《白紙の私に無題の道を 第26話 偽らざる者》作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

菊花に喰われるまでの私の世界の全てだった病室。以前と病室こそ違うけど、同じ病院だから、窓から覗く景色以外は全て同じ。

あんなに私の自由を縛り付けているように思えて忌まわしかったこの空間が、いまは世界と私を繋いでくれているように感じる。

入院している間は、それだけで役割を果たしていることにしてもらえる。何もない私にとっては、人生を生きるよりも、こうして無為に時間を浪費することを許される方が、ずっと生きている感じがする。

こんな生き方、ずっとは通用しないのはわかっているし、医療費だってタダじゃない。それでも、こういう自分では何も責任を負わない、全部他人にしてもらうのは、気楽だ。こんなことでは、そう遠くない未来で、蓮と日美香にさえ見捨てられてしまうと思うけど、だからってそれに抗う気力というのもあまりない。

菊花との会話……あれを会話と呼んでいいのか、自分でもよくわからない。身勝手で、自己中心的で、排他的な、自傷行為のような独り言……菊花と私を分けて考えている私ですら、そう思ってしまうくらい、おかしな現象だった。

記憶喪失とか、多重人格にも、調べてみたらこういう症例もあるんだろうか。もしかしたら記憶喪失も、それに伴う人格の分裂も、実は単なる心の異常で、全部菊花の妄想なんじゃないかという気がしてくる。

とにかく、菊花と直接関わりを持ってから、私の中で何かが以前にも増して、何かがおかしいというか、”私”がどんなだったのか、わからなくなってしまった。

菊花が私に語った本音。自分で自分を愛せないから、誰かに愛してもらい、自分の内側にもう一人の自分を作って愛してもらう。それを蓮に伝えたとき、彼女は意外そうな顔をしなかった。蓮は菊花のことを好いていないから、なんとなく察していたんだろう。

菊花が自分自身を大切にできていないことも。そして、菊花が自分の幸せのために周囲を振り回すことを、ある種どうとも思っていないことも。

そのことを伝えてから、蓮と日美香に距離を感じる。二人が私と距離を取ったんじゃなくて、私の心が勝手に二人と一緒にいられなくなった。

菊花が二人を振り回しているように、私も二人をハンマー投げのようにぶんぶん振り回していることに気付いてしまった。

二人が私のことを大切にするために、どれだけの犠牲を払うことになるのかを考えず、生きたいと言って。かと思えば、死のうとして。菊花のことを言えないくらい、自分勝手に生きている自分に嫌気が差して、これまでと同じように二人と一緒にいるのが辛くなった。

いっそ二人に、こんな身勝手な私のことをキライになってもらいたかった……と思えないあたり、蓮と日美香に甘えている私の性根が見え透いている。

面会時間が終わって、外の景色は街灯やビルの明かりが届いていないところは、薄暗くてよく見えない。

生まれたての私が”昔”なんて言うのは変な感じがするけど、昔はこの時間が耐えられなかった。私の母親を名乗る人と日美香に死を願われて、そんな二人さえそばにいてくれない時間。ふとした瞬間に、この薄暗闇に存在ごと溶けてしまいそうで、怖かった。

いまは、このまま自覚さえできないまま、夕暮れと夜の狭間にいる影のように、ふわっと無くなれたらって。生まれてさえこなければ、生きたいと思うことも、消えたいと思う必要も、何もかもなかった。命なんて、悲劇の源泉だとしか思えない。

生まれたばかりの真っ白な私でなくなって、世界を知ることで、命が呪いに塗れていることに気付いてしまった。気付きたくないことに気付かないままでいたかった。でも、知りたくないとわかるには、そのことを認知していないと良し悪しの判別ができないから、生きていたら自然と知りたくないことで、穢されていく。結局、生まれることが全部悪い。

