《白紙の私に無題の道を 第23話 オープンワールド・シンドローム》作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

「……全然、授業ついていけないんですけど」

今日初めて訪れた大学の食堂でお昼ご飯を食べながら、二人に弱音をこぼす。結局、菊花は目覚めることなく眠りについたまま休日が終わり、私が大学に通うことになった。

それ自体は嬉しいこと。三人で一緒に日常を送る。一生手に入ることがないと諦め切っていたものが、いま手元にある。ただ、手にしたら思ったよりも理想通りではないというか、現実が鎌首をもたげる。

「意味記憶? は残っているんじゃなかったのか?」

「はい。ただ、私が喰べられている間に蓄積していた知識は、継承されていないみたいです。そのおかげで、”私”でいられるんですけどね」

菊花と比較したとき、知識に欠落があることに気付けなかった。知らないものを、”知らない”と知覚することは非常に難しい。私の学力が何一つとして前進していないんだから、少し立ち止まれば、授業を受ける前にわかるはずなのに。実際に目の前で、知っていることが前提で進む授業に出て初めて、菊花が学んだものが引き継がれていないことを理解した。

これは見た目以上に深刻な事態、だと思う。大学生活に支障を来すこと以上に、もっと大きく、人生に関わってくる。

私が授業について行こうと思ったら、当たり前だけど勉強しないといけない。それ自体は全然構わない。菊花が苦労して得た知識を奪いっぱなし、っていうのは、菊花にされたことと同じだと思うし。でも、そんな悠長なことをどうやら言っていられない。なにせ、人生は限られている。そして、先人がこう言い残している。人生は短い、と。

そんな人生を、私は、そして蓮と日美香は、菊花と分け合って生きていきたいと願っている。だとしたら、同じことを二度も学んでいる時間なんて当然ない。そんな二度手間をしている場合じゃない。

かといって、知識や経験を無秩序に共有することには、危険が伴う。菊花に喰われる前から思っていたことだけど、その人が得ている知識には、その人の人格が相当反映される。それを継承するということは、少なからず人格に影響を及ぼす。

実際、私の記憶ごと喰らった菊花は、以前の菊花とはどこか違っていたようだし。記憶と知識、そして人格の境界は極めて曖昧。曖昧というよりも、融け合っていると表現する方が適してさえいる気がする。

「勉強し直しにはなるが、菊花はノートをかなり綺麗に取る方だったし……こんなことを言うとイヤかもしれないが、菊花と同じ脳なら、残っているものもあるだろうし、半分とか、三分の一くらいで身に付くんじゃないか」

「でも、それって大問題じゃない? ただでさえ、二人で人生分けたら時間が足りないって話してたんだから、学習負荷が1.5倍でも、積み重ねたらかなり痛いよ」

「私もそう思っていたところです。かといって、菊花が得た知識を私が継いだり、私が得た知識を菊花が継承したり……そんなことを繰り返していたら、お互いの境界がどんどんなくなっていくと思うんです。考えたらキリがないって結論を出して保留にしましたけど、そのせいで、記憶を失う前の菊花と、私を喰べた菊花と、私の三人がいて、際限なく人格が別れていっているのに」

「……咄嗟にそこまで気が回らなかったが、確かにまずいな。仮に君と菊花が共存して生きていくとして、記憶の引き継ぎをしないと人生が浪費される。かといって引き継ぐとなると、人格を入れ替える度に人格が増殖していく、か……」

一人の人間の中で、人口爆発。なんてことになったら、さすがに笑えない。かといって、記憶や知識の継承が、人格間で行われないことの実害も非常に大きい。

正直、大学のお昼休み中にするような話ではない気がする。でも、いま話しておかないといけない。私がいつまで私でいられるか、それさえ定かじゃない。次、菊花に喰われたとき、そのまた次があるとは限らない。菊花から見て、私の役割を完全に終えたら、それすなわち私の死。

