お昼休み、通い慣れた大学の学内を、私が菊花が乗る車椅子を押し、日美香と一緒に食堂へ向かう。それは以前と全く同じ、いつもの日常。だけど、菊花が事故に遭う前と後では、何もかもが違う。
あの時は、日美香と菊花が付き合っていて、私は何も行動できない自分に怒り狂っていた。いまは三人で付き合っているから、そうした感情は少しマシ。
自力でほとんど歩くことができない菊花は、車椅子に乗りながら、授業を受けている。足だけじゃなくて、腕も以前と同じようには動かない。電気をつけたり、リモコンのボタンを押すくらいならできるけど、文字を書くといった精密な動作はままならない。
そういうとき、私たちが全員ほぼ同じ授業を取っていることが活きてくる。大学で授業が一緒なんて、重たいと側からは思われていそうだけど、いざというときに助け合えるから悪くない。
「今日は何食べる?」
「食べさせやすいのでいいよ」
「そんなに気を使わなくていいのに」
「だって、汁物食べようとして、大惨事になったし……」
「それは、そうだけど……」
二人が食堂のレジにできた行列に並びながら、相談をしている。菊花はまだ両腕を自由に使えないから、好きなものを食べることさえできない。
好き勝手にあの子を喰い尽くしたくせに、果物一つさえ、自力で食べることができない。その矛盾が、とても気に入らない。
菊花が悪いわけじゃないとわかってはいるけど、私と日美香にとって大切だったあの子の存在をいとも簡単に否定したのに、誰でもできることに苦労するなんて、納得できるわけがない。
「蓮ってば、また難しい顔してる」
「難しいっていうか、単に不機嫌なだけ」
「……やっぱり、菊花の介護が大変? それなら私に任せていいんだよ?」
「そういうんじゃない。それに、三人で生きていくって決めたんだから、そんなこと言わないで」
菊花の介護というか、手助けが少し大変なのは事実ではある。肉体的に負担があるというより、精神的に疲れる。
誰かの身体の代わりを務めるというのは、なかなか気を遣う。普段使わない心の筋肉を使うから、何もかもあまりうまくいかない。
誰かの手足になるというのは、当たり前だけど専門の訓練がいる。病院で看護師や療法士さんたちが、簡単そうにこなしていたから、ふとした瞬間に勘違いしそうになるけど、とても難しいことだと日々実感させられる。
「蓮は私といる時はいつもこんな感じだよ」
「それはそうかもしれないけど……」
菊花は昼食に崩れにくい揚げ物や野菜を選んだみたいで、お盆を膝の上に乗せる。車椅子を揺らさないことを普段よりもちょっとだけ強く意識しながら、確保しておいたテーブルに着く。
「今日は私の番だね。はい、あーん」
「そういうのは、蓮がイヤがると思うから……」
昨日は私が菊花に食事を食べさせたから、今日は日美香が食べさせる。菊花のお世話の負担が偏らないように、厳密ではないけど当番制になっている。
とはいえ、負担が同じようになっているかというと、そうじゃない。私はただ淡々と必要なことをするだけなのに対して、日美香はわりと菊花といちゃつく理由にしている。
「実務上必要なことなら、気にならない」
「その割には目が怖いよー」
「そうかな? 蓮っていつも、目元鋭いよ」
「そんなにか? さすがにちょっと傷付くんだが」
「かっこいいって意味だよー!」
そういう意味で言っているのはわかっていたけど、日美香のこういう反応が可愛いから、ついこんなことを言ってしまう。こういう性根の悪さが、目元に出ているんだろう。
それとは別に、日美香が菊花の当番をしている最中は、目つきが悪くなっている自覚がある。二人の距離が近いことが、なんか気に入らない。
以前の日美香は気を遣って、三人でいる間は、べたべたしないように気を遣ってくれていた。でも、いまは三人で付き合っているから、抑える必要がなくなって、この有様。
菊花が自力では食事すらままならないことが視覚的に明らかだから、見逃されていているけど、菊花が直立歩行していたら、公害レベルの距離感。
