明日の午後一時に、薫子さんに会いに行くことになっている。いまが夜の十時だから、あと十二時間もしたら、顔を合わせている。そう考えただけで、心臓が裏返りそうになる。
どうしてこんなことになったんだろう。そんな疑問が頭に浮かぶけど……思い返してみたら、こうなるべくしてなったという納得感しかない。
いまからちょうど二週間前、菊花の母親である薫子さんに、ついに私と菊花の関係について。そして、日美香と蓮の関係について伝えて……大変なことになった。
蓮と日美香の倍以上生きている薫子さんは、目の前で感情的になるようなことはなかった。だけど、私に菊花であることを押し付けてくる以外に欠点がないように見えた薫子さんが、怒っていた。
それも仕方ないというか、当然のことだと思う。自分の娘である菊花が記憶を取り戻したと思っていたら、菊花の婚約者であるはずの日美香と、一度も会ったことのない蓮が結婚しようとしているんだから。そりゃ、怒る。その上、菊花だと信じていた私が、菊花ではないと周囲に受け入れられている始末。
それを言ったら、日美香の母親だって似たようなことを言ってもおかしくない。だけど、向こうの説得は日美香の電話一本で済んでしまった。
「法律で結婚できないけど、お母さんたちには、四人で結婚してるって、認めてほしいの」という日美香の言葉から始まり、電話口で数回のやりとりのあと「おっけーだって」と、電話を切るなり言ってきた時はさすがに驚いた。
直接話を聞きたいとか。四人で結婚するって相手は誰か、どうするつもりなんだとか。とにかく色々あると思うんだけど、日美香の両親はあまり気にしていないようだった。
蓮はというと、特にこのことで家族に連絡していない。私には記憶がないけど、社会常識は意味記憶として残っている。普通、大学生にもなって、恋人ができたことを家族に報告しない。
わざわざ隠すこともないだろうけど、家族と離れて一人暮らしをしている蓮が、電話をかけるほどのことじゃない。小学生以来の幼馴染とルームシェアをしていた娘が、幼馴染と彼女の婚約者、そしてその婚約者の記憶喪失中の人格と同時に、四人で付き合い始めたくらい、わざわざ言わなくても……言えないか、こんなこと。
蓮の性格的に、もうちょっと状況が落ち着いてから伝えたいと思って当然だ。当事者である私と日美香、そして菊花でさえ、蓮に関係をめちゃくちゃにされたなんて全く思っていない。だけど客観的に見たら、蓮はかなり危ない橋を渡っている。
日美香と菊花が納得しているとは言え、婚約している者同士の間に割って入って、二人と同時に関係を持っている。日美香の家族は問題なかったみたいだけど、薫子さんがその気になれば、蓮に対してできることはあると思う。
一番の当事者である日美香と菊花の二人が、四人で付き合うことを望んでいるんだから、慰謝料とかそういう話にはならないだろう。でも、婚約者の二人と付き合い始めたことが知られたら、人としての信用に傷が入る。
おかしな話だって心底思う。当事者が納得しているんだから、何も問題なんてない。そのはずなのに、外野があれこれ騒ぎ立てる。私のこともそうだった。私が記憶喪失中の、きっと歴史の中でたったの一度として顧みられたことのない存在だとしても、蓮と日美香がそれでいいと言ってくれたんだからそれでいい。そのはずなのに、私の存在はダメだって言ってくる。
それは間違ってる。そんな生き方はダメ。生きる資格がない。そういうことを言ってくるのは決まって、他人だ。菊花の友達や、お医者さん。そういう、私たちの関係を放っておける人に限って、あれこれ口を出してくる。最悪なことに、良かれと思って。
薫子さんは、そういう無関係な人たちとは立場が違うのはわかっている。だけど、私にとっては他人でしかない。血の繋がりはあっても、心の繋がりがない。蓮と日美香のように、生活を共にしているわけでもない。
薫子さんは、菊花と日美香にとっては家族なんだと思うけど、私にとっては違う。私が家族だと思えるのは蓮と日美香と、大嫌いではあるけど菊花の三人だけ。私のことを菊花としか見てくれない人と、血の繋がりだけで家族と思えるほど、単純になれない。
そうなれたら、よかったのに。記憶を失う前が菊花だったのだから、私も菊花なんだと信じることができたなら、生きることがこんなに辛くはなかったんだろう。単純でないのは菊花との共通点な気がするから、余計に単純でありたかった。
「平気か?」