菊花の願望を確定できていない以上、何気ない出来事が私の役割である可能性がある。だから、話さないといけないことは、常に”いま”話しておく必要がある。

「菊花は、記憶を失う前も、私を喰べた後も、同じくらいそういうことを気にしなさそうですけど……私はそういうわけにはいかないですし」

「気にするやつと、気にしないやつと、心の中で同居するなんて、考えたくないな」

「価値観が合わないと一緒にいられないって、本当なのかな」

「その理屈だと、私たちは長続きしないことになるな」

「そんなことないよ! 四人はまだまだ始まったばっかりだってば!」

「……これでも、生きている世界が全員ばらばらなわりには、長続きした方なのかもしれないですよ」

いま直面している問題を思うと、ここが私たちでいられるリミットなのかもしれない。ありとあらゆる物事が、個人的な感情に起因しているせいで解決の糸口が見えず、ややこしい問題だけが積み重なっていく。

四人の内の誰かが納得すると、四人の内の誰かが被害を被る。それを避けることができる展開を見つけないことには、私たち四人の関係を持続させていくことは難しい。

「菊花との対話は、結局できないままか?」

「脳内で呼びかけてはいるんですけど、そういう問題ではないみたいで」

「それで目覚めちゃうくらい、菊花とあなたの境界が曖昧だったら、それはそれで困ちゃうけどね」

「それはそうなんですが、私と菊花の対話がままならないのも、結構困ります」

「君と菊花が納得いく、落とし所を探れないからな。菊花が君に宛てたメモの類を残していないあたり、君との対話を拒絶しているってことなんだろうが」

蓮の推察は、おそらく当たっている。菊花は私を残す気なんてさらさらない。菊花の望みはおそらく、私を含めた二人分、蓮と日美香に愛してもらうこと。そんな菊花にとって私の存在は、本来受け取るはずだった二人分の愛を、二等分にしてしまう邪魔者。最終的には消えてもらうことになる私と、対話する理由なんてない。

かといって、それじゃ二人が納得しないから、私を目覚めさせ、私にこだわる二人を、私自身の手で納得、あるいは諦めさせようとしているんだろう。だけど、私はおろか、二人も菊花の思惑通りに動いていない。その気配すらない。

しかし、あの菊花が、膠着状態に陥ることを読めないなんてことがあるだろうか? 彼女には何か勝算があったのだろう。二人が私の死を納得するか、諦めるに足る何かが。

それを誰よりも早く見つけないといけない。蓮と日美香のことは信頼しているし、愛している。だけど、菊花の企みを暴くという点に限れば、二人は競争相手かもしれない。

もしも二人が私を諦めなければいけない論理が実在するなら、それを知られたら私は終わり。二人が納得したことを菊花が察した瞬間、私はまた一方的に喰われることになる。この記憶ごと。そうさせないためにも、私が誰よりの先に菊花の計画に気付いて、人知れず握り潰す必要がある。

二人を騙すような形になるのは不本意だけど、自分の命を惜しいと思うのは普通のことのはず。なら、生まれるべきでなかった心の私にも、それくらい許されたい。

※※※

大学での授業を終えて、私はリビングにあるベッドの上に倒れ込んでいた。生まれて初めての外出。ずっと憧れていた外の世界。私の脳は確かにこの世界を識っているはずなのに、心は真っ白だから、何もかもが新鮮だった。

電車に乗るのも、授業を受けることも。菊花や、この肉体は飽き飽きしていることでも、無邪気にはしゃげてしまう。表に出すと年齢にそぐわない言動になってしまうから、なるべく隠す努力をしていた。二人にはきっと、バレバレだったけど。

でも、一番疲れている理由は、はしゃぎすぎたからじゃない。”ちょっと”という言葉では足りないくらい、イヤなことがあったから。たくさんの初めてを塗り潰してしまうくらいの。

「お疲れさま。初めての学校はどうだった?」

疲労に任せるままにしていると、水の入ったコップを日美香が手渡してくる。そんなに疲れているように見えるのかな。だとしたら、気を使わせてしまって悪いなって思う。

「すいません、いただきます。大学は……大変でした。最初は授業だけが課題なのかと思ってたんですけど、まさか菊花の友達に声をかけられるとは思っていませんでした」

「あれは、お互い災難だったよね。まさか、土日を挟んだら菊花がまた記憶喪失になってるなんて、普通思わないだろうし」

午前の授業はついていけないことを除けば、平穏だった。だけど、午後の授業はかなり精神的に削られた。ゼミの授業が入っていたから、菊花の友達と鉢合わせることになってしまった。