こういうところが、日美香らしさではあると理解しているけど……私にはべたべたしてくれたことなんてないのに、菊花にばっかり……いまは三人だけど、あの子との三人で付き合うって言ったんだから、私とあの子にも同じようなことをするべきだと思う。
なんて不満を覚えはするけど、いざベタベタしたいかと言われたら、抵抗感がある。肌が触れ合うのがそもそも好きじゃないし、距離が近いと、この醜い内面が見透かされてしまうそうで、怖い。
私が無闇に触られたくないことを、日美香には随分昔に伝えたから、それを律儀に守ってくれているだけ。だから、私から求めないといけない。
なのに、日美香から近付いてきてくれないことに、拗ねている。
※※※
大学から帰って、晩ご飯を食べて、菊花に食べさせて。必要なことを終えた私たちは、三人で住むには少し手狭な家で、のんびりと過ごしている。
料理を作る当番は私だったから、食器を洗うのは日美香の役割だから、台所から物音が聞こえてくる。
私はというと、リビングにあるベッドの上で、スマホを使って大学の課題をこなしている。そして菊花はというと……私と違って要領がいいから、ちゃっかりと私の膝の間に座って何をするでもなく、嬉しそうにだらだらしている。
これくらいの距離感なら、別に気にはならない。ならないけど……日美香としたかったことを、ただの菊花じゃなくて、よりにもよってあの子を喰べた菊花と初めて経験することは、さすがに面白くない。
「そこにいるの、楽しいわけ?」
「好きな人の膝の間なんだよ?」
答えになっているような、なっていないような返答それだけに、説得力があって、簡単に説き伏せられてしまう。
「もうちょっと時間かかりそうだから、お風呂先に入ってていいよ」
「わかった」
台所で洗い物をしてくれている日美香に返事をして……膝の間にいる菊花に視線を移す。
自力で少しだけ歩ける菊花を一人でお風呂に入らせるわけにはいかないから、誰かが付き添っている。昨日は日美香だったから、今日は私。
既に何度か経験したことだけど、どうにも抵抗感がある。
「前も言ったけど、イヤならムリしなくていいんだよ?」
「別にムリしてないし、イヤなわけでもない」
「私は二人きりになれるから、好きだからいいんだけどね」
三人で付き合う前も後も、私が日美香や菊花と二人きりという機会は少ない。菊花と日美香が二人きりでいる時間はたくさんあったはずだけど、私が日美香や菊花と二人きりで過ごしたことはほとんどない。
だから、貴重な機会ではあるんだけど……なんか釈然としない。日美香とお風呂なんて入ったことないのに、菊花とは経験があるというのが。
菊花とが初めてということが、最近頻発している。日美香としたいと、彼女に素直に言えばいいだけ。日美香の膝の間に座りたいとか、ごはんを食べさせてほしいとか。恥ずかしがったりせずに。
でも、そんな簡単なことができたら、苦労しない。こういうことができなかったから、あの子や菊花の力を借りることでようやく、日美香に想いを伝えることができた。それくらい、思ったことを伝えるのは苦手。
だから、菊花とするのが”初めて”であることが多いのは、仕方ない。日美香は鈍感だから、私がしたいことを先回りして気付いてくれることはない。菊花は違う。私がしたいことを、わかってくれる。
問題は、菊花は菊花だということ。日美香ではないし、断じてあの子ではない。菊花は菊花でしかなくて、誰かが代わりにはなれないし、誰かの代わりにもなれない。
服を脱いでから、菊花の服を脱がせる。なるべく意識しないように……菊花の肌を見ないよう、感じないよう言い聞かせながら。
菊花は入院中にリハビリを頑張ってくれたおかげで、介護というほど大変じゃない。シャワーを持つことはできないけど、泡立てたタオルで体を洗うことくらいならできるから、転けないように見張っているだけでいい。
これで菊花の体を洗う必要があったら……想像するだけでも辛いものがある。”菊花の体だから”触れたくないわけじゃない。これが日美香であったとしても、全く同じだけの抵抗感を覚える。
触れたいとか思わない。一緒にいて、穏やかな気持ちになれるんだから、それ以上踏み込みたくないだけ。人間なんて、心の表層を引き剥がせば、その裏には醜さしかない。