リビングにあるベッドの上で、乗り物酔いしたみたいになっていると、蓮が声をかけてくれた。
「えっと……全然ダメです。悪い人でないことはわかっているんですが、どうにも苦手意識があって……」
自分のことが何もわからない状態で、家族の距離感で全く知らない人間が接してきたら、第一印象はほとんど最悪。日美香とは蓮のおかげで、歩み寄る時間があったけど、薫子さんとは何もないままここまできてしまった。
菊花が私を喰べるのがあと数日遅ければ、チャンスはあったかもしれない。でも、そうはならなかった。生き返ったと思ったら、いきなり菊花の人生の延長に放り出されて、それをこなすのに精一杯未満になって、他のことにかまけている余裕がなくなった。
いまは、あまりにも私の状態が悪いから、蓮と日美香のどちらかがいてくれる授業にしか出ていない。休んでいる授業の中には必修の物もあるけど、とりあえず考えないことにした。そのおかげで、とりあえず、薫子さんと会う予定を二人の手を借りながら組むところまでは進めた。
「イヤならやめてもいいんだぞ。私と日美香だけで行ってもいいし、延期したっていい。君にとっては不本意かもしれないが、薫子さんにとっては君は自分の子どもなんだから、そこまで無茶なことはしないだろうしな。君と日美香が私のことで納得しているのも伝えているしな」
「それは、そうかもしれないですけど……」
「自殺未遂をしてまだそんなに時間も経ってないんだ。またあんなことになったら……気付けなかった自分が情けなくなるしな」
あんなことをしたのに、蓮は私を責めない。一般論としてある、死のうとした人をこれ以上追い詰めるのはよくない、という理論でそうしているんじゃなくて。本心から自分を責めている。
蓮は悪いことなんて全くしていないのに。こういう人だから好きになったんだけど、蓮がこういう人じゃなかったらとも思う。私にとってはこういう蓮だから救われているんだけど、その分だけ蓮は生き辛いだろうし、苦しいと思う。
私の選択が蓮を苦しめたことは申し訳なく思うけど、あの決断が間違っていたとは思いたくない。死にたくなって、死のうとしたのが、私だから、そこは否定したくない。でも、蓮が楽に、幸せに生きられたらって願うのは、好きである証……だといいな。
「死にたいと思って、実際に死のうとした自分のことが好きなので、また同じことが起こったら死のうとすると思います。だけどそれは、蓮の責任ではないです。絶対に」
「……本当に、菊花とは別の方向で、お前はやなやつだな」
「菊花よりもなら、いいですね。ありがとうございます」
「褒め言葉なわけないだろ。本当に……まあ、いいか」
私のあまりにも歪曲した言葉の解釈に、蓮が笑っている。さっきは、本人たちが許し合っているならいいと思ったけど、いまは許し会えていたら本当にいいのかと疑問に思う。
蓮と日美香は私をあまりにも許しすぎてしまう。世界中がこんなに優しいはずないのに。二人が生きている世界だって、二人ほど優しくないはずなのに。私だけ甘えてしまう。
そんな自分を卒業しようと思ったから、薫子さんと話をしようと決めた。私が私として。四人が四人で生きていくためには、菊花と日美香の婚約関係をはっきりさせておく必要がある。
菊花のためではなく、日美香と蓮のために。でも、いっときの覚悟で人が買われたら苦労しない。人生経験の浅い私が思うに、変化とは”いまこの瞬間”ではなくて、”いまからずっと”なんだと思う。
今日だけ八時間勉強するんじゃなくて、これから毎日一分単語帳を眺める。マラソン大会に出るんじゃなくて、毎日駅でエスカレーターではなく階段を使う。それと同じで、私がやらないといけないことは、明日薫子さんと会うことじゃないんだと思う。
明日一日だけ頑張ったところで、きっと何も変わらない。私たち四人の関係が少しはっきりするというか、後ろめたさが減ることは間違いない。薫子さんに反対されるにせよ、認めてもらえるにせよ、ちゃんと話し合うことは必須。
だけど、それで解決するのは私の周辺であって、私自身じゃない。本当にどうしようもない状況と環境でも、幸福を感じながら生きている人がいる一方で。社会的地位とお金を持っていても、唇を噛み切りそうな勢いで苦しみながら生きている人だっている。
お説教のような言い方を自分でするのがイヤになるけど、私がいま辛いのは菊花がどうとか、世界がどうとかじゃなくて、私なんだとは思う。私自身が内側から私を蝕んで、苦しめている。
