《白紙の私に無題の道を 第17話 日常への不完全な帰還》作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

あの子を食い散らかした菊花の右手を繋いで歩く。これまでは病院の中でこうしていたけど、今日は違う。リハビリもかねて、病院の目の前にある公園を、日美香と三人で散歩している。

菊花が事故に遭ってから初めての外出。あの子と違って菊花はリハビリに熱心だから、回復が早い。あの子でいる間は、どれだけ時間をかけても回復の兆しなんてまるでなかったのに、記憶を取り戻してからは、三週間足らずで、こうして人の手を借りながらであれば、数メートルは一人で歩けるまでになった。

「座らなくて大丈夫?」

「うん、平気。せっかくだから、もう少し歩いてみる」

無人の車椅子を押す日美香と、私の左手を命綱のように握りながら弱々しく歩く菊花が、私を間に挟んで仲が良さそうに話している。

昔は忌々しく感じた光景だけど、いまは微笑ましいと思えなくもない。本来なら、三人で付き合っているんだから、思うことなんてないはずなのに。あの子の不在が、感情を曇らせる。

「ここに公園があることは知ってたけど、こうして歩けるなんて、夢みたい」

「夢みたいって……歩くことはあんたにとっては、そんなに特別な体験じゃないでしょ」

「そうなんだけど、私の記憶と、人生で一度も歩いた経験のない記憶が同居してるからさ。こうして外を自力で歩くことが、本当に特別なんだ」

「勝手にあの子の喜びを奪うのはやめて」

「さっそく今日の、私に怒るノルマ達成?」

「うざ。ノルマじゃなくて、あんたの態度が気に入らないから怒ってるだけ」

「そうかなー。かなり義務感入ってると思うけど」

私の手を握っていないと歩くことすらできないくせに、私の心をまるでガラス張りとばかりに平然と見透かしてくる。よりにもよって、まざまざと見せつけられたくない箇所を、日美香の前で口にしさえする。

菊花の言う通り、こうして菊花の言動に対して心を強く持ち続けることが、どんどん難しくなってきている。

それも当然のことで、もうとっくに、あの子と過ごした時間よりも、あの子を喰らった菊花と過ごした時間の方が圧倒的に長い。

それでも、過ごした時間の密度だけなら、あの子との方が濃密だった。あのこと一緒にいた時間は累計しても、三時間に満たないかもしれないけど、恋人だと思えるくらい、濃い時間だった。

でも、質だけでは圧倒的な物量には勝てない。ましてや、いまやあの子は菊花の心の胃袋の中で、魂の血肉と成り果てている。こんな致命的な遠距離恋愛で、恋心を変わらず維持するのは想像していたよりもずっと難しかった。

それでも、この恋が冷めてしまったら、あの子が生きた証が世界から消えてしまうから……こうして、菊花にほぼほぼ難癖としか言いようのない理由で、あの子のために怒ることで恋の形を保とうとしている。

「蓮って、義務感で怒ってたの?」

「なわけない。義務感で怒れるほど、良い人じゃない」

「だよね」

「だよねは失礼だろ、さすがに」

相変わらず日美香は鈍いままだから、目の前でこんなことを言われても、勘違いしたままでいてくれる。

こんな日美香を、絵に描いたようなジト目で菊花が見つめていることにすら、日美香は無自覚だ。

「そういうことにしたいなら、そういうことにしとくで私はいいけど、蓮が辛いだけじゃない? これでも、心配してるんだよ? 蓮が背負う必要のないことで苦しむのは、私も苦しいよ」

菊花が瞳を覗き込もうとしてくるから、思わず目を逸らしてしまう。私が自分の心を押し殺さずに済むようにと、こうして引き摺り出そうとしてくれている。

この感情を直視してしまったら、甘えてしまうから……必死に目を逸らす。私が菊花の優しさに負けてしまったら、もうあの子が帰還する望みは断たれてしまう。

あの子を喰らい一体化した菊花がそれで構わないとなったら、あの子の命を望む人は、誰もいなくなってしまう。

私が背負うべきものじゃないからこそ、私にしかあの子の存在理由を背負える人はいない。その自覚があるから、菊花の優しさに甘えるわけにはいかない。

あの子との想い出を、いまの菊花に重ねた方が、いろいろと都合が良いし、楽だと思ったことは、一度や二度じゃない。

だからって、楽な方に流れたら、絶対に後悔する。心地良い方にゆらゆら流れたとして、そこが本当に私にとって住み心地の良い場所とは限らない。

時には流れに逆らって、激流を登ることも、私らしい人生には必要だと思う。菊花の甘言に従っていたら、怠けた淡水魚が海水へ放り出される。それに近いことになる気がするから。

※※※

公園でのデート兼リハビリを終えて、その様子を主治医に伝えたら、退院しても良さそうという話になったから、退院の三人で日程を決めた。

ベッドの数が足りないからとか、病院側の事情もありそうではあったけど、長い入院生活が終わるなら、嬉しい。

その相談自体は三人でしたけど、肝心の菊花の状態を主治医から聞く会話からは、私はまた除け者にされた。

日美香と菊花は、私への扱いに不満を言ってくれたけど、私はというと、こういう扱いに慣れ始めている。

二人と違って、私は三人目だって自覚がある。日美香に先に告白できる立場にいながら、ずっと何もできなかった。そんな私が、二人と同じ扱いを望むのは、ちょっとわがままがすぎる。

