日美香から三人一緒に付き合うことを提案され、それを受け入れる。だけど、受け入れたからって、そう簡単に心に馴染む結論じゃない。
なにせ常識では、三人一緒で付き合うことは良くないこととされていて、それを信じて生きてきた。常識や感情という意味でも受け入れ難いし、社会制度だって三人で付き合うことを前提に作られていない。
三人で付き合うということは、それらとの衝突を意味してしまう。別に争いたいわけじゃないのに、争いを避けられない生き方を選ぶことになる。
日美香と、記憶を失った菊花と同時に付き合うとは、そういうこと。制度上の結婚は諦めないといけないし、家族や友達からの冷ややかな視線にも耐えないといけなくなる。
お互い簡単じゃない。一応形式上は、日美香から提案してきたことだけど、婚約していた日美香こそ一番受け入れ辛い決断なんじゃないかと心配になる。
三人で生きていくというだけでも大変なのは目に見えているのに、記憶喪失という問題が加わると、さらにややこしくなる。
「……あの子に、連絡するの?」
「ちゃんとうまくいったって伝えてあげないとね」
私が三人で付き合うことを了承したことを、日美香が記憶を失った菊花に連絡しようとする。
確かに、いますぐ伝えるのが一番良いと思う。私があの子にしたことを思えば。だけど、まだ連絡できない。
私と、たぶん日美香の心は、まだ完全には決まっていない。迷いがある。三人一緒に、人生を共に歩んでいく、その覚悟。
そして、菊花の記憶をどうしたいのか。あの子が菊花でないと理解したうえで、それでも記憶を取り戻してほしいのか。それとも、記憶を失ったまま、菊花ではないあの子とともに、これから先の人生を共にするのか。
「……あの子に連絡する前に、決めないといけないことがあると思うんだけど」
「決めないといけないこと?」
「そう。三人で付き合うって決めた以上、二人の間に優劣をつけないとか……そういう、三人で付き合うこと特有の、あんまり意識したことがないこともあるだろうし……何よりも、あの子に記憶を取り戻してほしいのかどうか、決めないといけないと思う。いますぐどうこうってのとは別にして、私がどうしたいのか、日美香がどうしたいのかは、ちゃんと確かめておきたい」
記憶喪失の菊花にとって、記憶を取り戻すことが自分の死と直結していることはよくわかっている。その上で、私と日美香にとって、菊花は特別な存在。
日美香にとっては婚約者。私にとっては日美香を奪った相手であり、日美香とこうして結びつけてくれた相手でもあるから、素直に愛しているとは言えないけど、いなくなられると面白くない。
それと同時に、記憶喪失の菊花がいなかったから、日美香と恋人になることができなかった。だから、彼女が死ぬのは私にとって論外。
だからこそ、ちゃんと話し合っておきたい。日美香があの子をどうしたいのかについて。
「私は……あの子のことも大切だけど、菊花に戻ってきてほしいと思ってる」
「そうなんだ。もしかしたらって思ってたから、そう言ってくれて嬉しい」
理詰めで考えたら、好きな人を奪った相手に戻って来てほしくないと思うのが普通。でも、そんなに単純じゃない。
嫌いな相手だけど、消えてほしいわけじゃない。このまま菊花にいなくなられたら、恩だけが残る。そんなの最悪だ。
ありがとうの一つも言えてないし、日美香を奪ったことへの文句も言いそびれている。菊花への大きな恩と怨が残ったまま、これから先ずっと生きていくなんて、あまりにも負債が多過ぎる。
「私も菊花には帰って来てほしい。その上で、私は記憶は戻らなくて良いと思ってる、かな。いまさらこんなこと言うのは虫がいいかもしれないけど、菊花としての記憶が戻ったら、自分が消えちゃうって気持ちは最もだし。菊花としての記憶が戻る可能性を上げることも、なるべく避けたいかな」
少し意外だった。私から見て、日美香はありえないくらい菊花のことを愛しているように見えたから。それこそ、今季の大学の単位を全部落とすことも厭わないほどに。
だから、記憶を失った菊花が、日美香に菊花として見られることが苦痛だと伝えられなかった。菊花でないと理解してしまったら、あの子を支える人がいなくなってしまうかもしれない。
いくら菊花が嫌いだったとしても、あの子に罪はない。私が勝手に板挟みになるくらい、日美香は菊花を愛していた。