ほどほどの距離感で一緒にいれば、綺麗なままの自分でいられるし、美しいままのあなたを見ていられる。だから、触れ合う必要なんてない。
「蓮になら触れられてもいいんだよ?」
「どうしたいきなり。別に触りたいとか思ったことないが」
「そんなに怯えなくても、私も日美香も、蓮のこと嫌ったりしないよ」
日美香には見透かされていない、私の感情を、菊花には簡単に見抜かれてしまう。
いまさら、私の醜悪さを二人に隠せているなんて思っていない。それでも、触れ合うことは恐ろしい。私自身が自覚している醜さなんて、きっと全体の半分にも満たない。
私の真の悪意はきっと、無自覚なところにこそ宿っていて。それは世界のすみっこで眠ったままにしたい。だから、目覚めさせようとしてくる菊花のことはキライ。全く気付かない日美香のことは、だから大好き。
だけど、それを優しく包み込もうとしてくれるのは、日美香でもなければ、あの子でもなく、菊花だけ。好きやキライではなく、つい、そう、期待してしまう。もしかしたら、こんな私の全部を許してくれるんじゃないかって。
そして、菊花が許してくれたら、日美香もきっと許してくれるから……
「余計なこと考えなくていい」
「余計なことじゃないと思うけどね」
菊花に肩を貸して、バスタブに二人一緒に入る。二人暮らしを想定した部屋ではあるけど、もちろんバスタブは一人を想定している。親子なら過不足ないかも知れないけど、成人女性二人同時に入るとなるとかなり狭い。
触れ合いたくないとかどうとか、そんな気持ちを物理的に無効化してくる。
「蓮がこんなことしてくれるなんて、いまでも信じられないなー」
「日美香にだけやってもらうわけにもいかないだろ」
「そうかもしれないけど、日美香にさえ体を触らせないし、ましてや素肌なんて見せたことないよね?」
目の前で菊花が、気持ち嬉しそうにしている。なんとなく、”私が蓮の初めて”であることを喜んでいるみたいで、意味もなく否定したくなる。
「……修学旅行で一緒に入ったことくらいある」
「反論が修学旅行なのが、蓮らしいよね」
私の真面目な返答を面白がられているのが、気に入らない。でも、菊花の言う通りで、修学旅行はいくらなんでも反論として酷い。
「日美香と出会うのがもう少し早かったら、一緒にお風呂にくらい入ってたよ」
「はいはい。蓮にもそういう無邪気な時代があったんだねー」
「……もう、そういうことでいい」
体が自由に動かない間くらい、もう少し可愛いところを見せてくれたらいいのに。菊花はことあるごとに、私をおもちゃにする。
いじられると基本的に露骨に不機嫌になるから、私に好んで話しかけてくる相手はほとんどいない。鈍い日美香と、狂っているとしか思えない菊花くらい。
そして、日美香は素直だから私をいじったりしない。菊花だけだ。私にこんな風に接してくるのは。
お風呂から上がった私と菊花は、リビングにあるベッドの上で、ダラダラと過ごしていた。私たちと交代で、日美香はお風呂に入っている。
またしても二人きりの時間。どういうわけか、私は菊花の髪をとくように、髪を乾かしてあげている。
ドライヤーくらいなら扱えないことはないはずなんだけど、なんとなくの流れでこうなっている。
「理容師以外の人で、髪に触られてもいいって思える相手は、恋してる証拠なんだって」
「私への当てつけか?」
「日美香がやいちゃうかも」
「まさか。日美香に限ってそんなことないだろ」
「だからこそ、見てみたくない?」
「性格悪いぞ」
「蓮にだけは言われたくないなー」
これだけ好き勝手言っておいて、性格の悪さが伝わっていなかったら、その方が恐ろしい。だけど、それがわかっていて、恋だと言えてしまうところが、心底恐ろしい。
「はい、おしまい」
「ありがとう。私もやってあげようか……って、ドライヤー持てないんだった」
「またの機会に頼むとするよ」
菊花の髪を乾かし終えてから、自分の髪をドライヤーで乾かす。指先にさっきまで触れていた菊花の髪の感触が残っていて、つい自分の髪と比べてしまう。
