《白紙の私に無題の道を 第14話 セルフハッキング》作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

 三人で付き合う。その提案をしてから一晩が経った。日美香さんと蓮さんからの連絡はまだない。

昨日、日美香さんを見送ってから、ずっと心臓が早い。事故の怪我が治りきっていない身体には、この程度のことでさえ堪える。

 一人だと、余計なことばかり考えてしまう。三人で付き合うなんて荒唐無稽な発想が、果たして受け入れてもらえるのか。仮に受け入れてもらえたとして、私を入れて三人だとしてくれるのか。

 日美香さんは菊花のことが好きだろうし、蓮さんが菊花のことをどう思っているかは少し謎だけど、並々ならぬものがあることだけはわかる。

 つまり、二人は菊花に何かをもらっている。それに対して、私は二人に貰うばかりでなにも返せていない。

 日美香さんには入院生活を支えてもらったし、最後には私の気持ちを理解してくれた。蓮さんは私の苦悩を、なにも言わなくても理解して、寄り添ってくれた。でも、私は二人になにもしていない。

 二人が私に親切にしてくれたのは、私の肉体が菊花の物だから。三人で付き合うことを受け入れてくれたとして、そうしてくれたのは私の脳が菊花だから。

 蓮さんと日美香さんが、そんな人だとは思わない。思わないけど、私が菊花であったことと無関係では絶対にない。

 昨日は蓮さんに押し倒されたり、日美香さんと初めて心が通ったりして、勢い余ってあんな提案をしてしまったけど、どう考えても出過ぎた行動だった、

 菊花が同じ提案をすることには正当性がある。日美香さんの婚約者なんだから、日美香さんに二人目の恋人や新しい婚約者を作ることを承諾する権利があるけど、私にはない。

 私は菊花じゃないからこそ、してはいけないことだったといまさらながらに思う。

 日美香さんから連絡がないのは、気が利かなかったからなだけかもしれないけど、蓮さんが一緒ならそういうことにはならないだろうから、うまくいかなかったか……もしくは、私はいらないって結論になったのかもしれない。

 いっそ、私だけのけものにして、蓮さんと日美香さんと菊花の三人で付き合うのなら良いって結論の方が、むしろ納得感がある。

 そうじゃないと申し訳ない。私だけ二人から貰いっぱなしで、菊花の遺産で蓮さんと日美香さんと付き合うくらいなら、一人だけ疎外されている方が、二人に私として認めてもらえているような気がする。

 菊花と同じだと思われたくないとか、菊花と同一視してほしくないと思いながら、私は誰よりも菊花を利用している。

 入院生活も、人間関係も、全部全部、菊花が築き上げていたものに依存している。このままじゃ、菊花のようで菊花でない誰かのままで終わってしまう。そんな危機感。

 そもそも、三人で付き合う提案自体、私らしかったのかという疑問……いまにして思えば、何かおかしかったような気がする。

 だって、三人で付き合うなんて、数秒で出せるような発想じゃない。出せたとして、もっと倫理的にとか、心理的に抵抗感があってもいいはず。なのに、どっちもなかった。まるで、もうすでに散々考え抜いて、結論が出ていたみたいに。

 落ち着いて考えてみると、私の思考が誰かに誘導されていたみたいな、そんな作為を感じる。思考のどこからどこまでが私で、どこからどこまでが菊花なのか……急にわからなくなってきた。

 自我を形作る大きな要素が記憶であることは疑いようがない。だとしたら、少なく見積もっても私の半分は菊花だ。菊花が経験した想い出はなくても、学んで物事は全て残っている。

 何を学ぶかは、その人の個性がかなり出る。だとしたら、私の知識を基盤にした発想は、かなり菊花と共通するはず。

 心が仮に想い出と知識で成り立つのだとしたら……私の自我の境界は、隣り合った二色の絵の具のようになっている。

 こんなことになるなら、苦労するのはわかっているけど、想い出だけじゃなくて知識も全部まとめて吹き飛んでほしかった。それなら、完全な私で始めることができたのに。

 菊花の人生と菊花の知識の板挟み。自分の居場所を見つけられないまま、蓮さんと日美香さんに菊花ではなく私としてなにもあげられていないのに、三人で付き合うなんてことになったら……それこそ、全部失ってしまう気がする。

