蓮と日美香、そして菊花が一緒に住んでいる部屋のリビングを三人で囲む。私がいまこうしていることは、間違いない。そのはずなのに、どこか現実感がない。私の世界は狭い病室の中だけ。記憶がないから、本当にそこしか知らない。だから、外の世界に自分がいることに納得感がない。外に出る過程がなかったから、余計に。
「……頭は大丈夫か?」
「頭を殴ったら、人格と記憶が入れ替わる状態はさすがに、大丈夫ではないかもしれないです。傷は大丈夫です」
菊花は交通事故に遭った衝撃で記憶を失った。だから、もしも菊花が偶然私に成るとしても、同じだけの衝撃が必要だと思っていた。この程度の痛みで生き返れたのなら、全然大したことない。痛みには慣れているし、そういう状態しか知らないし、頭が痛い方が普段通りで安心するくらい。
一方で、あまりにも簡単に菊花が私になれてしまったことが、不安要素でもあって。この程度の衝撃で菊花としての意識は眠りにつき、私の意識が目覚めた。となると、その逆はどれほど簡単なんだろうか。私が菊花に喰べられたあの時、抵抗の余地は一切なかった。頭を殴る必要すらなかったし、額から血を流すほど頭を机に叩きつけても無意味だった。
結局のところ、菊花から私に変わるのは大変でも、私から菊花に変わることはそれほど難しくない。結局、私の命は菊花に握られたまま、ということ。
「……二人が何かを隠しているというか、言い辛そうにしていることはなんとなくわかるんですけど……蓮と日美香は、私がどうして目覚めたのか、予想がついているんですよね?」
私をどうとでもできる菊花が私を目覚めさせた理由。それを確かめることが、身の安全を確保するためにいま必要なこと。菊花の目的を達成してしまえば、私はまた喰われる。三人で付き合うという菊花の目的を達したと同時に、喰い尽くされたのと同じように。
私がいま最も気をつけないといけないのは、いとせず菊花の願いを叶えてしまうこと。それを避けるためには、菊花のことを知らないと。
「……私たちが……いや、私が菊花を追い詰めたんだ。そうなるまで、な」
「いや、蓮だけの責任じゃないよ! 蓮だけにもうこの子の責任を押し付けないって、私も背負うって決めたんだから!」
「そうは言うが、主だった発言は私だったしな……」
「背中押したんだから同罪だって。ね?」
どうやら、私が眠っている間に、蓮と日美香の関係は進展しているみたい。蓮と日美香が仲良しなのはいいこと。嬉しい。だけど、二人の間だけで話が完結されるのは……面白くない。本当なら、私だって二人と同じ時間を過ごしていたはずなのに、取り残されてしまった。そんな気持ちになっちゃうから。
そりゃ、二人が私のことを大切にしようと足掻いていてくれたことはわかるから……とっても嬉しい、なんて言葉ではとても足りないくらい。なのに、人生経験に乏しい私は、蓮と親しく話す日美香に、暗い感情を向けることを抑えられない。
「あの、私のことをずっと覚えていてくれて、ありがとう。嬉しい、二人に見捨てられなくて……それが消える瞬間に、一番怖いことだったから」
相反する感情を日美香に向けてしまっている。それを誤魔化したいのか、それともこれはこれで本心なのか。心からの感謝だけを言葉にして伝える。
「当たり前だろ。菊花と三人で過ごして、どう転んでも君と約束した三人とは違う形になると思うが、三人で付き合うって約束したんだから」
「もしもまた消えても、私たちはちゃんと覚えてるから」
「目覚めて早々、言うようなことじゃないだろう、さすがに」
「いえ、いいんです。これくらいの方が日美香らしいかなって、なんとなく思えるし」
菊花と三ヶ月近く過ごした後でも、二人が私を見る目は何一つ変わっていない。ここまで来ると優しいというよりは、お人好しって表現する方が適切な気がしてくる。
「それで、具体的に何があったんです? 私を喰べられるところを二人は見てましたよね? あの菊花が私を、そこそこ自傷してまで目覚めさせるなんて、相当だと思うんですけど」
一直線に、ゴールに向かった問いを投げる。途端に二人は険しい顔をする。それが菊花への罪悪感により生じているのか。それとも、私への感情なのか。それはわからないけど、やっぱり菊花がここまでするほどのことがあったことは間違いない。