満点の希望を抱えたままの私でいる一番良い方法は、そもそも生まれないこと。でも、生まれてしまったら、もう元には戻れない。一度色が塗られてしまったキャンバスの上に、どれだけ濃い白を塗り重ねても、本当の白にはならないのと同じ。

 

色々頭の中で、しょうもない比喩とか、世界への呪詛は際限なく浮かぶけど、私が向かいたい先がわからない。なんていうか、不健全だっていう自覚はある。夢とか目標とか、そういうものがなくて空っぽな私でも、不満なら際限なく言葉にできてしまうことが。

こうやって、後ろ向きな考えばかりを頭と心に蓄積していったら、良い悪いを別にして、他でもない私自身と、蓮と日美香を不幸にしてしまう気がする。自覚するだけで世界の見方を変えられたら、どれだけ楽だろう。

入院しているとはいえ、喉と首の間に穴が開いているだけだから、全身が折れていた頃と比べたら、そこまでの不自由さはない。だから、暗澹とした気持ちを振り払おうと、水揚げされたばかりの魚のようにベッドの上で寝返りをするけど、何も解決しない。

私の人生はまだ短いけど、それでもわかっていることがある。行動しないと何も変わらないって。自分から行動したことはほとんどなくて、そう思ったのはだいたい蓮のおかげ。押し倒したり、殴ったり、よくよく考えなくても、いいやり方だとは思えない。

かくいう私も、やったことといえば、自殺未遂くらいで、蓮のことを言えない。それでも、自ら死のうとしたことで、菊花と会話する機会を得た。菊花の口ぶりからすると、最低でも一回は私と会話するつもりはあるみたいだし、四人で共存する道はまだありそう。

問題があるとすれば、大学とか、社会に出るとか、そういうことは全部菊花にやってほしいと、私は思っているということ。それが叶わないなら、別に死んでも良いかなって思っている。

生きるのって面倒だ……記憶喪失中の人格なんていう、どうしようもない無価値さを背負って生きていくほどのやる気は正直ない。生まれた直後の私は、そういう偏見、あるいは差別のようなものに立ち向かおうとする意志があったけど、もう挫けてしまった。

あの頃は、世界が狭かった。菊花の母親を名乗る薫子さんと、菊花の婚約者を自称する日美香と、菊花の友達の蓮、それとお医者さんだけが世界の全部。だから、蓮に生を肯定してもらえるだけで、世界の四分の一から祝福されている気持ちになれた。日美香には話したら気持ちを理解してもらえた。世界に不満なんて、ほとんどなかった。

世界を広げなければよかった。あのまま菊花に喰べられて、菊花の一部として消化されてしまう方が、幸せだった。そうしたら、私は世界のほぼ全てから、祝福されていると錯覚したまま、眠ることができたのに。

菊花が私の存在を必要としている以上、のんびり眠ることはできそうにない。なにせ、私の願望と菊花の望みは衝突している。世界に失望しているという厄介な性質が似通っているせいで、お互いに命の最前線に立ちたくない。

お家の中で、蓮と日美香の三人で暮らしている瞬間だけほしい。そのためなら、私という身代わりを立てようとした菊花の気持ちが、わからないじゃない。私だって、私を否定する人たちに囲まれた大学生活を、自分でない自分に代わってもらえるなら、そうしたいと思ってしまう。

そして、こんなことを思う自分自身がイヤになる。露悪的なことを考えている自分を穢らわしく思っているんじゃなくて、菊花の思考に徐々に近づいているのが気に入らない。菊花の思考に近づくということは、私が菊花になるということに他ならない。

記憶を取り戻すことで、自分が菊花に塗り潰されることを恐れていたけど、幸か不幸かそうはなっていないし、そうなる気配もない。その代わり、世界と関わり、菊花と会話をしたことで、菊花の思考に近寄り、思想を理解できるようになってきた。

