《白紙の私に無題の道を 第20話 三等分にできない心たち》作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

本当にこれが私の望んだことだったのか、わからなくなることがある。日美香を差し置いて、あの子を喰らった菊花といちゃついていることが。

「なんか最近の二人、距離近くない?」

リビングにあるソファーに座った状態で課題をこなしている日美香が、ぼそっとそんな言葉を口にした。

元は日美香との二人暮らしを想定して借りた家だから、三人で暮らしているとどうしても、空間的に一人溢れてしまう。

以前の菊花は私に気を遣って、日美香の方へなるべく身を寄せてくれていた。それに対していまの菊花は、だいたい私に身を寄せて来る。

私も似たような感じで、日美香と菊花がそれぞれ別の場所にいたら、一番好きな日美香に近寄る勇気がないから、積極的に菊花の方へ私から近寄っている。

現にいま、ベッドの上で私と菊花は二人並んで寝転んでいる。

「まあ確かに、ちょっと近いかもな。目障りだったか?」

「そんなことないよ。私も、菊花とこんな感じだったし、二人が仲良さそうで嬉しいくらいなんだけど……なんていうか、蓮らしくないなって」

日美香がらしくない言葉を口にする。それは、私と菊花が単に物理的に距離が近いからじゃない。本当に私らしくないことをしている。だから、日美香にまでその違和感を見抜かれている。

菊花に自分からキスをする。あれを間違ったとか、後悔しているとかは、間違ってもあり得ない。でも、そんな身投げのような行動一つで、あの子と菊花に対する気持ちに整理がつくことはなかった。

むしろ、こうして菊花といちゃつけばいちゃつくほど、違和感は積もり募っていく。

「蓮、何か悩んでない?」

日美香に”こんなことを言われる”どころか、”こんなことを言っている”のすら見たことがない。つまり、それほど最近の私は似合わないことをしているらしい。

「私、席外した方がいいかな?」

普通、こういう話をするときは悩みを抱えている私自身か、見抜いた日美香のどちらかが、二人きりの瞬間を見計らうものだけど……私から日美香にこんな胸の内を吐露する覚悟はなかったし、日美香がそういう気を利かせるのも難しい。

結局、こうして菊花から気を遣ってもらうことになってしまった。

「……その方が助かる」

「それじゃ、コンビニにでも散歩してくるよ」

「一人で大丈夫? 転けたりしない?」

「それは転けるかもしれないけど、二人にするのが目的なんだし」

「それもそうか……でも、不安だよ」

「少しくらいは一人で出かける練習もしたいしさ。ずっと蓮か日美香についてもらうのも悪いし、私だってたまには一人になりたいときだってあるし。いまはちょっと違うけど。最近は大怪我しそうな転け方はしないから、必要になったら電話するから心配しないで」

そう言い残して、菊花はリビングから出た。それから三十秒ほどして、玄関が開いて、閉まる、ずっしりとした音と衝撃が家全体に木霊した。

「……二人きり、だね」

「……そう、だな」

変な空気が流れる。ついさっきまで恋人の菊花と、自然に、意味もなく身を寄せ合っていたから、恋人の日美香とこうして、距離をとっているのが気まずい。

かといって、無意味に身を寄せ合うのが自然になるような関係を築けてはいない。

「…………ねえ、そっち、行ってもいい?」

「なんだ唐突に」

「最近の二人を見てたらね、蓮と付き合ってるはずなのに私も、菊花とばっかり触れ合ってたなって。蓮とはずっと一番の親友って感じで、ある意味では諦めてたから、これまで通りが一番心地いいって思ってたんだけど……恋人らしいことも、してみたいなって……」

私から気恥ずかしそうに顔を背ける日美香が、ものすごく新鮮で、こんな表情を菊花ではなく私に向けてくれることがものすごく嬉しい。

でも、素直に喜びきれない。また自分以外の人から幸せをもらっていいのかって思うし、菊花に同じ表情をむけてもらったときはこんなに嬉しくなれなかったことへの罪悪感もある。

