《白紙の私に無題の道を 第24話 露悪的リバイブ》作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

生きるってなんだろう。少し前までは、生きていれば生きていると思っていた。呼吸していれば、それだけで生きていると感じられた。

だけど、いまはどうだろう。私が遭ったわけじゃない事故の後遺症で、病室にいるしかなかった頃よりもずっとずっと、私は死んでいるみたいだ。

病院にいた頃は、生きているだけで生を許されていた。私の人生は存在しないも同然だったけど、その代わりに何も求められなかった。

私の存在全てが、菊花に戻るための途中。だから、私のすることは全て無意味にされるけど、意味を求められることもなかった。

でも、病室を一歩出たら意味を求められる。生きる意味を。のんびりなんてしてられない。“あなたはどんな価値があるの?”という視線に常に晒される。記憶がないという事情を、世界は考慮してくれない。

勉強ができることでもいいし、スポーツができるでもいい。とにかくなんでもいいから、意味のある存在であることを競い合う競争に晒される。

菊花や、蓮と日美香が大学に通っているのも、生きていてもいいと証明するため。その証明なしでは生きていくことは許されない。そういう空気をひしひしと感じる。

インターン、就活、資格にボランティア。価値を示せと、大学の構内だけでなく、電車の吊り看板も、インターネットの広告も、捲し立ててくる。

それが一定仕方ないことなのは理解できる。私が生きているのは、誰かが作り出した価値のおかげ。誰かが自分の知力が役に立つとアピールして、医学の道を志していなかったら、私、あるいは菊花は事故で死んでいた。

でも、私はこう思ってしまう。そこまで追い立てられながら生きていないといけないの?って。普通の人は生きることを放棄したら、それは死ぬってことだから、そう簡単に生きることをやめられない。だけど、私は違う。

私は生きることをやめても、死ぬ必要がない。私の人生を代わりに生きてくれる人が、頭の中にもう一人いる。彼女に私の全てを差し出せば、生きる権利とともに、生の苦悩も全て肩代わりしてくれる。

生きることの難しさを知ったら、一つの肉体を二人で分け合って生きていくことがどれだけ困難か、わかってしまった。一つの肉体に一つの心でも筆舌に尽くし難いほど大変なのに、二人で分け合うなんて無謀もいいところ。

私一人が苦労するならまだいいけど、記憶喪失中の人格なんていう、本当ならどうでもいい私のことを、一人の心として愛してくれた蓮と日美香にまで、多大な負担をかけてしまうことが、なによりも耐え難い。

二人だって、生きることが楽なわけじゃない。蓮はあまり言葉にしないけど、同年代の人たちが将来に向けて、何かを始めているのを見て、重圧を感じている。日美香はそういう気苦労とは無縁そうではあるけど、察しの悪さを昔からかなり咎められたと言っていたし、本人なりに気を遣いながら生きているんだろうと思う。

蓮と日美香は優しいから、ぼんやりと生きている私を気にかけてくれるけど、それが負担になっているのは間違いない。大学では菊花の友達と、怯え切って会話すらままならない私の間に入って、事情を説明してくれている。そのおかげで、大学は少しは過ごしやすくなったけど、本当ならそれは私がやらないといけないことだった。

自分のことを自分でこなせない私が、生きていていいとは思えない。私がゼロ歳ならそれも仕方ないのかもしれないし、二人は私のことを実質ゼロ歳だからと許してくれそう。だから、生きているのが辛い。こんなに優しくされると、それが申し訳なくて、生きているのがイヤになる。

周りからは二十歳を超えた大人として扱われるのに、菊花としての人生経験が全くないから、脳は大人でも心は子どものまま。中途半端に知識があって、頭が回るから小難しいことを考えられるのが余計に悪くて、気楽に生きるってことすらできない。

 

※※※

私の代わりに菊花が眠りについてから二週間が経って、迎えた週末。私と菊花で同じことを二回勉強するのが時間の無駄とが言っていられず、暇な時間はとにかく菊花が撮っていたノートを参考に、私が眠っている間の知識を埋めた。