私の……ではなく、記憶喪失中の菊花のお見舞いに来てくれた人がほとんどだったから、菊花がいかに好かれていたかを改めて感じると同時に、この世界に自分の居場所がないんだと、自覚させられた。

彼女たちに悪気がないことはわかっている。お見舞いの時も、今日のことも。どちらかといえば、私の方が悪いんだとは思う。勝手に傷付いて、被害者ぶるなんて。でも、何気ない一言が、被害妄想とさえ自分でも思ってしまうほどの、彼女たちの表情の機微が、心を抉る。

私が菊花でないと知った刹那、浮かんだ穢らわしいものを見るような瞳。なぜ”消滅したはずのあなたが、菊花の代わりにここにいるの?”という疑問の表情。

私の世界は、あの狭い病室の中だけで完結していた。だから、すっかり忘れていた。蓮と日美香だけが特別なんだってことを。私の存在を、自分が損をしてまで守ろうとしてくれるのは、世界に二人だけだってことを。

蓮と日美香以外の世界は、私がいなくなったことで平穏を取り戻していた。なのに私の目覚めが、世界を完全から不完全なものへと変えてしまった。時間が経っても、菊花が帰還しても、私は異物のまま。

「…………私って、一体なんなんでしょうね……」

「うん? あなたはあなたでしかなくない?」

こういう時、日美香はなんとなくで言ってくれているのか、それとも私の苦悩を完全にわかってくれた上でこう言ってくれているのか、正直あんまりわからない。まあ、でも、そんなことはどうでもよくて。特に何も考えていなかったとしても、こう言ってくれる人が世界に一人いてくれるだけで、救われる心がある。

「日美香がそう言ってくれると、なんだか救われます」

「たいしたこと言えてる気がしないけど、ならよかった」

「たいしたことないことを、まっすぐ言ってくれるから、嬉しいんですよ」

日美香と蓮が存在してくれているということだけで、ものすごく救われている。二人だけが、世界の全てだったらいいのにって。そんな自分自身に対して、怖くなる。二人への感情がどんどん重くなっていく。そして、私を喰らう菊花が二人へ向ける感情も、私の分だけ重力を帯びていく。

世界から拒絶されればされるほどに、私の無意識が二人を”私”に縛り付けようとしてしまう。そもそも、私が二人に対して、消えたくないと。菊花に利用されるだけの命になりたくないと。罪悪感や同情で縛り付けるようなことを言い出さず、自分一人で抱えたままにしておけば、こんなことには……

って、これはまずい。こういう方向に思考が流れると、菊花が得をしてしまう。たった一つの思索が、死に直結している綱渡り。それが私の日常。

「それで、明日はどうする? 学校行く?」

「はい? 当然行きますけど」

「そうなんだ。すごいね。私だったら、休んじゃうと思う」

まあ確かに、休みたくなる気持ちが一切ないわけじゃない。でも、病室以外の世界にいられることが嬉しかったのも本当のこと。家の中に引きこもっていれば解決するほど、簡単な問題じゃない。

私の生きる世界が、病室の中か、蓮が用意してくれた家の中か。それは大きな違いではあるけど、その違いだけじゃ、世界に居場所がないっていうこの孤独感は消えてくれない。

世界に居場所がないなら。私の分が既に菊花に取られているなら、まだ誰のものにもなっていない場所を、自分で掴んでいくしかないんだと思う。だから……頑張らないと。

※※※

大学の講義室。同じ授業をとっているという共通点のみで集められた、無関係の百人前後の人たちの集まり。そんな中でさえ、疎外感を感じてしまう。これが一方的な思い込みであることくらいわかっている。お互いの存在を認知していないことくらい、頭では理解しているのに。

この講義室の中で、私が記憶喪失中の人格であることを知っているのは、両隣にいる蓮と日美香だけ。もしかしたら、どこかに菊花の知り合いが一人、二人、いるかもしれないけど、誰も私に興味なんてない。私の存在を認めているわけでもなければ、否定もしていない。無関係な他人に対する興味なんて、普通そんなもの。道ですれ違う人、一人一人に対して、この人は存在して良いとか悪いとか、いちいちジャッジしている人間なんていないのと同じ。

