大学は四年ある。それを長いとみるか、短いとみるかは人それぞれだと思うけど、二年目や三年から就職活動を始めるのは、いくらなんでも……って思うのは、人類共通なんじゃないかと思う。
私たちが通っているゼミや、同じ年代が集まる授業では、就職先をどうするかなんて話がちらほら聞こえるようになってきた。
大学はまだ丸々二年残っているのに、どうして世界はそこまで追い立てるんだろう。どこで働くかを考えている余裕なんて、私たちにはない。目の前のことで精一杯なんだから、将来のことは放っておいてほしい。
「みんな忙しないよね」
「私と蓮はこっち側だと思うけど、日美香はどちらかというと向こう側だと思ってたよ」
「どうだろう……菊花か蓮のどっちかが就活してたら、真似してたかも」
「確かに、そっちの方が日美香らしいね」
食堂にいると、いろんな会話が聞こえてきて、それに釣られることはよくある。今日の話題は就職について。同い年の友達や知り合いが続々とインターシップに参加しているのを目の当たりにすると、さすがに堪えるものがある。
それは二人も同じみたいで、こうやって自分たちのことに集中することを肯定し合うことで、平静を保とうとしている。
「適当でもいいんじゃない。三人で暮らすなら、最悪三人でバイトして、生活費出し合えばなんとか暮らしていけるし。もしかしたら、就職するよりも三人で一緒にいられる時間は多いし、その方が幸せかもね」
「蓮がそんなこと言うなんて珍しい……何か心境の変化でもあった?」
「別に、特には」
日美香らしからぬ鋭い問いかけに、誤魔化しで答える。確かに自分でもらしくないと思う。本来の私はもっとしっかりしようとする人間だったはず。
なのにこんなことを言い出したら。違和感があるに決まっている。心を読むまでもない。表に出ている事実が奇妙なんだから、日美香にだってわかる。
私がこうしたことを思うようになったのは……菊花にしてしまったことへの負い目が原因だと思う。あの子を喰らったという事実に目を奪われて、菊花とあの子が統合された新しい菊花の気持ちを、見失っていた。
そのことを自覚してから、一ヶ月ほど経ったけど……いまだに自分がどうしたいのかわからない。
いや、どうしたいのかはわかっている。あの子を喰らった菊花も大切だし、記憶を失う前の菊花も、あの子も大切。だから、三人一緒にいられれば、それだけでいい。
でも、それができないのなら、いま目の前にいる菊花と仲良く暮らすのが一番マシ。そう思うと、人生そのものへのやる気がなくなってしまった。
だって、人生で一番の望みが叶うことがないと知っていて、どうしてやる気が出るだろう。どうせ妥協の人生になるなら、他の全てを妥協したところで、何も変わらない。
「なんていうか、最近の蓮って、覇気がないって言うか……菊花への当たりも優しいし」
「大学生活ももうすぐ折り返しで、中弛みしてるんだ。それに、最近の菊花は一人で大体のことができるから、その安心感で、疲れが出てきたのもあるな」
「なるほど、そういうことね」
こんな嘘に騙されるのはどうかと思うけど、日美香はこうだから、それに救われている。
正直、あの子を喰らった菊花への振る舞いを、日美香が咎めてこないのは、偏にいまの菊花が私を非難したことが一度としてないから。
日美香は単純だから、あれだけめちゃくちゃ言って菊花が平然としているどころか、嬉しそうにしていたから、怒る理由なんてなかった。
とはいえ、さすがにやり過ぎだった。思い返したら、穴を掘るためだけに炭坑婦になろうかと思うくらい、恥ずかしくなる。
「ごちそうさま。二人の分もまとめて返してくるね」
「いや、私がやるよ。せっかく体動くようになってきたんだし、これまでの分ってことで」
「その気持ちは嬉しいけど、一人で行かせるのは不安だな……」