そんな日美香が、菊花よりもあの子を優先したいと言っている。私よりもずっとあの子のために時間を捧げて、菊花の婚約者である日美香がこう言っているんだから、私が口を挟む権利はない。
「なんか意外。日美香がこんなこと言うなんて」
「そうかな。だって、菊花の記憶が戻ってあの子と混ざったら、菊花でも、あの子でもない、三人目になる可能性が高いと思うの。菊花に続いて、あの子まで失うのはイヤだよ」
言われてみれば確かに、あの子が記憶を取り戻したら、あの子と引き換えに菊花が戻ってくると考えていたけど、日美香の言う通り、菊花でもあの子でもない誰かになってしまう可能性は非常に高い。
その最悪を考えたら、菊花の帰還は諦めた方が安全ではある。
いなくなった菊花には本当に申し訳ないけど、いまの私たちの手札では、危険が大きすぎる。
「確かにそうだな。あの子と菊花の四人で付き合えたらいいのにって、そう思ったんだけど……」
「それ、いいかもね。もしも実現すれば、それなら誰も、何も諦めずに済むし。でもいまは、そっとしておこう。大切な人を失うのは、もうたくさんだから」
※※※
病室には、日美香と記憶を取り戻した菊花と主治医がいる。そして私は、病室の外で一人待っている。
本当なら菊花の母親が立ち会うはずなんだけど、仕事で来れないということで、婚約者の日美香が家族の代行として、病状の説明に立ち会っている形。
日美香と菊花は私にも残ってほしいと言ってくれたけど、家族以外の立ち合いは遠慮してほしいと半ば強制的に追い出されてしまった。
三人で付き合うと決めて早々、三人で生きていくことの難しさを実感させられる。家族じゃないと立ち会えない場面は稀ではあるけど、そういう状況は大抵、本人と身近な人にとって大切な状況。
三人で付き合うとなると、こうして誰か一人は取り残されてしまう。立ち会ってもらえない方も、立ち会えない方も、かなり辛い。どれだけ三人で私たちは家族だと言っても、最後の最後で誰かが家族でないことにされる。
仕方のないことだとは思う。まさか私たちのためだけに、制度を変えてもらったり、規則を曲げてもらうわけにはいかない。それでも、辛いものは辛いし、寂しいものは寂しい。
三人で付き合っていく上で、考えないといけないことはたくさんある。月並みな表現だけど、問題は山積み。三人で付き合うだけでも厄介なのに、そこに記憶喪失の問題が乗しかかってくる。
自然と記憶を取り戻した菊花のことを”菊花”と呼んでいるけど、本当に彼女は菊花と呼んでいい存在なのかすらまだわからない。
確かに、彼女の振る舞いは、あの子よりもよっぽど菊花。瓜二つと言っていい。だけど、私を同席させてと言ったことや、「これでやっと……三人で付き合えるね」という思わせぶりな台詞から考えると、菊花の記憶だけじゃなく、あの子の記憶もちゃんと引き継いでいる。
昨夜、日美香が危惧していたように、いま病室にいる記憶を取り戻した女性は、菊花でもあの子でもない、第三の誰か……その可能性が最も高い。
記憶を取り戻す直前の、尋常ではない暴れ方。その理由を菊花にまだ聞けていないけど、あの子が記憶を取り戻すことに抵抗していたとしか思えない。
あの子の記憶を共有しているのなら、感情も引き継いでいるはず。なのに、いまの菊花は尋常ではないほど落ち着き払っている。
まるで、記憶喪失に伴う自我の行方。その葛藤の全てがなかったみたいに。よくよく考えてみれば、自分が何者なのかという問いは、記憶喪失後だけじゃなくて、記憶を取り戻した後にも起こって当たり前。
記憶の融合によって、記憶の有無で性格が変わることを自覚してしまったら、自分とは何者なのか、わからなくなると思う。いまの菊花はその状態。にも関わらず、冷静そのもの。
記憶を失った自分は、いまの自分とは違う。なのに、記憶が融合したら、以前とそれほど変わらない。その異常自体を、ものの数十秒で心身に馴染ませたのだとしたら、すごいというよりも気色悪い。
正直、菊花とどう向き合えばいいのかわからない。日美香を奪い、私に三人で付き合うことを提案してきた菊花への感情は、テレビの裏面のコードのように絡まり合っている。
記憶を取り戻した菊花を目の当たりにして、その思いは強まるばかり。菊花には言語外の薄気味悪さがある。
彼女の口ぶりからは、記憶喪失が意図的であったかのような含みさえあった。他の人が同じことを言っても、そんなことないと思えるけど、菊花の場合は、なんかありえてしまいそう。