変わろうと思ったくらいで変われないのはわかっているけど、逃げたら二人に迷惑をかけてしまうことだけははっきりしている。本当に薫子さんとの関係を良好にしたいだけなら、菊花と代わればいい。
私から呼べるわけじゃないし、受けてくれるとは限らない。でも、それとは無関係に菊花の手を借りるつもりはない。
ここで菊花に頼ってしまったら、私は菊花の人生の延長で生きていくことを、自分で選ぶことになる。菊花の人生の外側に行くには、私が切り拓かないと。私の道は、私以外の誰にも敷けない。
誰かに投げ出すことはできても、そんなやり方では他でもない自分自身が納得できないことは、自分の感情の問題だからよくわかっている。
※※※
蓮が運転する車の助手席に座って、カーナビに入力された菊花の生家へと向かう。ほぼ朝一の新幹線に二時間揺られて、駅前でレンタカーを借りて、そこから二時間近く車を走らせている。だけど、菊花の家まではあと三十分以上かかると、画面には表示されている。
高速道路が整備されておらず、一般道を走っているから、走行距離と時間が比例しているとは言い難いけど、それにしても遠い。
「たぶん自分のことなんですけど……なんていうか、意外です。菊花がこういう場所で育ったというのは」
辺りに広がっているのは古き良き……かを語れるほど昔も現在も知らない。とにかく、田園風景と民家があるだけ。一直線に続く公道の両脇の奥に見える山々と、それを覆い隠す緑。そして、辺りに点在する木造住宅と、新築なのかリフォームされただけなのか一目ではわからない一軒家がまばらに立ち並んでいる。
私たちが住んでいる場所と違って、風景自体はとても開放的。だけど、人の心と風景はたいてい反比例する。どういうわけか、人はこういう開けた土地に住むと、お互いを縛りつけ合う。
きっと不安になるんだと思う。都会のような常に人目がある場所なら、おかしな人が危険なことをしたら、すぐに誰かが気付く。気付いてもらえなかったとしても、助けをすぐに呼べるし、大声で叫ぶだけで誰かが気付いてくれる。
だけど、ここではそれは期待できない。もしも、いま視界の中にある家屋で殺人事件が起こったとしても、明日まで誰も気付かないかもしれない。もしかしたら、明日になっても、来週になっても。
そういう不安が、お互いを縛ることに繋がるんだろう。安全をお互いに補償し、補完し合うことが物理的に不可能だから、監視社会にならざるを得ない。異常が生じる前に、遺物は排除する。それが、人口がまばらな空間での安全保障。
こうした環境で菊花はどう育ったんだろうか。薫子さんとも一人の母親は、どんな風に菊花を育てたんだろうか。
「日美香から話は聞いてたがここまでとはな。私と日美香が育ったところくらいだと思ってたよ」
「何もないよって言われて菊花に連れて来られた時は、本当に何もなくてびっくりしちゃった」
「退屈しなかったんですか?」
「菊花と一緒だったからね。楽しかったよ」
「しかし……あんまり会話が弾みそうにない組み合わせだな」
「菊花は自分からはあんまり話さないから、そうかもね」
車窓を流れていく何もない風景を眺めながら、日美香と菊花の会話を想像してみるけど……田園風景よりも中身がなさそう、だなんてことを考えてしまう。
「いまだから聞くんだが、日美香はあいつのどこをそんなに好きになったんだ?」
「どこが好きっていうエピソードはないかな。一緒にいて私は楽しかったし、菊花も苦しそうじゃなかったから。蓮から気持ちを離したかったのもあって、自然とって感じかな」
「自然と、ね。まあ、あいつはそういうやつだよな」
蓮は菊花にそういう魔力がある、とでも言いたげな口調だった。その印象がわからないわけじゃない。私は菊花とは肉体を共有しているだけで、ずっと他人だったから、彼女への印象は、私の存在を脅かす者でしかなかった。
でも、一度会話をしたら、引き込まれるものがあった。単に主人格のようなものだから、”私”に対する権力が大きいだけ……という感触ではなかった。
もちろん、そういう存在強度の高さもあるにはあるけど、もっと根源的な魅惑……なんていうか、私がいてあげないとこの人はダメになりそうっていう、可哀想さを醸し出すのが、ものすごくうまかった。
「菊花って、入り込むのがうまいですよね。たった一度話しただけですが、私も取り込まれそうになりましたし」
「本当にな。どうやって身につけたんだろうな、あんな傍迷惑な能力」