「……来てくれたら、私は嬉しいよ」

「それじゃ、遠慮なく」

普段は運転手がいない新幹線のような日美香が、躊躇いがちに近寄って来る。その緩慢な動きは、ホラー映画に出てくる、やたらと時間をかけて登場人物を呪い殺そうとする怪物のようで。このまま接近を許してしまったら、心を取り込まれてしまいそう。

なんてことを考えていたら、いつの間にかすぐ隣に日美香がいて、私の右手を包み込むように両手を重ねると同時に、目の前に寝転んできた。

一人用のベッドの上で、見つめ合いながら添い寝をする。あまりにも恋人らしい距離感に、お互い戸惑っているのが伝わり合っているのがわかってしまう。

「菊花、一人で平気かな」

「大丈夫だろ。私たちの中で一番しっかりしてるのは、あいつだし」

「そうだね」

二人きりじゃないと話しずらいことを話すために菊花にはムリを言って出かけてもらったのに、お互い慣れないことをしているせいで、いつまでも本題に入ることができない。

かといって本題に入られても、菊花には悪いけど困ってしまう。具体的に何を悩んでいるってわけじゃなくて、漠然ともやもやしている。そんな感情を、一番好きな人に告白するのは、私には備わっていない勇気が必要になる。

「それで、蓮は何に悩んでるの?」

「……どう言葉にしていいのかわからなくて……」

「めちゃくちゃでもちゃんと聞くよ。あっ、でも、めちゃくちゃだと私、察せないから整理してからのほうがいいかも」

察せないかも、なんて日美香は言うけど、感情をそのまま吐露されたら、誰だって理解できない。わかってもらえる形に変換することは、理解してもらうためには大切なこと。

だからこそ、感情をわかってもらえる形に加工することが怖い。日美香は私の知られたくないところに鈍感でいてくれるところも好きなのに、わざわざ知られたくないところを見せるなんて。

「ゆっくりで大丈夫だからさ」

でも、こんな風に大好きな人に優しくされたら、甘えたくなってしまう。察してこないから好きよりも、わかってくれて、受け止めてくれたから好きな方が、幸せなんじゃないかって。

「……私さ、菊花にひどいこと言ってただろ。あの子のへの気持ちを忘れないために。だけど、それに傷付いてたって言われてな……」

「確かに、かなりやんちゃしてたもんね」

「それが情けないというか、申し訳なくて……否定することでしか、あの子への想いを守れない自分がな。それで、意識的に菊花といちゃいちゃするようにしてはみたが、違和感があって……」

「蓮らしくなかったもんね。私的には、どうしてらしくないことができたのか、興味あるな」

日美香は素直だから、悩みを聞き出すのが上手いなって思う。だから、自然と言葉にしてしまいそうになる。私の最も醜い箇所を。これまで見落としてくれていた感情を。

「いまさら何言われても、嫌いになったりしないから」

こういうときだけ、妙に察しがいいような気がするのは気のせいだろうか。日美香のことだから、こういう場面ではこういう台詞を言えば、丸く治ると学習しているだけかもしれない。でも、ちゃんと私の感情を読み取って、的確なことを言ってくれているのかもしれない。

とにかく、日美香だって私と向き合おうとしれくれているんだから、私だけ逃げるのも……そういう人生は、そろそろ終わりにしないと。

「……やっぱり、どう取り繕っても私の一番は……日美香なんだ。だから……二番目の菊花には、簡単に触れられたんだ……そんな自分がイヤで……」

「そういうことってあるよね。私も、蓮には告白できなかったのに、菊花にはできたし。でも、それって二番目だったからじゃなくて、菊花が優しいってわかってるからじゃない?」

質問をされていることはわかっている。”はい”か”いいえ”で答えることのできる簡単な問いかけだって。でも、そんなことは吹き飛んでしまった。

「……私のこと、嫌いにならないのか?」

「大切な蓮のことだし、菊花が蓮のこと嫌ってるわけでもないんだから、それでどうこうはならないよ。でも、それはそれで、無責任だったのかもって、思ったりもするし、難しいね」

こうして日美香が私の心を受け止めてくれたのは、三人? 四人? それとも五人で積み重ねた時間のおかげだってわかっている。それでも、考えてしまう。こんなことなら、もっと早く、ちゃんと言っていればよかったって。