自分自身の感情との向き合い方も、菊花との向き合い方も、三人で付き合うという決断との向き合い方も、全てがわからない。
菊花のことも心配だけど、日美香は大丈夫だろうか。菊花を失った悲しみとやっと向き合えそうになった途端に、あの子が消えて、菊花と同化した。大切な人を二人同時に失う結果になっていなければいいけど……
なんて心配をしていたら、病室から菊花の主治医と、少し遅れて日美香が出て来た。
「菊花……なのかはわからないけど、あの子の状態は?」
「脳に異常はないって。記憶が戻った影響って意味でも、頭をぶつけたことも。暴れたのは、記憶が戻ったことに伴う混乱が原因だろうって」
「そりゃ混乱が原因だろうけど……」
「だよね……」
主治医とは言え、菊花だけを診ているわけじゃないから、その内面に無頓着なのは仕方ないとは思う。だけど、脳に問題がないからって”問題なし”は、さすがにどうかと思う。
いきなり記憶が蘇ったら、頭を何度も自分でテーブルに叩きつけるくらい混乱して当たり前……なわけない。あの混乱はそういう次元を超えていた。
言い方は悪いけど、あの日美香が菊花とあの子の内面を想像して、恐怖を覚えるほどの異常事態。
「日美香的には、いまの菊花はどう見えた?」
「……私のそういう見立てが合ってるとは、あんまり思えないから、聞く意味ないと思うな」
「菊花とあの子を一番間近で見てたのは日美香だから、日美香の思うことが聞きたい」
「……菊花と変わらないように見えた。昔と何一つ変わらない。それが、ちょっと怖いな。記憶を出し入れするだけで、人ってこんなに変わっちゃうんだって」
記憶があるかないかで、人が変わる。それが恐ろしいのはよくわかる。自我がどうとか、死後の世界とか、魂とか、そんなことを言って心を高尚なものにしようとしても、結局のところ心なんて、電気信号へ変換された記憶が形作った、物質でしかないと実感させられるから。
その現実を直視して平気でいることは、なかなか 難しい。記憶を失った菊花が自分が何者かわからなくなったように、私たちも自分という存在がそこまで強固でないことを実感して、自分は自分だという自信を失いそうになる。
「蓮はどうする? 私はお医者さんに呼ばれてるからしばらく席を外すから……菊花と話してる?」
日美香が気を遣ってくれているのがわかる。三人で付き合うと決める前は、私が誰かと付き合ってダブルデートをする日が来るのかな、なんて言われていたのに。
日美香にこんなことを言ってもらえるなんて、夢のよう。でも、素直に喜ぶには解決しないといけないことが多過ぎる。
「そうしようかな。ちょっと気まずいかもしれないけど……頑張ってみる」
「それがいいと思う。菊花、あれでも傷付きやすいのに隠すから、蓮も支えてあげてくれると嬉しいな」
「日美香がそんなこというなんて珍しい。二人きりの時、よく甘えられてたの?」
「そんなことないよ。私の無自覚さを教えてもらったり、そのことで愚痴ったりする側だったよ。でも、たまに菊花の方から泣きついてくることもあったよ」
「想像できないな」
「三人で付き合うなら、イヤでも見れるよ」
「なら、その日を心待ちにしてる」
私は菊花の家族じゃないから、病状の説明に同席できないから、ここで日美香と別れる。
菊花が一人残されている病室の前の扉で、立ち尽くしてしまう。ただ扉を開けるだけ。たったそれだけのことができない。
いまにして思えば、菊花にも、あの子いも酷いことをしていたと思う。だけど、それを素直に反省できない自分もいて。
「私は何も気にしてないから、入って来てよ」
扉の映るシルエットで、私が立ち尽くしていることを察した菊花が、分厚い扉越しに声をかけてくる。
こんなことをされたら、入らないわけにはいかない。意を決して、病人でもすんなりと開けられる重苦しい扉を開ける。
「久しぶり? それとも、ただのおはよう、がいいのかな?」
「どうかな。お任せする」
ベッドの隣にある、いつも私があの子と話す時に座っていた椅子に腰掛ける。この体勢で菊花と話すのは初めてで違和感……というより、日美香に続いて、あの子まで菊花に奪われてしまったような気持ちになる。
「それじゃ、久しぶり、で。私のことが苦手な蓮」
「菊花は、本当に余計なことばっかり覚えてるな」