 目が覚めてから、頭の中がまとまらない。うじうじしている。一つの脳内で、心の内側で、誰かと誰かが争っているみたいに。

「おはよう〜、菊……じゃなくて、君〜」

 いつも通りテンション高めで病室に入ってくる日美香さんに安心する。日美香さんの背後には蓮さんが隠れていた。

…………あの、その、昨日は……ごめん……

「気にしてないですよ。私も突然告白してしまって、すいませんでした」

 形だけの謝罪だと思った。蓮さんが本気で昨日の自分を悪いとは思ってないと思うし、実際悪くないと思う。私自身が昨日のことを全く気にしていないから、全然それで構わない。

 それに、二人の顔を見て、頭の中が少しだけ晴れたような感覚がした。菊花が二人のことwどう思っているかとは無関係に、私は蓮さんと日美香さんが好き。

 二人と一緒にいると、私の存在が世界に許されている。そんな風に思える。だからこそ、菊花の遺産に頼らず、私として二人に何かをしたくなる。あげたくなる。いますぐにはムリでも、いつの日にか。

「昨日は連絡できなくてごめんね。二人で話してたら、結論自体はすぐに出たんだけど、細かい気持ちとかが整理しきれなくて」

「あと、大切なことは、直接話したかったからさ……

「わかってますよ。蓮さんが一緒にいて、連絡が来ないってことは、結論が出てないってことは、予想できましたし」

「それはさすがに酷くない!? いくら私でも、そのくらいの気は利くよ!」

「そうなんですか?」

「幼馴染の肌感覚としては、五割弱くらいの確率で連絡くれるかな」

「ほら! 五割もあれば上出来だよ!」

 まあ確かに、日美香さんであることを加味すれば、五割もあれば充分すぎると言うか、ゼロパーセントを五十パーセントにまで努力だけで引き上げた。

 私の介護も、ものすごく頑張ってくれて……日美香さんのそういうところは、当たり前のことだけどずっと好きだった。

「それで……三人で付き合うって、私の提案はどうなりました?」

 言葉にしたと同時に、内臓が裏返って、心臓が破裂しそうになる。

 二人の雰囲気を見る限り、断られた感じはしない。だけど、昨日から連絡がなかったということは、議論があったことは間違いない。

「私は最初から基本的には問題なしだったし、蓮もすぐに良いって言ってくれたよ」

 日美香さんは、昨日の段階で同意してくれた。だけど、蓮さんはもっと説得しないといけないと思っていた。いや、私は思っていた。

 だけど、昨日の時点で、すぐに蓮は同意してくれるという奇妙な確信があった。

「あの、その……蓮さんは、どうして三人で付き合うことを受け入れてくれたんですか? こんな言い方するのは心苦しいんですが……蓮さんにとって、私と菊花は、日美香さんとの関係を邪魔している存在だと思うんです」

 蓮さんが顔を伏せる。表情は見えないけど、顔を伏せると言う行為そのものが表情だと私は知っている。どうしてそんな経験則を知っている? 想い出じゃなくて、経験だから。

 そんな説明で納得できない自分がどこかにいる。

……それはそうだけど、私だけじゃ、いつまで経っても日美香に想いを伝えられなかったから、かな」

「別にそれで良いと思うんです。友達同士、親友同士でずっと一緒なのも、愛の形じゃないですか」

「それはそうだけど、日美香はいつか誰かと結婚してると思う。それでも菊花と君がいてくれたから、いまこうして一緒にいられる」

 蓮さんの言っている意味がよくわからなかった。私はわかる。私が三人で付き合うことを提案したんだから。でも、蓮さんの口ぶりからは、菊花の存在があってこそという感情が迸っている。

「どうしてそこで菊花が出てくるんですか?」

「菊花が事故に遭う一週間くらい前に、三人で付き合うことを提案されてたんだって」

 日美香さんの言葉に、言葉すら出なかった。驚きでさえなかった。激痛が脳内で爆ぜたような衝撃。

 今朝からずっと感じていた違和感。昨日、私が私でなくなっていたような感覚。その答えがいま目の前に差し出されてしまった。

「ど、どういうことですか? 菊花が三人で一緒に付き合おうって、蓮さんに提案していたってことですか?」

……そういうことになる、かな……

「なら……ならどうして、日美香さんは三人で付き合うことを初めて聞いたような反応をしたんですか!? まさか、蓮さん、反対したんですか!?」

「そういう反応になる、よな……菊花に返しきれない恩を売られているみたいで、どうしても受け入れられなくて……でも、君にも同じ提案をされたから、きっとこれが正しいんだって、そう思ったから……