当初想定していたのとは全く違う形で、私は菊花としての記憶を取り戻しつつある。このまま世界への絶望を深めていったら、いつか本当に菊花になってしまいそう。

菊花は私のことを菊花と同一視しているけど、完全に同じだとは思っていないようではあった。だけどこのままじゃ、菊花と全く同じになった私が菊花を愛するようになって、自分で自分を愛してもらうっていう菊花の夢が実現してしまう。

わざわざ菊花の願いをへし折ろうとは思わない。彼女のことは、いまも好きではないし、かなりキライに寄っている。だからって、わざわざ菊花を不幸にしようとまでは思わない。でもそれは、私と菊花の心が共存できたらという前提。

自殺をした私が言えたことでは……いや、自殺しようとしたからこそ、自分だけは譲れない。自分がどうでも良いなら死ぬ必要なんてない。適当にキリのいいところで自分を世界に売り渡して、なんとなく生きていけばいいんだから。そういう器用で、正しいことができないから、死のうとしたんだから、菊花に自分を譲り渡せるわけがない。

自分のような、他人のような菊花にだけ、変に強気な私自身を情けなく思いながら、まぶたを閉じる。自殺をしてからまだ数時間しか経っていないから、なんていうか、とにかく疲れている。

理不尽なことだと思うけど、死のうとするのはけっこう心のエネルギーを使う。死への恐れ、痛みへの忌避感。そうしたものを振り切ってようやく辿り着くのが自死という決断。死にたくなるほどの精神状態で、生物としての本能を振り切ったんだから、何かができる状態じゃない。

寝る。それがいまの私に必要なこと。眠っている間だけは、私は私を保ったまま、現実を忘れることができる。自死よりお手軽で、だけど苦しくない代わりに根本的な解決にはならない現実逃避法。

※※※

自殺未遂した日から一夜が明けて、どうしようもない世界での、つまらない一日が始まる。救いがあるとすれば、いまの私は何もしなくても許されるということくらい。

とはいっても、菊花の介入のおかげというか、菊花のせいで、怪我の程度が軽くて、明日か明後日には退院できると、今朝言われた。

「よかったわね。重い怪我じゃなくて」

私が自殺未遂をしたと聞いて、飛んできてくれたベッド脇にいるお母さん……とはやっぱり思えないままの薫子さんが、声をかけてくれる。

蓮と日美香は大学がある。私の突発的な行動でこれ以上迷惑をかけたらもっと死にたくなるから、二人にはムリを言って大学に行ってもらった。でも、自殺未遂をした私を一人にしておくのは心配だからということで、薫子さんがここにいる。

「……なんで自殺なんてしたの? 滅多に連絡してこないし。久しぶりに連絡があったと思ったら、婚約者ができたとか、事故に遭ったとか、そういう話ばっかりで……」

そんなことを私に言われても困る。薫子さんが言っている三つの事件のうちの一つは私だけど、残り二つは菊花に原因がある。でも、こういう捉え方になるのもムリはない。薫子さんは私が菊花だと思っているんだから。

菊花に喰べられている間に、菊花から記憶を取り戻したことを伝えたことは、蓮と日美香から聞いているけど、そこから先のことは伝えることができていないままだった。

私を含めて、全員が不誠実だったとは思うけど、そういう精神的な余裕がなかった。私の人格がいつまで持つかそもそも不明だったし、私が菊花として生きていくつもりがないということからして、伝え損ねている。

私が記憶を取り戻したくないことは、蓮の菊花が苦手ということと引き換えの、二人だけの秘密だった。それを日美香と共有して、三人で付き合うことを決めた翌日、菊花に喰われてしまったから、薫子さんが介在する時間的余裕がなかった。

そんな状態で蘇るかどうかもわからない私のことを、薫子さんに伝えようとは、なかなか思えなかった。色々と間が悪くて……それも含めて、菊花の狙い通りなのかもしれないけど。

最初は菊花の記憶喪失だったはずが、いつの間にか多重人格のような状態になっていることを、薫子さんには伝えられないままここまできてしまった。

「…………なかなか、連絡する時間がなくて……」

菊花のふりをしているつもりも、するつもりもない。だからといって、私らしく振る舞う勇気も出せなくて、薫子さんは血の上では母親であるはずなのに、自分を見せることができない。