蓮と日美香が教えてくれたこともあって、今週の半ばには授業にそこそこついていけるようになった。それはこの脳が単に優秀だからなのか、菊花としての知識が脳に残っているからなのか。私には判別のしようがないけど、想定よりも手間がかからなかったことは、多少生きる希望を与えてくれはした。

だけど、生きていくことの苦悩を完全に払ってくれるほどじゃない。私の人格が混ざることを気にしない……というより、私のことを”菊花”だと思っている菊花は、私の記憶と経験を引き継げる。だけど、私と菊花は完全に別の人格だと捉えている私は、菊花の記憶を継承するわけにはいかない。

側から見れば、私が記憶を取り戻したくないと怖がっている時点で意味不明だろうに、菊花の経験を放棄して苦労をすることになっててでも、菊花の人格がわずかにでも私に混ざることを忌避している様は、異様でしかないだろう。

蓮と日美香は理解を示してくれているけど、正直、自分ではこのままじゃいけないと思っている。行き過ぎた過剰な自己愛が、私自身と、大切な人を蝕んでさえいる。

記憶喪失中の人格という自己の曖昧さが、際限なく自分を大切に扱わせて、自分と世界との接続を上手にこなせなくさせる。どこかで歯止めをかけないといけないのに、それができない。

自分をどこかで諦めて、世界と同調させることは特別なことじゃない。誰もがどこかで自分の理想を諦めて、誰の理想でもない、なんとなくで成り立っている世界に自分を合わせている。

蓮と日美香も同じことをしている。それをわかっているのに、私はそれをする自分を許容できない。生まれるべき心ではなかったからと記憶を取り戻すことを正しいとすることも。菊花の経験を引き継がないのは損だからと、菊花に内心を侵されることを許容することも。世界で正しいとされる世界観で、自分の人生を生きることができない。そんな生き方を選んでまで、生きていたいと思えない。

「順調か?」

「……えっ、あっ、はい。順調ですよ。順調です」

リビングでレポートをこなしたり、今日の授業でわからなかったところを菊花のノートを参考に遡って勉強していると、蓮が声をかけてくれた。

蓮が私のことを気にかけてくれるのが嬉しい。だけど、素直に順調だと答えることができない。学業の成績という意味では順調そのものなのに、順調だと答えたくないものが、確かにここにあって。

「何か思うところでもあるのか?」

「いえ、そういうわけじゃ……」

「そうか。なら、いいけど」

日美香ならともかく、蓮を誤魔化せていないことくらいわかっている。その予感を証明するように、蓮は私に何かを聞いたりはしないけど、自然と隣に座る。そういう優しさが、いまの私にはどうしようもないくらい気まずい。

自分で手を動かして勉強をしてみるまでわからなかったけど、こうしていると違和感が募っていくばかり。私はいま、懸命に授業に追いつこうと努力している。だけどこれは、本当に私がやりたかったことなのかなって。

この勉強は、菊花がやりたかったことであって、私がやりたいことじゃない。菊花の記憶を引き継ぐ、引き継がない以前に、菊花が下した人生の決断の延長に私の人生があることは変えようがない。私の全ては菊花に回収される。

こんなことを思いながら、特にやりたいことがある訳じゃない。特に意味も、意義も、理由もなく、機嫌を悪くしているだけ。そんな自分にもイヤになるし、生まれてきて良いことが何一つない。

病室しか知らない私は、あんなに生きることに憧れていたはずなのに、いざ人生を生きられるようになったら、押し潰されそうになる。二人はこんなにも必死になって、私が生きられるようにと力を尽くしてくれているのに。

生きることは確かに私が望んだことで、生きるのが辛いと知れたのも、生きることを知ったから。二人には本当に感謝している。だからこそ、生きることをポイって放り投げられなくなった。