 蓮さんはこう言う人だと、私は知っている。想い出じゃなくて知識だから? ふざけるな、違う。全く違う。必要な知識だから、遺したんだ。菊花が遺したんだ。

 蓮さんは面倒な性格をしていて、日美香さんは単純な性格だから……色々考えて、菊花が導き出した結論がこれだった。

 自分だけど自分ではない誰かに、三人で付き合うことを改めて提案してもらう。そうすれば、蓮さんは折れるし、日美香さんは抵抗なく受け入れてくれる。そして……自分からの提案だから、最後には私から、私が築き上げた全てを簒奪できる。

 それがの意味だと気付いた。命に生まれた意味があるかなんて知らない。答えが存在するのかさえわからない。だけど、私の命には生まれた意味があった。

 私が色々悩んで、苦しんで、最後には都合よく、菊花と蓮さんと日美香さんの三人で付き合うハッピーエンドを用意するための、究極のご都合主義。

 菊花の計画を自覚した瞬間、鼓動を感じた。何かよくわからないけど、死という概念が鼓動を刻み始めた。記憶が蘇ろうとしている。その実感……失った想い出の萌芽。これまでずっと恐れていた、菊花の帰還。

 内に秘めた菊花が私を喰いつくさんとしている激感。私という自我が菊花に踊り喰いにされている。

 もう私は用済み。だって、こうして無事に三人で付き合えることになったから。私は私にしか果たせない役割を果たしたから、もう死んでいい。生きていない方がいい。

「こんなことのために! こんなことのためだけに! 私を作ったなんて……ふざけないで!」

 現実で叫んでいるのか、心の中で叫んでいるのかさえ、わからなかった。

 それでもとにかく、頭を叩きつける。追い出さないと……いま菊花を追い出さないと、私は殺されてしまうから。菊花の狂気に呑まれてしまうから。

 でも、でも……私と菊花、どっちの力が強いかなんて……

※※※

 突然目の前で、記憶を失った菊花が絶叫しながら頭を、ベッドに備え付けてあるテーブルに何度も何度も打ち付け始めた。

 それはまるで、頭蓋を叩き割ることが目的のように激しい。

「な、なにやってるの!」

 それを二人がかりで止める。菊花と、記憶を失った菊花と一緒に過ごして、大概いろんな経験をしてきたけど、こんなのは見たことがなくて……

 怪我人とは思えないほどの力強さで、記憶を失った菊花は暴れている。それでも、日美香と二人がかりなら、無理矢理押さえつけようと思えばできる。

 だけど、普通の人ならなんてことのない力が加わるだけでも、怪我をしかねない状態であることがわかっているから、それもできない。

 日美香と二人で、とにかくどうしていいのかわからないまま、記憶を失った菊花を抱きしめるように止めていると、突然動きを止めた。

 そして、ゆったりと顔を上げた記憶を失った菊花は、額から血を流していた。

「いま、お医者さん呼ぶから!」

 自分で付けたその怪我は、額を切ったくらいに見える。はっきり言って、大した怪我じゃない。それでも、記憶喪失の人間が脳を打ったことは間違いないから、日美香がベッドのそばにある受話器に手を伸ばす。

 お医者さんを呼ぼうとしている日美香を見守っていると……突然、記憶を失った菊花が私の首元に両腕を絡ませ、耳元で甘く囁いた。

「ただいま、蓮。これでやっと……三人で付き合えるね」

 ああ……思い出した。私がどうして菊花のことが大嫌いだったか。自分さえ犠牲になれば、自分さえ捧げれば、そうすることでみんなが幸せになるなら、それで良いという傲慢。そういうところが殺したくなるほど、嫌いだった。

 そしてついに、菊花は人殺しをするまでに至った。自分の内側なんだから、殺したって構わない。だって、傷付くのは自分だから。

 独善の極北。それが菊花であることを、どうしていまのいままで、忘れていたんだろう。