そもそも、私に親なんているんだろうか。私は誰から生まれたんだろう。菊花からだとは、死んでも思いたくない。だからといって、薫子さんが親だとは……どうしても思えない。

世界に突然、何の脈絡もなく突然降って沸いたのが、私。きっと私は世界のどことも、誰とも繋がっていない。もしかしたら、蓮と日美香とすら、ちゃんと繋がれていないのかもしれない。

「もう少しどうでもいいことでも連絡するようにしてよ。そうじゃないと、いくらお母さんでも、力になれないんだから」

昨日自殺未遂をしたばかりの娘と一対一で会う薫子さんだって、楽ではないとは思う。だけど、私からしたら、その実感なんてどこにもないのに、私の母親だって顔をされるのも、なかなかしんどい。

親は自分で選べないとはいえ、関係性は積み重ねることができる。その積み重ねが私とは全くないのに、菊花とはある。そのどうしようもない心の距離を、私だけが感じている。

同じ優しさでも、見知らぬ他人からでは恐怖でしかないのと同じ。蓮と日美香に手を握ってもらえたら幸せだけど、他の人とではそうなれない。

それにしても……菊花が自分を愛せないことに、生育の原因があるようには思えない。薫子さんは、少し菊花に対して過保護というか、押し付けるようなところがあるとは思う。

だけどそれは、私の個人的な事情を抜きにすれば、そこまで不愉快なものではない。少なくとも、菊花をあんな半ば破綻した人格に変えてしまうほどだとは思えない。

菊花に何かトラウマのようなものがあるなら、それを解決すればいいけど、そうじゃないなら菊花と仲良くなるのはかなり難しい気がする。

退院日も決まってしまったから、お互いやることがなくて、気まずい時間が流れる。薫子さんに対して特別苦手意識があるわけじゃない。良い母親だってこともわかっている。

ちゃんと向き合えば、こんな気持ちにならずに済む可能性の方がずっと高い。だけど、菊花の母親に向かって、私が菊花でないことを認めてほしいと言葉にする勇気はない。

菊花と友達だったかすら怪しい大学の知り合いですら、私の存在を認めてくれなかった。一番身近にいる蓮と日美香にわかってもらえたのが、ものすごく運が良かっただけで、薫子さんにも理解してもらえるとは限らない。

こんな風にぐだぐだ考えるよりも、よっぽど生産的なことがあるとわかっているのに、二人が来てくれることになっている時間を、いまかいまかと待つ。

病室にある時計を確認しては、また確認し直す。そんな無意味を何度も何度も繰り返す。ありえないくらい露骨な、二人でいたくない人にありがちな行動。こんなことをするくらいならいっそ、直接言葉にした方がずっと誠実。

こんな行動をしきりに反復している私を見て、薫子さんは何を思っているんだろう。自ら命を絶とうとしたばかりの娘が、母親の目の前でこんなことをしていたら、心臓に血液が流れていないような気持ちになっていてもおかしくない。

自殺しようとしたこと自体は、私らしかったと思っている。だけど、その結果として、蓮と日美香に迷惑をかけて、薫子さんに罪悪感を抱かせてしまったことは、さすがに本意じゃない。

こういう時、”心配させてごめん”とだけでも言えたらいいのに。自殺をしようとした私らしさをいけないことに、自分でしてしまうことが耐えられなくて、ごめんの一言が言えない。