蓮と日美香が大好きだから、いくら二人からの贈り物が期待外れなものだったとしても、捨てるなんてとてもじゃないけどできない。やっぱりいらなかったかも、と言葉にするには、私は二人から一方的に貰いすぎた。

「……なあ、あんまり私と日美香がしたことを気にするなよ。頼まれたからって、なんでも聞くほど、自分を安売りしてるつもりはないからな」

「……察しが良すぎるのも、察しが悪すぎるのと同じくらい罪だと思いますよ」

「ほどほどができるなら、最初から三人で付き合ってないだろ」

蓮は私が考えていることくらい、すっかり見抜いていて。それでも、私のことを見捨てずにいてくれる。私は蓮と日美香をありえないほど振り回し、迷惑をかけている。

無価値な私のことを愛してくれた二人のことが大好き。だから、何も返せないのが苦しい。本当なら自分で、私と世界の橋渡しをしないといけないのに、二人に代わりに間に入ってもらって……

私が生まれることなく、菊花が菊花だけなら、二人のことをもっと幸せにできた。きっと、ここまで二人に頑張ってもらったんだから、私も頑張らないといけないんだろう。

でも、記憶喪失中の人格なんていうものを世界に納得してもらうのも、疲れてしまった。私だけならまだいいけど、蓮と日美香まで巻き込むのは、耐えられない。そして、菊花が生きてきた人生を途中からプレイする空虚さにも、心が摘まれていく。

蓮と日美香のことだから、私がこんな感情を基点にして消滅したら、哀しんでしまう。だから、上手に消えたい。本物なんて何一つない人生だったけど、二人への想いだけは、菊花よりも本物にしたい。

※※※

「本当に一人で大丈夫?」

「あんまりムリするなよ。一つくらい単位落としたって、来年以降でどうとでもなるんだしな」

お昼休みを終えてから一つ目の授業を終えると、両隣の席に座っている蓮と日美香から、叩き込まれるように心配された。

菊花たちは、三人で付き合い始める前から、大学の授業をなるべく三人で被るように取っている。だけど菊花が、蓮と日美香と出会う以前に取得する単位を決めた大学一年目の影響や、個人個人でどうしても取りたい授業があるとかで、三人が揃わない授業がちょこちょこある。

ほとんどの授業は誰か一人が欠けたり、授業を取っていない空き時間があるからと、私についてくれるんだけど、毎週火曜日は、私がどうしても一人にならざるを得ない授業があった。

「そんなに畳み掛けないでも大丈夫ですよ。先週はなんともなかったじゃないですか」

「そう思えないくらい不安定に見えるから、目を離したくないんだよ!」

「もうちょっと言い方を……もういいか、このつっこみは。とにかく、何かあったら連絡してきな。きみはすぐ、自分は一人だ、みたいな顔するからな。目を離した隙にどっか行ったりするなよ」

「それは、私じゃなくて、菊花に言ってくれないと、私にはどうにもできないですよ」

「どうだかな。入院中のきみならまだしも、最近のきみはどうも信用ならないからな」

完全に私の心中を見抜いている蓮は、蓮らしくない強い口調でそう言い残してから、日美香を連れて教室を出た。

一人になる時間も時には必要、なんて言うけど、私はいらないかな。蓮か日美香がそばにいてくれないと、息ができなくなる。この世界の知識はあっても、この世界でまともに生きた経験が一ヶ月分もないから、勉強はできても生き方がわからない。

人とどう心を通わせればいいのか。どれくらいなら自分のことをわかってもらおうとすることが許されて、許されないのか。そういう、この年齢ならできて当然の気配り? 配慮? ができないから、喋り方や語彙に対して、ありえないほどわがままだと受け取られる。

菊花の友達には、蓮と日美香が事情というか、私の状態を伝えてくれたから、私の振る舞いがわがままじゃなくて、単なる経験不足だってわかろうとしてくれているのは感じる。

それでも、見た目が大人で、口調も大人の私が、いきなりとんでもないことを言い出すんだから、本能的な忌避感を与えてしまう。

なんとかそうならないように気をつけているつもりだけど、うまくいかない。無自覚に人に不快感を与えているという意味では、日美香に近いのかもしれないけど、日美香はちゃんと気が利かないだけで気遣いはできるし、明るい。私はこんなだから、許容しようって気持ちになり辛いのは、自分でもわかる。私自身が、私のことを好きになれないくらいだから、人に好かれるわけがない。