認めたくないけど、私のと違って、柔らかくて、なによりも温かかった。お風呂上がりだから、熱を帯びているということ以上に。
こうも違うのかと思うけど、自分のを低く評価しているだけなのかもしれない。しかし、それを経験から確かめることはできない。日美香の髪を私は知らないから。なのに、私は菊花の髪を知っている。
あの子の髪は、菊花と同じなんだろうか。違っていてほしいと、心から切に思う。
「……ねえ蓮、もう認めていいと思うの。あの子は、私だって。私はあの子だって」
ぼんやりとあの子と菊花の温度の違いを夢想しながら、髪を乾かし終えた私の背中に、菊花が優しく語りかけてくる。
「私のことをあの子だって思わないように、歯を食いしばってくれてるのは嬉しい。あの時の私をちゃんと見ててくれてたんだって、そう思えるから。だけどね、蓮がここまでしないと存在したことにならないっていうなら、納得できるから。だから、もう、楽になっていいんだよ」
菊花が背後から、私の腰に両腕を回して抱きついてくる。日美香にずっとされたことを、あの子を喰べた菊花にされるなんて……悪夢ですら見たことがない。
「確かに記憶がない時の私は、あの子だったと思うよ。でもね、こうしてあの子に私の記憶がインストールされたら、私とあの子の境界を見つけるのはムリだよ。あの子が抱えてた、消えたくないって想いは本物だよ。でも、私はそれも含めて、ちゃんと受け止めてる。だからね、蓮が思い悩むことなんて少しもないんだよ」
あの子を喰べた菊花が言っていることは、あの子を苦しめていたことそのもの。自分の心が、菊花の意志に塗り潰されて、それが当然のものになることを、最も恐れていた。
自分が世界にいらない存在であることよりもずっとずっと……
「あんたが何言っても関係ない。あの子はあの子で、菊花は菊花。それだけは、譲りたくない」
「気持ちはわかるよ。あの時の私に気付いてくれたのは、蓮だけだから。でも、蓮がどれだけ頑張っても、私が納得してるんだからさ、それが全てだよ。だから……」
気付いたら、菊花の言葉を遮るほど強く、腰に回されている両腕を握っていた。腰から菊花の腕を引き剥がして、背後を振り向く。
菊花と視線が交差する。その瞳は、半分が菊花で、もう半分があの子のように見えてしまう。
菊花は私を、慈しむような目でいつも見ていた。あの子は私を、希望そのものであるかのように、穴が開くんじゃないかと痛みを感じるくらい強く見つめていた。
二つの全く異なる感情……それをいまの菊花は宿している。それが逆鱗を愛でてくる。
「もうそういうのいいから。私は好きでこうしてるだけ」
「あの子との約束に縛られてるように見えるから、心配なんだよ」
「それじゃ、あの子を返してよ! それだけでいいのに!」
「だからね、あの子はもう私なんだよ」
「それが鬱陶しいって言ってるの!」
あまりにも菊花が譲らないから、頭を叩いたら、記憶を失ったように、あの子が戻ってくるんじゃないか。
そんな一昔前の創作のような発想が浮かんで……思わず菊花の頭を軽く叩く。健常な肉体であればなんてことのない衝撃が、退院から間もない菊花には堪えきれない威力だったみたいで……吹き飛ばされるように倒れて……ベッドの角に頭をぶつけてしまう。
「えっ、き、菊花……ごめん、そんなつもりじゃ……」
「……えへへ、めちゃくちゃやるね。そんなに私のことが大切? こういうことは二回目だから、日美香に知られたら、さすがに三人でいられなくなっちゃうよ?」
「……大切なわけないだろ! それに、あんたに対しては一回目だ!」
「一回目、一回目って、二回目だっていう私の気持ちは無視するの? 菊花とあの子を混ぜ合わせた私は……蓮にとっては、存在しちゃいけない心なんだね……」
「そういうつもりじゃ……」
菊花らしくない、静かな声で言われて、背筋から温度が消えていく。あの子を喰べてからの菊花に私がしたこと。言ったこと。その全てが、両刃になって、私に突き刺さる。
日美香を奪って、あの子を喰らった菊花への感情が行きすぎて、目の前の菊花の気持ちを全く見ていなかった。見ようとしていなかった。