二人は私のことを三人目だなんて思っていない。二人は婚約者だったはずなのに、私のことを対等に見てくれている。でも、私はそんな風に自惚れることはできない。

菊花に三人で付き合うことを提案されて、あの子に許されてしまった私が、二人と同じ扱いで良いとは思えない。三人で付き合うことが当たり前の社会ならまだしも、そうじゃないから。

三人目として扱われることが辛くないわけじゃないけど、下手に同等に扱われるよりは、納得感があるんじゃないかって、最近はちょっと思い始めている。

「退院日が決まって、一安心だね」

「……だな」

いつも通りになりつつある、病院からの帰り道。これも、あと二、三回あるかないか。ちょうど一週間後に、菊花は退院することになった。

リハビリや、脳の定期検診で病院への通院が終わるわけではないし、車椅子生活が続くから、私と日美香の付き添いがなくなるわけじゃない。

とはいえ、これで事故の治療はひと段落……ということになる。衰えた筋力を戻したり、脳を強打したことによる運動機能の回復のためにリハビリが必要とは言え、一生付き合っていく必要のある後遺症はいまのところないとのこと。

そして、記憶喪失という大問題も、記憶を取り戻したことで”解決”した。医学的に見れば、菊花は今日退院したって構わないほど、問題がない。

その扱いが正しいことなのはわかっているけど、どこか納得がいかない。あの子がいなくなったことを、主治医どころか、間近であの子のリハビリの様子を見ていた療法士さんですら、相変わらず全く気に留めていない。

いくら同じ肉体、同じ脳を共有しているとはいえ、あの子と菊花では、どう考えたって同一人物とは思えない振る舞いをしているのに、”こんなもの”で処理している。

蚊帳の外に置かれがちだけど、機会があれば、あの子がどうすれば帰ってくるか質問をし続けたけど、質問の意図を理解してもらえることさえ、ついに叶わなかった。

どれだけ説明しても「記憶をもう一度失くしてほしいの?」と聞き返されるだけ。そりゃ確かに、記憶をもう一度失くすことで、あの子が帰ってくるなら、それも選択肢の一つであることは確かだけど、そうすると菊花が死ぬことになる。

だから、記憶が戻らなければよかったとは思わないし、もう一度失ってほしいとも思わない。私はただ、四人一緒になりたかっただけなのに。

「あんまり嬉しそうじゃない?」

「まあね。結局、あの子はいないままだし、退院した菊花がどこに住むのかも決めないといけないしな」

いまは私の家で、日美香と二人で住んでいる。私は慣れてしまったけど、日美香は一人で暮らすのは寂しいとのことで、私とほぼ同棲状態。日美香が菊花と同棲を始めるまではずっとそうしていたから、問題は何も起こっていない。

だけど、菊花が退院したら、この生活も続けられなくなる。菊花は誰と住むのだろうか。菊花の一年後がどうなっているかはわからないけど、目先の数ヶ月はとても一人で日常生活をこなせる状態じゃない。

菊花がこのまま以前と同じように日美香と二人暮らしをするのは、あまりにも日美香への負担が大きいから、大学を休学して実家に戻ることを、菊花の家族には提案されているらしい。

現実的だし、私と日美香が一番楽な選択肢であることは間違いない。だけど、なんだかんだでほぼ毎日顔を合わせている菊花と離れ離れになるのは、かなり寂しい。

「……蓮さえよければなんだけど、三人で一緒に住まない? 私一人で菊花を支えるのは大変って理由だから、申し訳ないんだけど……」

「三人で付き合ってるんだから、気にすることじゃない。私から提案しようと思ってたくらいだよ。だけど、私と日美香、どっちの家に住むとしても、狭いと思うけど?」

「まあ、その辺りはあとあと考えよう。三人で住んでみたら、案外なんとかなったり、全然うまくいかないかもしれないし。様子を見てからじゃないと、何も決められないかなって」

日美香が言っていることは、私としても理想的な展開。日美香にだけ菊花の負担を押し付けたくはない。かといって、菊花が実家に帰ったら、大学を休学することになる。そうなると、家で一人、やることもないだろうから人生の一部を、寂しい思いをしながら、ほぼ無為に過ごさせることになるだろう。それはあんまりだなって思う。