おまけに、私は容姿が菊花と同じだから、菊花を知っている人からは、どうしても菊花と比較される。私からすると、菊花に良い印象は全くない。勝手に私を産んで、勝手に喰べて、かと思えばまた蘇らせて。菊花は、私を利用しようと思って私を生み出したのかはわからないけど、彼女の行動に一貫性があるようには見えない。

だけど、それは内側に菊花がいる私の視点であって、菊花の友達はそういう印象じゃない。優しくて、理性的で、授業やゼミの課題でわからないところがあったら、なんでも答えてくれる優しくて賢い人。それが菊花の姿。

菊花がもっと本性を出してくれていたなら、私を取り巻く世界は、もうちょっと空気が濃かったと思う。そんなことを言っても始まらないから、自分のためにならない、菊花が勝手に決めた授業が行われる教室へと向かう。

ゼミの授業と違って、この授業は互いを個として認識することのないタイプ。だけど、教室が小中高の教室よりもやや小さいくらいの広さしかないから、面識がなければ他人のままでいられるけど、顔を知っている相手を見つけることはあまりにも簡単で、一人のいまは恐怖さえ感じる。

「隣、座ってもいい?」

一番目立たない真ん中くらいの席に座っていると、背後から声をかけられた。その声には聞き覚えがあって、明らかに私を”菊花”だと認識して、隣に座ろうとしている。

「もちろん、いいよ」

「ありがと」

最低限のやりとりをしてから、女性が右隣に座る。私の記憶が確かなら、この人は”菊花”のお見舞いに来てくれた。この人は記憶喪失中である私への配慮があんまりなくて、自己紹介を自然と省いていた。

いまさら名前を教えてとも言い出し辛くなってしまった。街中で声をかけられるくらいには、どちらかというと悪い意味で印象に残ってはいるだけに、奇妙な感じがする。

「……菊花はさ、なんでこの授業取ったの?」

「ごめんね、今日も菊花じゃないから、私に聞かれても、わからないかな」

どうして、”ごめんね”をつけないといけないのかわからない。だけど、つけておかないと、蓮と日美香以外は表情が曇るから、波風を立てないために自然とつけるようになっていた。

そのおかげで、以前よりはイヤな顔をされなくなったけど、その代わり、私の心が荒れるようになった。

だって、菊花だったら”今日はあの子じゃないの、ごめんね”なんて言う必要はない。私は記憶喪失中の心だから、”ごめんね”をつけないといけない。生まれ方が普通と違うという、ただそれだけの理由で、何も悪くないのに、”ごめんね”を強要されている。他人に言わせたら些細なことだと思うけど、面白いわけがない。疲れるし、殺したくなる。

「……夢があるって言ってたじゃん。そんな大切なことも忘れちゃったの?」

やっぱり、この人面倒だ。先週の授業でも、私に話しかけてきて、このまま相手してたら踏み込んで来るだろうなっていう予感があった。単に鬱陶しいだけなら別に構わないんだけど、この人はなんていうか、的確に私の心を抉る言葉を選んで来る。

天然でそうなのか、私のことなんかいらなくて、一秒でも早く友達の菊花に帰ってきてもらうためにこんな言葉遣いをしているのかは、よくわからないけど。とにかく、私はこの人がキライだ。

だからといって、一人で追い払える自信もなくて、スマホに手が伸びる。だけど、ここで蓮と日美香を頼ってしまったら、ずっと二人の負担になり続けてしまう。この世界には、こう言う人たちばっかりだから、長生きする気力はもはやない。だからこそ、こんな世界で生きようとしている蓮と日美香の重荷には、なるべくなりたくない。