菊花の優しさに甘えて、言いたい放題、やりたい放題して……あの子を言い訳にして、日美香に気持ちを伝えられないまま過ごしていた自分を不甲斐なさを、八つ当たりしていた。
言い訳のしようなんてなくて……
「なんかすごい音したけど平、気…………って、血出てるじゃん! 何があったの!?」
菊花を叩きつけた音を聞いて、半乾きの髪のままの日美香が部屋に入ってきた。
誰がどう見ても私がやったようにしか見えないし、実際にそう。
菊花はあの子に酷いことをした。その解釈は変わっていない。だけど、私が菊花に酷いことをしたのも事実だから……言い訳しようなんて思わない。
「私がなぐ……」
「一人で立ち上がる練習してたら、転けちゃって、頭ぶつけちゃったの。蓮が近くにいるからって、油断しちゃった。ね?」
「……ああ、私も、菊花の身体の扱いに慣れてきて、油断した。ごめん」
「二人して何やってるの!? 慣れてきた時期が一番危ないって、病院で言われてたのに!」
日美香はそう叫んで、日美香が救急箱を撮りに洗面所へと駆けていく。
どうして……どうして咄嗟に、菊花の嘘に乗ってしまったんだろう。こんなことをしたって、私がしたことが消えるわけじゃないのに。
「また、私に庇われちゃったね。三人でこうして付き合えてるのも、いま別れずに済んだのも。私への恩がいっぱいだね。どうしたらいいんだろうね?」
菊花は額から血を流しながら、私の瞳を覗き込んでくる。私がしたたくさんの酷いことを許されて、とても返せない借りだけが増えていく。
これから先、三人で一緒にいる時間の全ては、菊花の優しさのおかげ。だから、三人が続けば続くほど、恩に法外な利子が上乗せされていく。
あの子の心を吐き出してくれれば、それだけでいい。それ以外に菊花に望むことなんてないのに……ただその一心なのに、最悪の巡りを繰り返して、菊花への抵抗力だけが一方的に削がれていく。
「簡単なことだよ。気にする必要なんてそもそもないの。こういう形を世界は認めてくれないだろうけど、紙の上でどれだけ他人同士でも、私と蓮も家族なんだから。これくらいのことは当然なんだよ。蓮にとって私は存在しないほうがよかったのかもしれないけど、片思いだとしても、私は蓮のことが好きだから」
こんなことをする私の何が好きなのか……いまでもわからない。でも、菊花が私を庇った理由は、三人でいたいからなんだと思う。
菊花は最初からずっと、三人でいるために行動していて、それはいまも変わらない。私が、私と日美香と菊花の三人じゃなくて、あの子も入れた四人で付き合うことを望んでいるから、ややこしくなっているだけで……
私があの子の願いを見捨てれば、それだけで解決する。解決してしまう。だって、あの子を完全に継承した菊花が、納得しているんだから。
あの子が抱えていた恐怖が、菊花に嬲り喰われる痛みが、私だけの問題にどんどん矮小化されていく。記憶喪失の状態の人格が尊重されない理由が、肉体的なレベルで理解できてしまう。
なにをどうやったって、あの子は菊花に還元される。記憶喪失の人格は、元の人格に吸収されざるを得ない。だから、尊重のしようがない。
だから、私も諦めたほうがいいことはわかっている。わかっているけど、そういう当たり前が気に入らない。そうやって人知れず踏み潰された心が無数にあったはずで……せめて、あの子だけは幸せにしたい。
あの子を喰べた後の菊花が納得していることは、私が納得する理由にならない。あの子の記憶と感情を自分のものとした後なら、どうとだって言えるんだから。
でも、だからって……いまの菊花を否定したら、菊花をあの子と同じ存在に、私自身がしてしまう。あの子が感じていた痛みを、菊花に与えることになる。
あの子のためなら、いまの菊花をあの子と同じ存在にしていいとは思えない。あの子も、菊花も、あの子と菊花の心が合併した菊花も、全員が等しく尊重されないと、やっぱり私は納得できなくて……
でも、そんな夢みたいな話が実現できるとも思えなくて……
「三人ならって思ってたけど、私たち、二人でも三人でも、どうやっても片想いを向け合うことしかできないみたいだね……」