「……聞かない方がいい。君が背負う道理はないと思うからからな」
「気遣いは嬉しいですけど、私と菊花の関係のことは、どんなに理不尽な因果関係だとしても、私が背負うことになるんだって、喰われてわかったから。認めたくないけど……菊花は私になれても、私は菊花になれない。そういう力関係なんだって……」
菊花に記憶ごと一方的に喰われた。菊花に愛されている蓮と日美香にさえ、どうすることもできなかった。
私が喰われたのも、こうして蘇ったのも、全て菊花の意志によって行われた。きっかけが二人だとしても、菊花の最終決定に二人が立ち会っていない以上、私の運命は菊花に支配されている。
「あなたのことは、なるべく触れないようにしてたの。事故の後遺症がほぼ完治したのも、ここ一、二週間のことで、それまでは治療に専念してほしかったから」
「……その場にいなかった私が二人にこんなことを言うのは理不尽だと思いつつですけど、その判断は、どうなんですかね。リハビリを菊花に負担してもらったのは、感謝しています。正直、辛かったのですし。でも私としては、そういう辛いことも含めて、菊花に私と二人で分け合うよう相談するように説得してほしかったです」
本当なら、全部とか、半分ずつとか、とにかくある程度私もリハビリを負担するべきだった。仮に菊花が私に、半分ずつにしようと相談してくれたら、そうした。人生を半分ずつにするから、リハビリの苦痛も半分こ。そう言われたら、受け入れていた。
私だって菊花にイヤなことを全部押し付けたいわけじゃない。私は自分の命を、心を、確たるものにしたかっただけ。
「今になって考えたら、そうすべきだったのかもな。身体が治ってすぐ、君と共存する道を探してほしいなんていうのは……むしろ酷だった」
「私だったら、一番イヤなタイミングですね。あの子のために、治療を頑張ったんじゃないのに、って」
さすがに感じが悪くなる気がするから言わないけど、こうなったのも、菊花が悪い部分がかなりあると思う。私を喰い尽くさずに、ちょっとだけでも発言権を残しておいてくれたら、負担を分け合おうと提案できた。全部奪うから、ゼロにしちゃうから、こうなった。
菊花は蓮と日美香が、常識で考えたら”どうでもいいもの”に拘っているのはわかっていたはず。だったら、ほんの少し妥協すればよかったのに。
私への感情まで独り占めして、二人分愛されたかったのかな、なんて考えるけど、もしもその通りだとしたら、ちょっと欲張りすぎ。ほどほどにしておけば、私だってここまで菊花に強い忌避感を覚えることはなかった。
菊花に喰べられる前は、いつ自分が消滅するかっていう恐怖……つまり、記憶が戻るという“現象“を恐れていた。菊花本人には、良いも悪いもなかった。でもいまは、“菊花“という存在を恐れている。やり方を嫌悪している。私と菊花の関係は悪化した。
「それで、こうなったんですか?」
「そんなところだ。君に菊花の人生を半分わけてあげてくれないかって、そう昨日の夜頼んだら、一人で君が目覚めた物置で寝た。それで朝起きて、改めて話をして、もう一度物置で一人になったと思ったら、君が起きてきた」
状況は何となくわかった。それで思ったことは、私と菊花では立場が違うってこと。私には最初から、命なんてなかった。だから、半分もらえるとなったら元はゼロなんだから、プラスになる。でも、菊花は最初から百パーセントの命を持っていた。それを五十パーセントにするのは、とんでもないマイナス。普通納得できないと思う。私だったらムリ。
菊花にされたことを思うと、純粋にかわいそうだとは思えない。だけど、さすがに気の毒だとは思う。半分くらい……いや、力関係的に三分の一か四分の一くらいは自分のことだから。あるいは、私に”かわいそう”だと思ってもらうことが目的なのかもしれない。
私が菊花のことをかわいそうだと思ったら、消滅することを……私が菊花と完全に同化することを受け入れることもありえる。菊花の人生を喰うくらいなら、自分が喰われようと。
そんな風に私が完全に納得していたら、蓮と日美香も受け入れるしかない。元はといえば、私が消えたくないと願ったから、二人はそれに付き合ってくれているだけなんだから。