「余計じゃないよ。蓮との大切な想い出」
「生憎、それは菊花とじゃなくてあの子との想い出なんだけど。菊花にあげたつもりはないし、あんたと共有しないと思ってたから告白したことなんだけど」
「優しいね。蓮だけが世界に居場所を失くした私を受け入れてくれた。本当に嬉しかったんだよ?」
「だから菊花に言ったつもりはないって言ってるでしょ! さっきから、自分はあの子みたいに言って!」
もう二度と菊花にはこういう言い方はしないと誓ったつもりだった。でも、菊花の存在が癇に障る。とにかく、菊花の一挙手一投足、その森羅万象が私の逆鱗を愛撫する。
普段は抑えることができるのに、菊花はひた隠しにしている私を剥き出しにする。
「本当に蓮は私の前では素直だよね。その方がかわいいんだから、普段からそうしてればいいのに」
「うるっさいな! いいからだまって、あの子を返せって言ってるんだ!」
「返せって言われても、私はあの子で、あの子は私だから、返しようがないよ」
「じゃあ、あの暴れっぷりはなに!? どう考えても、あの子は納得してなかったでしょ!」
「そうだね、最後まで抵抗してたよ。でも、こうして私とあの子の記憶が同化したいまは、双方納得してるから、もう問題ないよ」
「それはおかしいでしょ! 菊花の人格があの子を呑み込んだから、判断が変わったとしか思えない!」
「その理屈で行くなら、私の判断だってあの子に呑まれてるよ? だって、蓮があの子にしてくれたことで、菊花だけだった時よりもずっとずっと、蓮のことが大好きだし。蓮ならわかってるでしょ。私は菊花でもあの子でもない、言うなれば第三の私。完成形……って言えば聞こえはいいけど、そんなに高尚なものではないよね」
菊花……なのかすら判然としない誰かが、悪びれもなくそう口にする。こいつは自分の内側だから、自分で自分をどうこうする分には問題ないと考えている。
そんなわけない。人間、自分だけで生きてない。人と人との繋がりの中で生きている。私とあの子、日美香とあの子が紡いだ時間、その時間は山陰だけのもの。なのにこいつは、躊躇いなくあの子を喰った。
記憶を取り戻すという行為に善悪があるかはわからないけど、私はこういうことを平気でするこいつのことが大嫌いだ。
「完成形って……あの子を部品みたいに……」
「蓮って私のこと嫌いだけど、あの子のことは好きでしょ? 日美香は私のことが好きで、あの子のことも好き。だったら、合体したいまの私なら、二人からちゃんと好きになってもらえるし、私も二人から二人分愛してもらえるからもっと幸せ。それじゃいけない?」
「いけないに決まってる! あの子はずっと苦しんでた! 自分がいつ菊花にされるかわからなくて!」
「蓮は、私とあの子を別人みたいに言ってるけど、本当に心の底からそう思ってた? あの子に私の面影を見てたんじゃない?」
心に渦巻く感情が静止してしまうくらい、言葉に詰まる。もしかしたら、菊花への抑えきれない感情が、あの子に菊花の面影を見ていたことから逃避するためだったんじゃないかと思えてしまうくらい。
「別にね、それでいいと思うよ。だって、仕方ないよ。顔だけじゃなくて、考え方の癖まで私”そっくり”なんだから。あの子に私を見てても、蓮は悪くないんだよ」
慈しむような声色。それがどうにも我慢ならない。私の全てを見透かし、抱きしめ、包み込むような態度が気に入らない。
そしてなによりも、こんな奴に、包み込まれたくなる私自身を、私自身が許せない。
「……私、やっぱり、あんたのこと嫌いだわ」
「私は蓮のこと大好きだよ」
「…………三人にあんたを加えて四人で付き合うのは夢みたいだけど、日美香と菊花の三人で付き合うのは悪夢そのもの」
「そんなに私のこと嫌いなのに、家族になってくれるんだ」
「嫌いな人と付き合ったり、家族になったらいけないルールなんてない。三人とか四人で付き合うって決めた時点で、嫌いな人と付き合うくらい誤差だっての」
「確かにそうかもね。それで、蓮は結局どうしたいの?」
答えは決まっている。ただ、こんなに早く伝えるつもりはなかった。でも、あの子に言えないだけで、菊花になら気兼ねなく言える。どうせ、こんな奴だし。
「菊花からあの子を引き剥がす。それで、四人で付き合う。それだけ」
「蓮こそ私を部品みたいに言っちゃって。でも、そういうのも面白いかもね。楽しみに待ってる」