「それじゃ、蓮、ついてきてくれる?」
なんで私が、って思う。面倒っていう意味じゃなくて、菊花が私と二人でいたくなる理由がわからない。
かといって、断る理由もない。実際、いまの菊花は自力で歩けるし、物だって持てるけど、たまに危うい瞬間があるから、一人にしたくない。
「……別にいいけど」
「それじゃ、荷物は私が見てるね」
「お願いね。それじゃ、行こっか」
そう言って菊花が、私の右手を握ってくる。いきなり利き手を菊花に占拠された上に、菊花自身も片手が塞がっていて、食器を運ぶどころじゃない。
「あの……手、離してくれないと、持てないし、危ないんだけど」
「危なくないように、二人で行くんじゃないの?」
手を繋ぎなはら、食堂を歩いていると、ため息を超えた感情が漏れそうになる。結局、私が左手で二つ重ねたお盆を持ち、菊花の右手に一つお盆を持った状態で、返却口へと向かう。
どうしてこんなことになっているのか。天然でこうしているなら許せるけど、菊花は意図的にこういうことをするタイプ。だからずっと苦手。
結局、私は三人で付き合っているのに、日美香と手すら繋げていない。日美香と手を繋いだ経験自体はある。修学旅行で行った遊園地で、はぐれないようにと手を繋いだことが。
でもそれは、恋人同士で行う、手を繋ぐとは意味合いが違う。友達同士で行うそれには、意味がある。それに対して、いま私と菊花がしているのは、恋人同士の手を繋ぐ。この行為には意味がないどころか、足を引っ張ってすらいる。
それでも相手に触れていたいから手を繋ぐのが、恋人同士の手を繋ぐ。
私はずっと好きだった日美香とではなく、菊花に恋人同士での”手を繋ぐ”をしている。その初めてを奪われている。というか、私の特別な初めて、そのほとんどをぼんやりしている間に、菊花に奪われ、捧げ続けている。
それが、納得いかない。どうせ菊花は、日美香と既にこういうことをしている。つまり、私が初めてじゃないのに、私は初めてをあげている。
日美香が初めてじゃなくても、それは納得できる。私が怯えて、逃げ回っていたのが悪いんだから。でも、菊花は私の気持ちをわかってくれているんだから、私が日美香と初めてを経験するまで、いろんなことを待ってくれてもいいと思う。
「……なんで菊花は、私とこういうことするの?」
「なんでって?」
「……私がこういうこと、日美香と最初にしたいってわかってるでしょ。なのになんで、イヤがらせみたいなことするのかって」
「だって、日美香と手を繋いだら、蓮はちゃんと覚えてるだろうけど、私とは”初めて”じゃないと、覚えててくれないから。私は、蓮も日美香も同じだけ好きなのに、蓮ってば同じように想ってくれないんだもん。三人で付き合ってるんだから、これくらい良いでしょ」
菊花が言っている私への推察はあまりにも的確だし、その気持ちは痛いほどよくわかる。日美香と菊花は、私たち三人の関係に序列がない。なのに私は、日美香と菊花に優劣をつけないようにしていても、つけてしまう瞬間がある。
だから、菊花は私に自分を焼き付けている。そうされたくないなら、私が日美香に一歩踏み出せす勇気を持つか、菊花のことを日美香と同じだけ好きになればいいだけ。
そんな風につい考えてしまうけど、こんなことを思ってしまうことがつまり、日美香と菊花に優劣をつけていることになる。それが結局、あの子を喰べた菊花を傷付け、あの子のことも傷付けることに繋がっている。
「よいしょ、と。私も元気になってきたね」
「全くだ。可愛げがなくなった」
「ええー、私は最初からかわいいよ、ほらー」
食器を返却し終えるなり、私の顔を覗き込んできて、かわいいアピールをしてくる。二十歳にもなって、こんな仕草はどうかと思うけど……まあ、かわいいとは思う。ムカつくけど。好きな相手にこんなことされたら、理性なんて貫通するに決まっている。