「私があれこれするよりも、あの子のことは蓮に任せた方が上手くいくのかなって思ってたんだけど、蓮一人に負担をかけるのは間違ってたよね。本当にごめん。これからは、私もちゃんと考える。たくさん間違えて迷惑かけちゃうと思うけど」

「全然迷惑なんかじゃないよ。一人よりも二人の方が、三人の方が、ずっと心強い」

あの子のことで、誰かに……日美香に頼って良いと思ったら、急に安心して力が抜けてしまった。

それを察してくれたのか、日美香が優しく抱きしめてくれる。

日美香と身を寄せ合う。ただそれだけのことで、風邪にかかったみたいに、熱が出てしまう。

その一方で、好きな人に近寄れただけでこんな風になる、あまりにもわかりやすい自分自身を、許しがたい気持ちが湧いて来る。

あの子と菊花ではなく、日美香に対してだけ、こんなにも胸が高鳴ってしまうのは、浮気をしているみたいだから。

三人で付き合う自体は、あの子も菊花も了承していたから、二人に対して不誠実なことをしているわけではない。それでも、さすがにこれはない。

三人で付き合っているなら、二人で付き合うのとは違う、三人で付き合っているなりのマナーがあると思う。私のこれは、それに著しく反している。

だからって、感情を抑えたり、あの子と菊花にこれと同じ温もりを感じるのが難しいのも事実だから、それが余計に浮気感を強くさせる。

「……さっき菊花とこうしてもそこまでどきどきしなかったのに、日美香にだけこうなるなんて……浮気してるみたいで、イヤな気分になる」

「菊花にも私と同じようになれるくらい、好きなればいいだけだよ」

「いや、そういうことじゃなくて……多分、菊花のことも日美香と同じくらい好きなんだとは思う。でも、素直にそう慣れない事情がありすぎて……」

「それって、あの子のことが原因だよね?」

頷いて答える。やっぱり、あの子が救われていないと、菊花のことを日美香と同じだけ好きになるなんてできそうにないし、好きになりたくない。

「わかった! やっぱり、あの子を取り戻そう!」

私の返答を聞くなり、日美香はノータイムでそう宣言した。

「そんなすぐ割り切れるものなのか? 日美香はずっと菊花と仲がよかったのに」

「私が何かしてもうまくいかない気がしたし、蓮がいてくれるからって逃げてた。あの子がいなくなっても、菊花が代わりに戻ってきたなら、それで良いかなって思うところもあったの。私、あの子に蓮ほどは懐かれてはなかっただろうし、私の方も蓮と菊花くらい好きではないと思うし。でも、いないのはやっぱり違うなって。幸せになるなら、やっぱりみんな一緒がいいよ」

日美香らしい、屈託のない感情。それにいまは救われる。私は、こんなにまっすぐ在ることができない。

※※※

「それで、二人が出した結論が、これと……」

帰って来た菊花に、私と日美香が出した結論を伝える。やっぱり、あの子と記憶を失う前の菊花を諦められないと。難しいのはわかっているけど、五人で生きていく方法を模索していきたいんだってことを。

「……いつか、こういうことを言われるんだろうなって覚悟はしてたよ。でもさ……記憶を取り戻した時は、もっと幸せに生きていけると思ってたのにな……」

菊花が珍しく、本当に心の底から苦しそうというか、悲しそうというか、怒り狂っているというか……訳のわからない感情に苛まれているのが伝わってくる。手足の先の震え。瞳の共振。すり減っていく声。こんな菊花は初めて見る。

「あの子と私で、蓮と日美香を二人分で愛してるのに、それでもダメなの?」

「……ごめん。でも、やっぱり、菊花じゃ、あの子の代わりにはなれないんだ。酷なお願いなのはわかってる。でも、ちゃんと責任を持って、日美香と二人で、あの子と菊花と、いまの菊花の三人を、三十人分くらい幸せにするから!」

「この話をされてる時点で、三人分の不幸を味わってるんだけどね。二人があの子を大切に想ってくれてることが嬉しいのは本当だよ。蓮が私に酷いことを言うのも、全部イヤってわけじゃないし。でも、それとこれとは違うよね。仮に記憶……それを人格って呼ぶのかもしれないけど、別けられたとして、私の人生が三分の一になるんだよ? 人格が複数あっても、肉体は一つだから、寿命は伸びたりしないんだしさ」

