《白紙の私に無題の道を 第16話 君の全てを全肯定!》作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

記憶を取り戻してからの菊花は、リハビリに熱心だった。自分の頑張りが菊花に奪われるという恐怖がなくなったんだから、怪我から回復することは菊花にとってプラスでしかない。

リハビリは病院に任せきりにすることもあったけど、大学の出席日数に余裕がある私や日美香が、お見舞いのついでに様子を見守ることもあった。

三人で付き合うと決めた以上は、最初にあの子の看病をしてくれていた日美香よりも、私の方がリハビリに付き添うことが多い。そうじゃないと対等とは言えないから。だけど、不満が募る。日美香へとか、看病をすることにじゃなくて、菊花に対して。

菊花は私に「わざわざ見守ってる必要はないよ」と言ってくれたし、日美香も「蓮がムリすることないよ」と言ってくれた。だから、そういうことじゃなくて……

いま目の前には、生まれたての子鹿のように、立ち上がることさえおぼつかなくて、歩くことなんてままならない菊花がいる。それでもめげずに、何度何度も立ちあがろうとする菊花に、あの子の面影はない。

あの子がリハビリをしている光景を直接見たことはないけど、それでもわかる。後遺症が回復する様子が全くなかったから、彼女にいかにやる気がなかったか。

細かい所作なんて見るまでもない。治療への姿勢だけで、あの子がもういないんだと実感する。

いまこうして菊花がリハビリに熱心なのは、あの子から奪われる恐怖すら、奪ってしまったから。菊花に完全に喰い尽くされたあの子には、自分が消失する恐怖を抱くことすら許されない。

菊花はまた、奪っていった。私から日美香を奪ったと思ったら、私と日美香とあの子から、あの子を瞬く間に奪った。

「蓮、お待たせ。今日の分は終わったよ」

「お疲れさま」

リハビリ室にあるソファーに、菊花が療法士さんに支えられながらやってくる。菊花を車椅子に移し替えてもらって、病室へと移動する。

「前も言ったけど、こんなことに付き合わなくても大丈夫だよ」

「毎回付いてるわけじゃないから、大丈夫。お見舞いのついでみたいなものだし」

「蓮にとってこれは、お見舞いなんだ。私はデートだと思ってるのになー」

心底残念そうに、冗談めかして菊花が小さく叫ぶ。いま、車椅子を押している相手があの子だったら、私だってデートだと解釈していたと思う。せめて、前の菊花なら、デートでもよかった。

だけど、あの子を喰らい尽くした菊花を相手に、そう思うのはムリだ。大切な人を殺した仇敵とデートができるほど、お人好しじゃない。

「あの子を返してくれた後だったら、あんたとデートしてあげてもいいけど」

「そう言われてもなー。私の一部にあの子はいるのにその言い方は、私に失礼だと思うよ?」

「別にあんたに失礼なことをすることに、何の躊躇いも持てないんだけど」

「もしかして私、日美香と付き合ってた時よりも蓮に嫌われてない?」

「ずっと前からわかってたのに、いま気付いたみたいな言い方、やめてくれるかい?」

「えっ、私、蓮に嫌われてたの? 冗談のつもりだったんだけど……」

心底意外そうに、菊花が驚いている。それが、なんか頭にくる。

結局、菊花は自分が何をしたのか、全くわかってくれない。あの子を殺したということもそうだし、三人で付き合うために、意図的に事故にあったかことの重大ささえも。

私たちがどれだけ心配したか、菊花はわかっていない。事故を起こした相手にだって、迷惑がかかっている。菊花は、自分が犠牲になれば、自分だけで痛みの範囲が済むと考えている節がある。

「……ずっと確認したかったんだけど、あんたさ、わざと事故に遭ったわけじゃないよね?」

「まさか。そこまで無謀じゃないよ。相手にだって迷惑かけちゃうし。普通に歩いてて、普通に脇見運転に轢かれちゃっただけ。でも、事故の衝撃で記憶が飛んだら、三人で付き合えるかもって瞬間的に思ったのは本当だけどね」

「あっそ。とりあえず、それを聞けて安心した」

記憶を取り戻した直後の、「これで三人で付き合えるね」という言葉から察するに、意図的な記憶喪失であったことは間違いないし、それを隠してもいない。

だからといって、事故自体は本当に事故らしい。菊花は嘘をつかないし、日美香から事故の状況の目撃情報を聞いているから、私が疑い過ぎていただけ。そういうことらしい。

 