「記憶喪失中の人に、”忘れちゃったの”って聞くのは、不毛だと思いますけど」

「菊花はそんなこと言わない。将来、大学で学んだことで誰かの助けになりたいって、言ってたじゃん」

この人がなぜこういうことを言っているのか、よく知っている。私に死んでほしいからだ。私を殺したくて殺したくてたまらない。だからこんな風に、私の中に眠る菊花の記憶を呼び起こせそうな言葉ばかり口にしている。

記憶を取り戻すことが死に直結している私からしたら、殺害予告なんかよりもよっぽど怖い。こんなに堂々と殺意を向けられているんだから、喉元にボールペンを突きつけるくらいは許されて良いと思う。だけど、こういう形で殺意を向ける事は、日本の法律どころか、世界中のいかなるモラルにすら反していないから、私に許された反撃手段は何もない。

「……そういう話がしたいなら、菊花が帰ってきたときにしてください。私に菊花の記憶はないですけど、菊花には私の記憶がちゃんと継承されるので」

こんなことばかりが、これから先も続くと思うと、生きる気がなくなっていく。みんながみんな、日美香みたいにわかってくれるわけじゃない。自分の感情の説明を、こういう人たちを相手に、何度も何度も繰り返すのが辛いっていうのもあるけど、一番辛いのはわかってもらえるとは限らないこと。

それこそ、この人には先週、悪い予感がしたから蓮と日美香から私のことを伝えてもらった。その結果がこれ。多分、私が生きたがっているのが気に食わなかったんだと思う。創作の世界の記憶喪失者が揃いも揃って、記憶を取り戻したがるし、そういう振る舞いをするのが記憶喪失者の正しさにされているから、私の記憶を取り戻すことに極めて消極的な姿勢が、この人の価値観を攻撃したんだと思う。

そんなこと思われても、お互い他人なんだからほっといてくれたらいいのに、こういう人に限ってつっかかってくる。

「そんな風に考えているから、せっかく記憶が戻ったのに、また記憶が消えたんじゃない? もっと積極的に……」

 

気付いたら、この人を地面に押し倒して、喉元にボールペンを突き刺していた。刺すといっても、肌に先端が沈んでいるだけで、痛みはあるかもしれないし、ないかもしれない。

だけど、殺意の発露だと問われても文句の言えない状況。実際、私が椅子から蹴り上がるように立ち上がってから、この人を押し倒した物音のせいで、私を責め立てるような視線が集まる。

「えっと、あの……」

うまく言葉が出てこない。どうして……どうして、ここまで死んでほしい、死んでほしいと繰り返し言われて、ずっと我慢していた私の方が異常者みたいな目で見られないといけないの? こんな理不尽があっていいの?

いいんだよね。だって私は、菊花じゃないから。私はどうせ”じゃない方”だから、むしろ死んでほしんだよね。

この空気に耐えられなくて、地面で転けているバッグを持って教室を飛び出る。行く当てなんてなく、世界から逃避したくて。その一心で。

どこかもわからない廊下の隅で縮こまって、カバンに顔を埋め、泣き声を押し殺す。あの人への罪悪感なんてない。あるのは、辞書に載っているような単語では到底形にならない感情。

私は悪くない。なのに、私が悪いことにされる。暴行罪で捕まるかもしれない。あの人が先に、私を殺そうとしてきたのに。誰も記憶喪失の私の在り方なんて認めてくれないから、世界は許してくれないから、私が悪いことになる。そして、菊花は私のせいで捕まった可哀想な私の被害者にされる。

全てが最悪の世界。生きるに値しない世界。蓮と日美香を連れて、こんな世界、捨ててしまいたい。こんな世界、菊花一人でいればいい。

どうして、なんで、こうなっちゃったんだろう。いまの私は、日美香みたいに気が利かなくて、蓮みたいにすぐ感情的になって手が出てしまう。二人の悪いところの寄せ集めのような人間。