菊花の言っていることは、私と日美香の提案よりもずっと正論だった。

勝手に生み出されて、奪われたあの子にしてみれば、言いたいことはたくさんあるだろう。でも、菊花だって自分の人生を、あの子に二ヶ月分奪われているのは事実の一面ではある。記憶を継いだとはいえ、自分が主体的に選んだ二ヶ月ではないんだから、自分の人生が擦り減ったと感じていてもムリはない。

それをさらに、あの子と、記憶を失う前の菊花にも人生を分配してほしいというのは、受け入れ難いのは当然のこと。私がこんなことを言われたら即破局。離婚の理由として裁判所が認めるかは怪しいけど、個人的な感覚では離婚されても文句は言えないくらいの暴言だ。

「記憶で人格を別けられたとして、そんな状態じゃ仕事なんてできないよね? 私は二人が養ってくれるなら構わないよ。夢とか特にないし。でもさ、あの子と昔の菊花が同じとは限らないよね? 夢ができたり、働きたくなるかもしれないよね? その時どうするの? あの子が、菊花が、二人を喰べた菊花が大切だから、全員同じくらい大切だから、三分の一の人生で諦めてって言うの? それって本当に三人のことを考えてるって言えるの? このまま私として眠らせてあげるのも優しさじゃない?」

菊花が言っていることは、あまりにも正しい。私と日美香が言っていることは、三人で生きていくこととはまるで違う。三人で生きていくのは、そこまで大変じゃない。苦労があるのはわかっているし、周りに理解してもらえないこともわかっている。だけど、寂しかったり、悔しい思いをすればいいだけ。

でも、この話は全く違う。三人で生きていくのは、三人で苦楽を共有できるけど、菊花を三つの人格に別けるのは、菊花の人生だけが削れる。私と日美香は大切な人が増えて特をしているのに、菊花だけが損をする。

あの子を一方的に喰らった罪があるとしても、ここまでされる謂れはさすがにない。

「そういう難しいことは、実際に起きてから考えよう!」

菊花の心を聞いて、これを言えてしまう日美香に、正直かなり引いている。ついさっき、日美香のこういうところに救われたのは事実だけど……いくらなんでも無神経というか……

自分がブレないのは良いことだとは思うけど、ちょっとくらいブレた方が良いことだってある。要はバランスの問題で……多分私たちは全員、バランスがものすごく悪い。

「人格を別けられるかもわからないし、あの子と菊花といまの菊花がどう思うかもわからないんだから、一つずつ確かめていこうよ。ね?」

「……蓮がずっと日美香を好きなのも納得だね」

「……そこまで言うか?」

「私だって機嫌悪くなることくらいあるよ。二人は偶然、地雷を踏んだことがなかっただけで」

機嫌を悪くする菊花。世界で二番目に大切な人が、私のせいでこんなにも傷付いているのに、私は酷いことを感じてしまう。かわいいって。菊花と出会って初めて、私がしたことで、菊花の心に爪痕を残せたことに、心の奥深くが満たされていく。

「今日は一人で寝るね」

「寝るってどこで……」

「物置があるでしょ。あそこに布団を敷いて寝る」

「そう……か……」

こんな話をされた後で、私と日美香の三人で寝るのは、イヤに決まってる。あの子を喰べたことは許せないけど、今日のことは私と日美香が悪い。だから、ベッドを差し出すべきは私たちだと思う。だから……

「あの子と菊花とお話しできないか試してくれるの? だったら、二人で静かにしてるね」

「お前、さすがにちょっといい加減にしろ!」

日美香が言うことだから、悪気がないのはわかっているけど、いくらなんでも限度がある。いくら悪意がなかったとしても、人を轢いたら殺人罪だ。

そう思って日美香を静止している隙に、菊花が力なく廊下の奥にある物置部屋へと去っていく。菊花のこんな姿初めて見た。

愛する二人に、人生を三分の二捨ててほしいと言われる地獄。その苦痛を思うと、自分たちで決めて、伝えたことだというのに心臓が痛み出す。

でも……菊花のことを心底守りたいと、初めて思えたのも事実だった。