病室のベッドに菊花を寝かせて、私は大学の課題を進める。会話はあるような、ないような。つまり、菊花が事故に遭う前と同じ。

日美香がいないと、大体いつもこんな感じだった。気まずいような、これが自然体のような、奇妙な感覚。

日美香の前だと、背伸びをしてしまう。他の人の前だと、醜い自分を隠さないといけない。だけど、菊花の前なら感じたままの心を剥き出しにできる。

菊花になら、酷い言葉で貶しても許してくれるし、何よりも……菊花になら、こんな自分を見せてもいいと思える。思えてしまう。

つまり私は、菊花に甘えている。日美香を奪い、あの子を殺めた菊花のことを、精神的に弱い箇所を見せられる相手だと、そう感じてしまっている。

そんな自分を許すことができない。

「こんにちはー、リハビリはどう……だった?」

病室の扉が開いたと同時に流れてきた、いつも通りの呑気な日美香の声が、一拍置いて呆れ声に変わる。

私と菊花の関係がピリついていることを、日美香はわかってくれている。察しが良いんじゃなくて、菊花に喰われたあの子のことで、菊花を許せないことを公言して憚らないから。

「順調だったよ。今日は五メートル歩けた」

「そうなの! よかったじゃん!」

「蓮と日美香が見てる日は、頑張らないとって思うから、一気に回復してるかも」

「……頑張らなくて良いし、そういうことなら次からはお見舞いだけにして、リハビリは見ないでおくよ」

「蓮は相変わらずだね」

日美香にはずっと隠していた私のトゲトゲした姿。最初は戸惑っていたような気がするけど、どういうわけか、いつの間にか日美香も受け入れていた。

日美香の心が広いからなのか、単に私の感情の機微が読み取れていないだけなのかは、正直よくわからない。一番の理由は、菊花が私のあんまりな態度に怒らないどころか、ちょっと嬉しそうにしているからだと思う。

それが余計ムカつくと言えばムカつく。

「そうなったら、日美香がいる日は頑張って、蓮がいない日も、こんなに頑張ったよって言うために、頑張る」

「なら、リハビリ見守ってる方がマシだな」

「蓮が見てる時も、もちろん頑張るよ」

「……うっざ。あんたは私をどうしたいわけ?」

「愛したいだけだよ?」

ストレートに言われたら、受け入れやすいと言うことは全くない。むしろ、理性が愛を拒絶する。こんなやつの思いどおrになりたくないという気持ちが、前面に出てくる。

「こんな私のどこが良いんだか、私にはわからなんだけど」

「記憶を失ってる私にしてくれたことに、ときめいてるんだよ?」

「だからそれは、あの子にしたことであって、あんたにしたことじゃない」

「そういう頑なところも、好きだよ」

菊花と話していると、大岩と問答しているような気持ちになる。私が何をどうしても、何も変えられない無力感。

別に、人に嫌われる趣味はない。だけど、嫌いな相手に嫌われるのは、やぶさかじゃない。なのに、菊花は私が罵詈雑言を浴びせても、なんともない。

菊花が私の言動であまりにもダメージを受けていないから、婚約者をめちゃくちゃに言われている日美香にさえ微笑ましく見守られている始末。

日美香に嫌われたくないから、菊花に普通に接しようとしていたことが嘘のよう。

「とにかくいまはさ、菊花がいるいまを楽しもうよ。いまあの子が戻ってきたら、この不自由な体に戻すことになるんだし。あっ、負担を菊花に押し付けよう! みたいな意味じゃないからね!」

「ちゃんとわかってるから大丈夫」

日美香と菊花が穏やかな会話をしている。日美香はあの子が菊花としての記憶を取り戻すことに反対していた。私よりも。

だけど、一度あの子が菊花に戻ってしまえば、良くも悪くもこの有様。記憶が戻ったとして、あの子の人格どころか、菊花としての人格まで壊れる可能性があったから反対していただけで……こうして菊花がかなりの程度で菊花のまま記憶を取り戻したら、こうなるのは当然だった。

菊花のことを半ば憎悪していた私と違って、日美香は菊花は婚約者だったんだから、仕方ないと思っている。あの子がどうでもいいわけじゃないのも、わかっている。こうして菊花との日常を取り戻せたんだから、そこに安息を見出していることを非難なんて、とてもできない。