そんなことわかっているのに、排斥されているというありもしない空気を錯覚してしまう。

「大丈夫か?」

「……えっ、どうしてですか?」

「どうしてって、震えてるぞ」

右隣に座っている蓮に言われて、初めて自分が震えていることに気付いた。昨日、菊花の友達に拒絶されたトラウマが、自覚していたよりも深刻みたいで。

「今日は私たちがちゃんと守ってあげるから、ね」

そう言って、日美香が私の左手を握ってくれる。自分でも訳がわからない不安に襲われて、何もかもわからないけど、その温もりだけは確かに感じられた。

「うまい返しをいくつか考えてきたからな。まあ、なんとかなるだろ」

蓮は私に触れてくることはなく、そしてぶっきらぼうに、でも力強く、頼りにして良いと言ってくれる。二人の存在が、どこにも行き場のない私を救ってくれる。

二人はここまで私に尽くしてくれているのに、私は自分のために何もできていない。本当なら私が菊花や、この世界に立ち向かわないといけない。なのに、二人が私の代わりに戦おうとしてくれる。

だというのに私は、二人が菊花の思惑に乗せられて、私を見捨てるんじゃないかと疑って……最低だ。

「……しっかりしないと、ですよね」

「いまでも充分しっかりしてると思うが?」

「私たちが四人で付き合えてるのも、あなたのおかげなんだし、もっと自信持って」

二人はそう言ってくれるけど、私が生まれた価値はいまのところ、蓮と日美香を結びつけたことくらい。生後間もないことを考えたら、それで充分なのかも知れないけど、菊花の経験と功績がなければ、成し得なかったことでしかない。私自身の手で積み上げたことじゃない。

私がこの世界に居場所がないのは、私が何もしていないからだって、なんとなくわかっている。私は蓮と日美香に何もしていないのに、菊花と肉体が同じだからという理由だけで付き合えている。そんなことを平気でするような人間が、良い顔をされる訳がない。

かといって、私らしいとか、私にしかできないことなんて、思い付かない。結局、二人がなんと言ってくれても、私は誰でもなくて、菊花の成り損ない。そこから一歩でも外に出られたら何かが変わるんだろうけど、それができたら誰も苦労しない。

普通の人だって、自分らしさを見つけるのに苦労しているのに、どこまでも中途半端な私が、菊花がもう一度私を喰らうまでの限られた時間で、自分を確立できる気がしない。

外の世界は怖い。この世界で私はあまりにも無力で、菊花の中で眠っていた方が楽だったんじゃないかって思ってしまう。それこそ、菊花の一部として生きていけば、こんなに悩み苦しむ必要だって……

そう思ったと同時に、意識が飛びそうになる。眠りに落ちる直前のようなものとは質が違う、もっと本質的な昏睡。私が自分の命を呪った瞬間、すかさず菊花が私を喰らおうとしてきた。

いま喰べても仕方ないから、引いてくれたみたいだけど……私がもう生きていたくないと、間違っても二人に言葉にしていたら、私は終わっていた。

菊花はなんとなくわかっていたんだろう。私が世界を知ったら、ほどなくして音を上げることを。これだけが菊花の勝算だとは、自分のことながら思えないけど、価値筋の一つではあるはず。

実際、菊花が私に命を呪わせようとしていると知ってなお、命を呪うことをやめられないでいる。生はあればいいというほど単純なものじゃなかった。死ぬよりは生きている方が良いと無邪気に信じていたけど、大切な人に一方的に守られる申し訳なさや、誰かに自分の存在を認めさせなければ世界から排斥されていく現実の苦しさを知ってしまったら……生きていることが必ずしも素晴らしいとは思えなくなった。

私の存在が、蓮と日美香と菊花の三人の関係すら危ういものにしているのなら、いっそ私だけが終わってしまうのもありなのかも。それは皮肉なことに、私にしかできない行為でもあるし、世界の望みとも合致する。

「どうかしたか?」

「いえ……その……なんでもないです」

「そうか。なんかあったら、気にせず言いな」

妙に鋭い蓮に、わかりやすい誤魔化し方をする。生きていたいとわがままを言った私のために、必死に足掻いてくれた蓮に、生きていたくなんて、とてもじゃないけど言えない。