菊花と同じくらい、私は私で性格が破綻している。とてもじゃないけど、社会に放流していい人格ではない自覚がある。そんなことを考えていると、病室の扉が開く音がした。

「こんにちは。お久しぶりです、薫子さん」

いつの間にか、二人がお見舞いに来ることになっている時間になっていた。先頭にいる日美香に続いて、彼女の背中に隠れるようにして、蓮が病室に入ってくる。

蓮がこれまで見たことないくらい緊張しているのがわかる。自分のことばっかりで、蓮が薫子さんと会ったらどうなるかを、考えていなかった。

三人というか、四人で付き合う……制度的な課題を置いておくなら、私たちは四人で結婚生活を送っていることにしていることすら、薫子さんに伝えていない。

さすがに、いつまでも黙っているわけにはいかないから、直接顔を合わせる良い機会だし、今日伝えておこうという話に、二人の間でなったんだと思う。

四人で付き合っていることを黙っているのは、自分たちで選んだ生き方とはいえ、しんどい。人には誰しも隠し事の十や二十あると思うけど、生き方に隠し事を抱えたままというのは、言葉の印象以上に人生を縛る。

些細な言葉遣いや、行動から四人で付き合っていることを読まれないか。私と菊花を分けて考えていないか。そういう私たちが大切にしたいと思っている部分を、全て偽っていると、自分がいま何をしているのかわからなくなる。

だから、本当のことを話した方がいい。でも、私がさっきまで思い詰めていたように、蓮と日美香にとっても、言い出し辛い。

薫子さんからしたら、日美香と私が同時に、同じ人と浮気を始めたという訳のわからない状況。どんな伝え方をしても角が立つんだから、蓮もこんな顔になる。

「メッセージで伝えたけど、菊花は明後日にも退院できるみたいだって、お医者様が」

「菊花? いまは菊花じゃなくて、あの子ですよ?」

なんていうか、本当に気絶しそうだった。日美香はこうだった。日美香は薫子さんに、私の個人的かつ、菊花との複雑な事情を伝えるのが負担で避けていたんだと思っていたけど、そんなわけなかった。さすがにこういうことはと思ったけど、いつも通り気が利かなかっただけ。

蓮は色々考えたり、薫子さんとの接点が全くなく、日美香と菊花からの会話くらいでしか存在を知らないから、純粋に抜け落ちていて、伝えようという発想が出てこなかったんだろうけど……

「あの子? ってなんですか?」

「なんて説明したらいいのかわからないんですけど……記憶を無くしている状態の心も、一人の人間として、尊重したいって、そう私たちで決めたんです」

「えっと……話について行けていないんだけど、菊花は記憶を取り戻したって、日美香さんが……」

「ちょっとややこしいんですけど、菊花があの子の人格を喰べちゃって、二週間くらい前にあの子の記憶を取り戻したって感じです」

あまりにも明らかに困惑しきっている薫子さんの表情すら、日美香は全く察せていないようで、私の身に起きた事実が二百キロの豪速球で投射されていく。

「お前っ、もう少し伝え方ってものがあるだろ!」

「えっ、私、またやっちゃった!?」

「……日美香、あの、さすがにちょっと、直球すぎると思います」

蓮は一般論で考えたら、結婚の約束をしている菊花と日美香を相手に、同時に二股をしている。そんな状態で、菊花の母親と初めて顔を合わせるという状況で、ずっと黙っていた。それでもさすがに、このまま日美香を爆走させていたらまずいから、引き止めざるを得なかった。

学習性がないとか、そういう次元じゃない。日美香には、気を効かせるという機能がそもそも備わっていない。魔法のスキルツリーがないキャラが、魔法を使えないのと同じ。蓮と私がどれだけ解説したところで、経験値が貯まるだけでレベルが上がることはない。だって、日美香の気遣いレベルは、これで最高レベルなんだから。

「…………それで、そこの方は? 菊花のお友達?」

「紹介してなかったですね。私の恋人の蓮です」

「こ……恋人?」

「はい。私たち、四人で付き合っているんです。珍しい関係だと思うので、どうやって生きていくかはまだまだこれから考えていくところですけど」

悪い予感がした頃には、もう全てが手遅れだった。婚約者の親の前で、あまりにも堂々とした不倫宣言。いや、私たちとしてはそういうのでは全くないんだけど、一般的にはそう解釈するのが普通。菊花と日美香は両親の紹介が済んでいるくらいなんだから余計に。