それでなくても存在価値がないのに、これじゃ、価値がないどころか本当に世界に害を与えている。なんて、考えが浮かばされることが、もう許せない。世界が私を害しているのに、私のような悩みを持つ人が他にいないから、私が世界を害していることにされる。

これを多数決と呼ぶのか、それとも空気感と表現するのかは知らない。興味ない。ただとにかく、もう全てがどうでもよかった。

蓮と日美香がせっかく私のために頑張ってくれたのに、大切な人が私にしてくれた頑張りをなかったことにするあの人を含む世界が許せないし、自分自身も大嫌い。

もしも、世界を滅ぼす魔法があったら唱えていた。だけど、世界に都合がいいことに、世界を滅ぼす事はとても難しいから、自分を終わらせることしかできない。

自殺する人は、本当は自分じゃなくて世界を殺したかったんじゃないかって思う。でも、世界は殺してしまうには大きすぎるから、諦めて、自分の世界を殺すしかなくなる。まあ、想像でしかないけど。

生きるに値しない世界。生きていたいと思えない世界。だからといって、自分の人生を全て菊花に譲りたくはない。生後ゼロ歳の私にだって、自分の人生を、自分の思うように生きたいって、わがままな気持ちがある。

真っ白な私の人生を、真っ白なままで終わらせないために。私らしく生きて、菊花の思い通りにならずに私をやり切るために、私たちを、私の手で終わらせよう。

私が生まれたのは単なる事故だったのかも知れない。でも、私を勝手に産んで、苦しいきっかけを作ったのは菊花だから。道連れにしたって良いよね? だって、私は菊花を他人だと思ってるけど、菊花は私のことも自分自身だって本気で思ってるんだから、私の決断は仕方ないって受け入れてくれるよね?

筆箱からボールペンを取り出す。先端を突き立てたい相手は、本当は自分自身じゃない。菊花ですらない。だけど、一番簡単で、蓮と日美香に一番被害を与えずに殺せる世界は私だから。私に突き立てる。

記憶喪失になって生まれたたくさんの心が、顧みられることなく死んでいったように。本当に殺したい相手を殺すことができなくて、自分を殺すしかなかったたくさんの心のように。私はありきたりな結末をむか、えるとさすがに困るから、軌道を喉の中心から鎖骨の方へずらすけど、ボールペンごときで本気で死のうとしていた力はかなり強くて、首に刺さってしまう。

事故にあった時よりはマシだけど、かなり痛い。全然激痛。私のしたことながら、さすがに面倒なことになったなって思う。蓮にはあんなに言われたのに、ここまでするんだから。でも、私にそれくらい世界に失望してもらうって目的は達成できたから、問題なし。

あの人を含めて、ああいう人がこの世界を形作っている。私はあの人の前で、世界に求められていることを、適当に答えただけ。そうするだけで、あの人は私を立派な人だと判断して、好いた。そういうの、心底しょうもない。

正しいとか、価値があることよりも、世界が求めることを言って、実行することに価値がある。そういうの、もう疲れるよね。

こんな世界で価値があるものなんて、愛しかない。だから、たくさん愛したいし、愛されたい。一人よりも二人を愛したいし、一人を一人分じゃなくて、二人分で愛したい。それくらい一途に、愛に生きていないと、こんな偽物だらけの世界じゃ、嘘にされちゃう。

これくらい痛いのだって平気。痛みとか恐怖とか、そういうもので私を支配しようとする世界が大嫌いだから、反抗の意志として、ちゃんと痛い思いをするようにしている。

蓮と日美香を二人分で愛せるようにするのも、事故に遭ったのをきっかけにした。今回は、私に私が愛されるために、頭を殴ったし、ボールペンに刺された。これくらいやれば、私が本気だって、世界も認めざるを得ない。

さすがに痛すぎて意識が薄れてくるけど、これくらいなら死なないのは知っているし、そこそこすぐに見つけてもらえるだろうから心配ない。

ちょっと眠っている間に、そろそろ私とお話ししてもいい時期かもしれない、なんてことを思った。