こういう表情を見ていると、どうして自分の中で優劣がついてしまうのかわからなくなる。あの子の無念をなかったものにしないために、菊花を下にしているだけなんじゃないか。
もしそうだとしたら、あの子にも失礼なことをしている。優劣をつけたり、菊花をぞんざいに扱わないと、忘れてしまう程度の”好き”しか、あの子にあげられていないってことだから。
「……なあ、この辺りってあんまり人目につかないよな」
「蓮らしくないね。どうしたの?」
返却口の横にある、食堂の裏口へと続く廊下に菊花を連れ込んで、顔を寄せる。
「初めてを奪われっぱなしが気に入らないから、こっちから押し付けたくなった」
「こんなところで、品がないよ」
「私の大切な人を踊り喰いしたやつに言われたくないな」
「またそんな言い方して。今回のは嬉しいけどね」
いざ、私の方からあげようと思ったら、悪くない気持ちだった。日美香にはこんなこと言えないのに、菊花になら言える。
きっと、記憶を失う前の菊花にも、こんなことは言えなかったし、できなかった。あの子を喰べた菊花にだから、こういう雑なことができる。
「誰かに見られるかもしれないよ?」
「どうせ、こういうやつらだってバレてるよ」
「大学は広いから、私たちのことなんて誰も見てないし、知らないよ」
「それなら、かまわないな」
薄暗い廊下の壁に押しつけられた菊花が、複雑な表情を浮かべている。イヤそうにも見えなくもないけど、幸せそうにも見える。
菊花と一番こういうことがしたいわけじゃない。一番は日美香。だけど、どうせできないことがわかっている。そうこうしたいる間に菊花にされるくらいなら……いや、そうしてくれるならまだマシ。菊花はこういう本当に大きなことはしてこない。
こうやって、菊花に気を使われ続けるのも面白くない。たまには私からやり返したっていいだろう。三人で付き合うことを公言しているんだから、日美香に不誠実な行為ってことはないと思う。
私に追い詰められている菊花の反応を見るに、こういうことを日美香と既にしているみたいだし。
そう自分に言い聞かせて、受け入れもしないけど、抵抗もしない菊花に顔を寄せて……キスをする。思えば、自分から誰かに恋人らしいことをするのは、これが初めて。
自分から告白したこともないし、自分から手を繋いだことすらない。そんな私がいきなりこんなことをするなんて、本当にらしくない。
でも、これくらいしないと、日美香と菊花を同じくらい好きだと、自分で自分を信じられない。
「……泣くくらいなら、ムリしてしなくていいんだよ。私が追い詰めちゃった? イヤイヤこんなことをしないといけなくなるくらい……」
「私がそんなできたやつなわけないだろ」
どうやら、私は泣いているらしい。イヤだから泣いたわけじゃないことは、自分のことだからわかる。自分の情けなさに泣いているんだろう。
「私と日美香に優劣をつけないためにこうしてくれたんでしょ? でも、自分からキスしてみてわかったでしょ? 日美香にはできないって。私にだからできることなんだって。それを理解できるなら見合うかなって思ったんだけど……泣かせるくらいなら、拒絶した方が良かったのかもね……」
菊花の言う通りだ。日美香と菊花に優劣がないことの証明のためにやったことだけど……こんな大胆なことができたのは、菊花の方が日美香よりも下だから。
一番大切じゃないし、そういうことも含めて許してくれる菊花にだから、こういうことができてしまう。
記憶を失う前の菊花も、あの子も、いまの菊花も……菊花たちは全員同じくらい大切な、私の人生で二番目に大好きな人だから、こういうことをしたいと素直に思えるし、勇気も出せる。
一番好きな人よりも、二番目に好きな人に対しての方が、積極的になれるなんて……これだから私は、性根が腐敗しているんだ。