もしも私が、晴れて菊花と完全に同化したら、菊花は蓮と日美香に、私と菊花の二人分、二人から愛してもらえる。二人と同時に付き合うってだけでも、普通の恋人同士よりも二倍幸せなのに、二人分愛してもらえたらそのまた二倍幸せ。
普通のカップルよりも四倍幸せになろうなんて、いくら何でも強欲がすぎる。いや、菊花が本当にそんなことを考えているかはわからないけど……もしも私の洞察の通りだったら、かわいそうにはほど遠い。私だけならまだしも、蓮と日美香まで巻き込んで、四倍愛されようなんて、身勝手すぎる。頭をハンマーで叩いたくらいじゃ、釣り合わないわがまま。
「なんとなくわかった気がします。菊花が私を必要とした理由が」
「菊花が目的もなしに、君を目覚めさせるわけないだろうしな。それで、菊花の望みを、君はなんだと思う?」
「たぶんですけど、二人にたくさん愛されることだと思います」
「……なるほど、な」
「充分愛してると思うけどなー。そりゃ確かに、あなたのことで、たくさん傷付けることを言っちゃったとは思うけど、愛してないからじゃないし」
蓮はなんとなく、私の言ったことに察するものがあるみたい。日美香は、まあ、相変わらずということで。
「蓮は思い当たるところがあるんですか?」
「言われてみれば、くらいだがな。菊花は私が君のことで機嫌を悪くする度に、あの子への愛を感じられて幸せ、なんてことを言っていたからな。三人で一緒に付き合うって提案も菊花からだったしな。たくさん愛されたいっていう動機のシンプルさも、菊花が言うと切実な気がしてくるしな」
「なにか、あったんでしょうか。家庭が荒れていて、一人に愛されるのでは満ち足りない心の空白があるとか」
普通、たくさん愛されたいからって、ここまでしない。三人で付き合うだけでも、なかなか理解されないだろう。受け入れてくれる相手を見つけるだけでも百苦労だろうに、三人で家族として生きていく苦労は想像に難い。そこに別の人格の分まで愛されたいなんて、尋常な欲望ではない。人を殺す人間の心理の方が、遥かに理解が及ぶ。それくらい、わけがわからない。
「菊花と知り合ったのは大学に入ってからだからな。その辺りは、日美香の方が詳しいだろう。菊花の両親はどんな感じだった?」
「私に人の内面を聞かないでよ! わかるわけないじゃん! 私は良い人だとしか思わなかったけど……あなたにとっては、私と同じくらい無神経だったんだよね? だとしたら、菊花からしたら、あんまり自分のことを理解してくれないお母さんではあったのかも」
「それはそうかもしれませんが、私も薫子さんに、そういう意味での悪印象はないですよ。記憶喪失でなければ、むしろ好感を抱いていたと思います」
「なら、もう一人の母親の方はどうだ? 結局、君のお見舞いに姿を見せた話は一度も聞かなかったが」
「これでも菊花の婚約者だから会ったことあるけど、厳しそうな人ではあったかな。だけど、別に普通だったよ。お見舞いに一度も来なかったのは事実だけど、それだけで薄情だとか、虐待してたとかは、さすがに言い過ぎだと思うし。」
三人で菊花のこれまでに思いを馳せるけど、菊花がどうしてここまで愛に飢えているのか。その原因がわからない。
思えば、これまでは自分のことに精一杯で、菊花のことを考えたことなんてほとんどなかった。だから、菊花が感じている怒りは、最もだと思う。私と菊花の立場が逆なら、蓮と日美香に抵抗さえしていると思う。
こんなことを思うのは、菊花と同じ脳を共有しているから? それともまた、菊花に都合よく使われているだけ? 自分の心に生じる感情さえ、いまとなっては信用ならない。
私の内側には、私という土台が組み上がっていない。私の至る所に菊花が入り込んでいる。だから油断すると、外側に自分を求めてしまう。蓮と日美香が思う私らしさ。それに沿うことで、私を確かにしたくなる。そんなことをしたって、何の解決にもならないのに。
私には、私である根拠がない。蓮にはあって、日美香にもあるんだろうか。菊花にとっての自分とは、どこにあるんだろう。私を記憶ごと喰らって、それでも自分だと、”私”も自分だと言い張れるってことは、実は菊花にもそういうものがないのかもしれない。なんて想像をしてしまう。
これだけ暴れ回っている菊花の内面が、脆かったとしたら……どれだけ多く見積もっても半分以下は自分だけど、かわいいかもしれない。