないことに違和感があるけど、そういうこともあるだろう。

なんたって私は記憶喪失なんだから。知識の欠落はないと聞いているけど、本当かどうかなんて誰にもわからない。その範囲内だ。