二人がかりでも菊花の負担に耐えられなくて、最終的に放り出してしまう展開は考えられるけど、ひとまずは三人暮らしで様子を見るのが、私たちにとっての最善だと思う。

「それじゃ、三人で住む方向で動こうか」

「うん、そうしよう」

菊花に確認はまだとっていないけど、私と日美香の思いは決まった。

※※※

「ようこそ私たちのお家へー……って、来るのは初めてじゃないよね」

「そうだね。何度かお邪魔させてもらってる」

待ちに待ったような、大切な試験の当日のような……心を一色で塗りきれないまま迎えた、菊花の退院日。

私の家か、日美香と菊が住んでいる家のどちらで迎えるか議論して、大学が近いからという理由で、私の家でひとまず三人で暮らすことになった。

そしていままさに、日美香と菊花が、家のリビングに入ってきた。

「私が初めてこの玄関を跨いだ瞬間の、蓮の顔、忘れられないな」

「普通だったと思うけど。というか、なにもかも忘れてたくせに、よく忘れられないなんて言えるな」

「比喩表現も見逃してくれないなんて、蓮らしいね」

どう聞いても褒め言葉じゃないんだけど、こういうことを褒め言葉として言えてしまうのが、菊花という人間の気に入らないところ。

思い返してみると、菊花は出会った時からずっとこの調子だった。あの子はこんなことなくて、素直で寂しがり屋で、ちょっと卑屈な良い子だったのに。どうして記憶が戻っただけで、こんなことになるのか、全く理解できない。

「ねえねえ、その時の蓮ってどんな感じだったの?」

「聞かなくていい、そんなこと」

「なんていうか、私の日美香を取らないでって感じかな。そこで、蓮はずっと日美香のこと好きだったんだって、確信したんだよね」

「……はぁ? あんたが私たちの家に遊びに来たのって、二人が付き合い始めてすぐだったよね? それじゃなに? 私が日美香のことを好きなのがわかってて、婚約したってこと!?」

「だって、あの時にはもう蓮のことも、日美香のことも大好きだったから、結婚しようって言われたら断れるわけないよ。でも、そのおかげで日美香と付き合えたんだし、ね?」

何か言い返したい気持ちしか生まれてこないけど、菊花が言っていることは事実だから、何も言い返すことができない。こうなることがわかっていたから、私は菊花に恩を作りたくなかった。

あの子に三人で付き合いたいと日美香経由で知らされて、油断した。その一瞬の隙が原因で、菊花が私の内側に浸水してくることを許してしまった。

「過ぎたことってこともあるけど、同じくらい大きな好きを選べない気持ちもわかるしさ、仕方ないよ」

「こんな奴の肩を持たないで」

「そうは言うけど、蓮は三人で付き合う提案を一回されたのに、首を横に振るような人なんだよ? とりあえず私との結婚を約束したくもなるよ、普通」

「うっ……それは、そうだけど……」

「蓮はプライド高いもんね。そういうところもかわいいよ」

日美香に私の過去を指摘されるのは仕方ない。私が三人で付き合う提案を受け入れていたら、あの子が余計に苦しむことはなかった。

だけど、あの時、私が素直に頷いていたら、きっとあの子は生まれていない。それが良いことなのか、悪いことなのかはわからない。あの子の人生に、生まれるに足るほど良いことがあったようには思えないけど、私が決めることじゃないし、菊花が決めることでもない。

とにかく確かなことは、あの子が抱いていた私への好意が、菊花に上乗せされているということ。

それがとにかく気に入らない。あの子と同じような目と声色で、だけどどこからどう聞いても菊花の言い方で、私に好きと囁いてくる。

私か日美香の手を握っていないと、歩けもしないくせに、マウントを取ってくる。その行為を、私の全知全能が受け付けない。

そりゃ確かに、日美香と付き合えるようにいろいろしてくれたあの子と菊花には恩があるけど、そんなこと言い出したら私だって菊花には日美香ほどじゃないけど尽くしている。

お互い相手に返さないといけないものがあるんだから、それらしい態度があるだろう。

まあ、それらしい態度をされたら、それはそれでイヤなんだけど。これから先、三人で生きていくとしたら、誰がいつどうなるかなんてわからない。

いまは菊花の体が壊れているけど、次は私や日美香かもしれないし、また菊花かもしれない。家族として助けてもらう番が、いまは菊花というだけで、次誰かなんてわからないんだから、あんまり申し訳なさそうにされたり、気を使い合うのは違う。

だからそういうことではないんだけど、とにかく、菊花の態度が気に食わないのは確か。

「……私のこと、受け入れてくれてありがとう。だけど、いまの私じゃ二人の助けになれないし、しんどくなったら、無理せず人の手を入れたり、どこかに預けるとか……とにかく、頑張り過ぎないでね」

「そうならないために三人でいるんだと思ってたんだけど」

「蓮の言う通りだよ。二人より三人の方が一人当たりの負担は減るし、誰かが無理して壊れかけてないか客観的にも見やすいよ。まあ、私は頭数に入れない方がいいかもしれないけどね!」

「そう言うところが心配なんだけどね」

「珍しく気が合うな」

「そんなに珍しくないと思うけどなー」

日美香も、菊花も、そして私も、いつも通りのまま、一人で暮らすには広過ぎて、三人で暮らすには手狭な部屋での三人暮らしが始まる。

菊花の体は動かないし、あの子もいない。ないないまみれだけど、こうして以前と同じように三人で一緒にいられること自体は、けっこう嬉しいし、幸せだとは思う。認めたくないけど。