日美香のあまりにもあんまりな言動に、蓮が気まずさを通り越して、完全に呆れ返っている。さすがにここまで気が利かないとは、思っていなかったらしい。私もそう。

日美香がいてくれると話が早くて助かるけど、ものには限度というものがある。日美香は割と頻繁に、私の存在よりも唐突すぎる。

「よ、四人って、誰と誰が……」

「私と菊花と蓮と、あの子の四人です。菊花はあの子のことを菊花だと思ってるみたいで、まだちゃんと許可をもらえてないですけど、私は誰一人欠けてほしくないと思っているんです」

昨日死のうとしたのが、バカらしく思えてきた。これが許されるなら、記憶喪失中の人格くらい、どうってことない。こんな超局所的大災害を見せつけられたら、私なんかより、日美香の方が絶対に生き辛い。

「…………菊花が二人いるみたいな言い方もよくわからないし、四人? で付き合うなんて、結婚の約束をした人が言っていい言葉じゃないです。日美香さんがこんなことを軽々しくいう人だなんて、思ってませんでした」

「軽々しくなんて言ってないです! 私も、蓮も、あの子も、本気です! 菊花の気持ちは……よくわからないけど」

日美香が軽い気持ちで言っていないのは、私たちはわかっているし、私のためにこうしてくれているのもわかる。だけど、薫子さんの感情や考え方がおかしいと思えるほど、私は非常識じゃない。

百万歩くらい譲って、薫子さん四人で付き合うという生き方が本気だと理解してもらえても、その前途を思えば、肯定できないのが親心だと思う。

私にしたって、私は菊花じゃないんだから、薫子さんが私ではなく菊花の幸せを一番に考えていることは、別人だと認めてくれていることになるわけだから、歓迎しないといけない部分もあって……

「……わたしは帰ります。このことは、後日、改めてきちんと話をしましょう」

有無を言わせないとばかりに、薫子さんはそう言い切って、病室を出て行ってしまった。さすがに、これが良い状態でないことは、日美香も理解しているような表情を浮かべていた。

「…………どうするんだよこれ。私まで死にたくなってきたぞ」

「薫子さんに認めてもらえなくても、私は菊花も、蓮も、あなたも、全員大好きだから……四人で駆け落ちしよう!」

「お前な……」

「ここまで来たら、それもアリかもしれないですね」

「お前らな……」

蓮が比喩ではなく動作として、頭を抱えている。それでも、どこか嬉しそうなのは気のせいだろうか。自分から動き出すことが苦手な蓮だから、愛し合う四人で身を寄せ合いながらの逃亡生活、というどうしようもない生き方に憧れがあったりするのかもしれない。

「とりあえず、退院したら、私が薫子さんと話してみます。どこまでいっても、日美香は薫子さんにとっては他人ですし。一応、菊花の肉体の私から話すことで、少しはマシになるかもしれないですし」

「昨日死のうとしたばかりのやつに、そんなこと任せられるわけないだろ」

「日美香を見てたら、なんか、なんとかなる気がしてきたので、たぶん、ちょっとくらいは大丈夫です」

「……私、そんなにおかしなこと言ったかな?」

「いや、事実しか言ってなかったが、事実にも限度がだな」

「当たり前みたいに言われても、全然わかんないよ!」

「日美香は、わからないままがいいんです」

「よくないだろ! 全然、よくない!」

蓮はそう言いつつ、こういう日美香に救われているんだと思う。私と蓮は、同じところをぐるぐる回ってしまうから、今日も日美香のおかげで、方角はわからないけど、どこかには進めた。

日美香がいてくれるから、こんな世界でも窒息せずにいられる。だから、私のためというよりも、日美香のために、薫子さんとの関係を修復しないと。こうなったのも、私が行きたいって言ったせいみたいなところがあるし。責任はとらないと。