それでも、もうちょっと、あの子がいなくなったことに対して。そして、菊花のあまりにもあんまりな言動に対して、曇ってくれてもいいんじゃないかと思う。

これじゃ、あの子が自分の存在を、世界から否定された存在だと信じていたことを、世界中が後追いで肯定しているみたいだ。

そんな理不尽を認めるわけにはいかない。あの子を喰らって心の血肉とした菊花。婚約者の日美香。二人にあの子の存在を、私ほど重く受け止めてもらうのは、なかなか難しいのかもしれない。かといって、お医者さんなんて、もっと当てにならない。記憶が戻って問題解決だと考えている。それが普通なんだろうけど、それが普通だから、あの子は苦しんでいた。

いろいろあったけど、四人で付き合うと決めた時点で、あの子の苦悩とともに生きていくと覚悟を決めた。だから、せめて私だけは、普通に染まるわけにはいかない。そうじゃないと、あの子があまりにも、あんまりだから。

※※※

面会時間が終わると、外は夕暮れと夜の狭間で揺れていた。どっちつかずな時間帯。私たちの関係みたい。なんて、しょうもないことを思ってしまう。

「……日美香はさ、このままでいいの?」

明日は二人で大学に行くから、私の家で泊まることにした。その帰り道、気の迷いで口に出てしまった。

日美香にとってあの子はどんな存在なのか。このままあの子を諦めて三人で生きていくのか。それとも、菊花の胃袋を裏返してでも、あの子の肉片を見つけて、縫合してでも、取り戻すのか。

私は菊花の体が回復したら、そうしたいと思っているけど、日美香はどうなのか。

「……それってさ、いますぐ決めないとダメ、かな」

「というと?」

「さっき菊花に言った通りだよ。いまを大切にするのじゃ、ダメなのかなって。態度が一貫してないように思われるかもしれないけどさ、あの子がいるなら、あの子と過ごす時間を大切にしたかった。でもいまは、菊花がいるから、菊花といる時間を大切にしたい」

日美香が言いたいことはわかる。誰だって目の前にいる人が一番大切。私だって同じだから。大学に入って、日美香と二人で暮らすようになってから、家族との物理的な距離がそのまま心の距離になった。

家族と一緒に暮らしていた頃は、家族の問題に頭を抱えていたのに、いまは目の前にいる日美香と菊花のことばかり。

人間誰だって、目の前のことに精一杯で、全力。日美香はただそれだけ。ただ純粋に、普通に生きている。

つまり、私がおかしい。遠くに行ってしまった人のことを、いつまでもいつまでも一番に考えている私が異端。その自覚は、さすがにある。

「……そうだね。日美香の言ってることが、正しいと思う」

「正しいとか間違ってるじゃなくて、私はそういうことしかできないだけだよ。それに、いまは蓮がいてくれるし」

「そこでなぜ私?」

「だって、あの子のことは蓮が真剣に考えてくれてる。私、そういうの向いていないでしょ? 目の前にいる人のことさえ、決めつけちゃうんだから、目の前にいない人のことを思いやるなんて、絶対にうまくいかない自信がある! だから、そういう難しいことは、蓮がうまいことまとめてくれるだろうなって」

ようやく、日美香が私の菊花への劣悪な態度に気を悪くしていないのか。その理由がわかった。

あの私の態度を、菊花への攻撃ではなく、半ば死んでしまったあの子への愛情表現だと、日美香は解釈していたらしい。

言われてみれば、そういう要素が欠片もないとは言えない気がする。だけど、それはかなりアクロバティックな解釈というか……日美香の内面を見る力の弱さが、私に都合良く発動されて導き出した結論。って感じがする。

私は日美香のこういうところに救われている。だから好き。菊花は私の悪意を勘違いなしで真正面から受け止め、その上で好きと言ってくるから、キライ。

「それ、面倒なことを私に押し付けてないか?」

「蓮の得意なこと、ね」

「都合良くあしらわれてる気しかしないな」

とは言うものの、日美香のおかげで、少し割り切れた気がする。菊花がどう思っているかなんて知らないし、わからないけど、これがあの子と日美香に託された使命らしいから。

私がいまこうしているのは、菊花の態度が気に入らないのが理由の大半。それでも、二人の想いを背負っているなら、ちょっとくらい横柄でも許される気がしてきた。

明日からも全力で、菊花にあの子の無念を、当たり散らしていよう。