「私たちと一緒じゃないかな?」
日美香の率直な推測。なんとなくだけど、的を得ているような気がした。生まれ持った性質なんだと思う。その一方で、環境で先鋭化した部分も少しあるような気がする。
私だって、薫子さんや日美香、それに主治医が、脳や身体機能だけでなく、記憶喪失中の人格について考えてくれていたら、もう少しまっすぐになれたかもしれない。
「四人で観光できるかもって思ってたんだけどな」
「お前は観光する場所がないことくらいわかってただろ!?」
「いや、四人ならどこでも観光地になるかなって……ダメ、だった?」
後部座席に座っている日美香が、気まずいのか、照れているのか、よくわからない表情を浮かべているのが、ミラー越しにわかる。
四人ならどこでも。そう言われて、嬉しくないわけがない。つまらない場所は、きっとそこがつまらないんじゃなくて、好きな人がそばにいないだけ。
蓮と日美香と手を繋ぎながらなら、街灯さえない一本道でも、きっと楽しい。楽しくなかったとしても、幸せは残っている。
「日美香はこんなときでも楽しそうで……なんていうか、救われるよ」
「そうですね。日美香がこうじゃなくなったら、この世の終わりって感じです」
「そんな風に言ってくれるのは二人と菊花くらいだよ。他の人には、空気読めてないって怒られてばっかりだったから」
「いや、空気は読めてないぞ」
「それは……そうですね」
「わざわざ教えてくれなくてもいいじゃん!? 言われなきゃ知らずにいられたのにー!」
不満をシートベルトを揺らすほど過剰にアピールしている日美香を微笑ましく眺めていると、カーナビが目的地の近くであることを知らせるアナウンスとともに、案内を終了した。
「念のためにもう一回聞いておくが、車の中に残ってるか? 先に私たちが話をつけてきてもいいんだぞ?」
「いえ、二人と行きます。薫子さんと向き合わなかったのは……私ですから」
話す機会は何度もあった。日美香と薫子さんは、毎日のように私の看病に来てくれていたんだから。でも、私は心の中に閉じこもって、蓮に依存した。
あの時の私がもう少し、自分の気持ちを話していたら、もう少し違ういまがあったかもしれない。
「そりゃ、私以外に心を開いてくれたら少しは苦労が少なかったとは思うけど、言っても仕方ないだろ、そんなこと。見知らぬ他人に本心を打ち明けるたら、それはそれでおかしいしな」
「それはそうですけど……ずっと私を支えてくれていたのに、他人のままはムリがあった気がして……」
「そうは言っても、私と薫子さんは菊花のリハビリを手伝ったり、看病をしてただけで、あなたのことは全然考えてなかったからね。全然他人だったと思うよ」
日美香は今日も素直というか……いくら過去のこととはいえ、自分自身と婚約者の母親に対して、ものすごいことを言っている。
日美香にしてみれば事実をありのままに言っているだけで、そこに善意も悪意も含まれていない。ある意味、完全に客観で語っているから、普通の人が聞いたら、もうちょっと言い方を考えられないのか、となるんだろう。
そういう一般的な感性が理解できないわけじゃないけど、日美香はこういう人なんだから、それでいいと思うんだけど。私は記憶を取り戻したくなくて、日美香は言葉を選べなくて、蓮は自分では決断ができなくて。それでいいと思うんだけど、どうやらそれでは世界は許してくれないらしい。
菊花の実家にある屋外の駐車場にレンタカーを停めて、玄関へと向かう。菊花が生まれ育った家は、建て替えられているのか真新しくて、周囲を田んぼに囲まれているから、神社の中に西洋の彫刻が鎮座しているような違和感があった。
「合鍵貰ってるよ?」
玄関で蓮がチャイムを鳴らそうとすると、日美香が静止した。
「挨拶をしに来たんだから、鳴らすべきだろ、さすがに」
「私と薫子さんとの仲だよ? 大丈夫だって」
「それが危機に瀕してるんだよ……」
危機に瀕している。そう聞くと、また内臓にかかる重力が強くなる。いつから地球の質量は、十倍になったんだろう。
「私も菊花じゃないので、ここは他人の家ですから、ちゃんと鳴らさないと不法侵入になっちゃいます」
「そうなったらよかったのにな。この中で一番そうなるリスクが少ないのは、間違いなく君だよ」
「それが、この世界への最も大きな不満です!」
「それじゃ、今日はこの家で不本侵入扱いしてもらえるように頑張ろうね!」
「私と日美香がしていることを考えたら、冗談じゃ済まないからやめてくれ……」
日美香は平然としているけど、私と蓮は気が気じゃない。薫子さんがどういう人かを知っているのは、この場では日美香だけ。その肝心要の日美香の観察眼がなんとも頼りないため、事実上何もわかっていないに等しい。
それでも、いまさら帰るわけにはいかないし、意を決して、蓮と人差し指を重ねて、同時にチャイムを押した。
その直後、家の中から電子音が聞こえてきた。いよいよとなって、さっきの何倍も逃げ出したくなる。いまここで菊花への愛を高らかに宣言すれば、彼女が全て丸く収めてくれるだろうか。でも、そんなことをしたら何が何だかわからないから、菊花に頼るわけにはいかない。
今日は私にとって大切な一日。私の人生が菊花から自立するための。そうなれるように、願っている。
「ようこそ。入って」
玄関から姿を見せた薫子さんが、私たちを招き入れている。その表情は、以前病室で会った時とそれほど変化していない。
時間が経ったことを考慮したら、悪化しているとさえ言えるかもしれない。
※※※
菊花の家は、静まり返っていた。電車はおろか、車さえ近くを滅多に通らないから、音という概念が消滅してしまったように静かだった。
常に何かの音が聞こえる町での暮らししか知らないから、初めて体感する真の無音に、右側に蓮がいて、左には日美香がいる。そのことをつい忘れてしまいそうになる。
私たちの前を歩く薫子さんに、家の一階の奥にある和室へと案内される。部屋の中央には机と座布団が人数分置かれていて、その片側に私たち三人が並んで座って、向かい側に薫子さんが座る。
なんていうか、まさに挨拶をする雰囲気だから、指先が震えてくる。それをわかってくれたのか、蓮が私の右手に左手を重ねてくる。蓮の目立たない優しさが好き。
ちゃんと伝わっていると伝えたくて、肩に頭を寄せたくなるけど、さすがに状況が状況だからやめておく。いまさら常識人を装うつもりはないけど、二人への印象を巻き込むようなことはなるべくしたくない。
「あの、今日は二人じゃないんですか?」
「あの人はこう言うことに関心ないから」
日美香が両親が揃っていないことに疑問を示す。それに対する返答は、予想通りだった。実際に足を運んでみてわかったことだけど、ここから私と菊花が入院していた病院まで足を運ぶのは、とても大変だ。
菊花がどこで生まれ育ったのかを、聞ける雰囲気じゃなかったから、薫子さんはちょっと遠い場所から来ていると思っていたけど、そうじゃなかった。この距離は確かに、関心がなかったらわざわざ来れないと思う。
それだけに、菊花は薫子さんに愛されていたんだろう。それが菊花の望む形であったかはわからないけど。薫子さんが我が子へ向ける情熱の強さは、菊花に会いにいくことの付加を今日体験したから、そこに疑いの余地はない。
でも、情熱的だったらいいというわけじゃない。他者から自分へ向けられる感情が、自分の望まぬものだったら、それは単純に迷惑でしかない。ときにそれは、人を死に追いやりさえする。
実際、菊花の両親には怪しさを感じる。我が子が記憶喪失になったというのに、姿を見せないどころか、存在感がない母親。そして、片道四時間の苦を顔に出さない献身的な母親。知識はあっても、経験のない私が言えたことではないけど、これだけ揃っていて危険を感じるな、という方がムリがある。
「それで……これはどういうことか、説明してもらえるかしら?」
薫子さんは怒っている、苛立っていることを隠そうとすらしていない。自分の娘の将来を考えて、ということならこの態度も理解できる。
記憶喪失中の人格の私が、菊花ではないと自己主張しているだけでも、相当印象が悪いはず。そのうえ、婚約者である日美香が、蓮というよくわからない女性を連れてきて、四人で付き合っていて、ゆくゆくは四人で結婚すると言っている。
そういう目で見られることは耐え難いけど、私たちがしようとしていることが反社会的な行いであることは自覚している。
「電話でお話しした通りです。記憶喪失中のこの子が、記憶を取り戻したら自分が死んで菊花になるのが怖いって想いを尊重してあげたいって、私たちで決めたんです」
「やっぱり理解できないんだけど、菊花は菊花でしょう? そこを意味不明だけど譲歩したとしても、そのことを蓮さん、っていう方と決めたってどういうこと? 日美香さん、あなたは菊花の婚約者よね? だとしたら、そこにいる菊花を菊花じゃないと思うなら、菊花の意思を尊重すべきじゃない?」
理解できない人には、きっと一生理解できない感覚なんだと思う。理解してもらえたとして、受け入れられるかという問題もある。
薫子さんは、おそらくどちらもしてもらえない。大学の菊花の友達と同じ。私は菊花であって、菊花未満。だから、いなくなって当然。存在していない方が自然。
後半の日美香は菊花を優先すべきという言葉は、正直正論だとは思う。婚約っていうのは生き方への誓い。大切な人はこの人だと定めて、その人を愛する生き方を選んだという宣誓。
にも関わらず日美香は、自分で立てた誓い破り、菊花に、私と蓮を加えて愛すると約束を違えた。その不誠実さを非難されること自体を否定することは、さすがにできない。
三人で付き合うという発想自体は菊花から始まっているから、日美香が責められているのは筋違いだと思う。それに、当事者である菊花と日美香が、私の存在を含めてこれで良いと言っているんだから、それで話は終わりにしても良いと正直思う。
そうした背景も説明してはいるんだけど、薫子さんとしては娘である菊花よりも、日美香にこそ問題があるとしたい心理が働いているようで、こうなっている。
「菊花も、四人で付き合うこと自体は納得しているみたいだから、認めてもらえませんか?」
「さっきから四人、四人って……気色悪くて頭が痛くなってくる……第一、娘が三人で付き合ってるなんて知れたら、周りにどう見られるか……」
なんとなく察していた反応だった。菊花は病的なほどに他者からの視線に囚われていた。それ自体は私も同じではあるけど、菊花の方がもっと病的。自分で自分を愛せないから、自分の内側にもう一人を作るなんて、どう考えても普通じゃない。
薫子さんのこの反応ひとつをあげつらって、菊花の病理だと言うつもりはないけど……なんとなく、こういうことが積み重なったんだろうなって思う。
薫子さんだって、元からこんな風に人からどう思われるかを意識していたとは限らない。単なる偏見かも知れないけど、噂が広がりやすい田舎で、私と脳を共有しているあの菊花が育ったら……より強く、ああなる気がした。
「あの……私が言えたことではありませんが、そのような言い方をしなくても……」
「本当に、菊花と日美香の間に割って入った人が、言えたことではないですね」
こうなりそうだとは思っていたけど……予想していたよりも、ずっと悪い。これじゃ、私のことを諦めたとしても、蓮と日美香と菊花の三人で付き合うことさえ難しい。
私の人生はここまで、身近にいる人は全員理解して、受け入れてくれた。だけど、幸運もここで尽きた。だからといって、薫子さんの感情一つで自分の人生を諦められるほど、私は聞き分けがよくない。
「二人とも、帰ろう。菊花のお母さんに認めてもらえなくても、四人で一緒にいられるよ」
「ちょっと、まだ話は終わって……」
二人の手を引っ張り持ち上げるようにして、立ち上がらせる。
蓮と日美香は、薫子さんにとって他人だから、この二人ではどうにもならない。だからこれは、菊花ではなくて、菊花と見做されている私にしかできないこと。
「おい! さすがにこの状態で切り上げるのは……」
「私は薫子さんにとって”菊花”だから、最悪私が責任取るから」
「……あなたに菊花を背負わせたくないよ。でも、そうしたいなら、私は付き合うよ」
日美香とは思えない、あまりにも状況を読んだ発言。でも、日美香は肝心な時だけは的確なことを言ってくれるし、自分を偽ったりもしない。
だから、日美香と一緒ならなんとかなるって、自信が持てる。これで良いんだって、そう思える。
「二人さえ良ければ、行きましょう。これ以上ここにいても、しょうがないです」
後先考えていないだけなのかもしれない。でも、私の選んだ人生。誰かに言われて、自分を諦めることは、やっぱりできない。
ひとつの肉体を、二人で分け合って。四人で生きていく。世界は広いと言えど、さすがに前例がないと思う。あったとして、隠れて生きていくしかないだろうから、前例はきっと探せない。
菊花は意識を無理矢理乗っ取ってこないあたり、私の選択に賛成……というか、これこそを望んでいたのかな。
「いや、いくらなんでもこれはさすがに酷すぎないか!?」
静止している蓮の腕を引っ張って、菊花の実家を出る。いまになって、鼓動が早くなってくるけど……後悔したって仕方ない。そんなことをしても、時間を巻き戻して選択をやり直せるわけじゃない。
なら、これだと信じて前に進もう。私が私として生きていくために。