《白紙の私に無題の道を 第29話 新世界トリップ》作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

菊花の実家へのプチ旅行を終えた私たちは、日常へと帰っていた。私たちに起きた一大事なんてまるでなかったように、世界は流れている。

電車の中にいる人。大学の校舎を流れていく人並み。私が気付いていないだけで、もしかしたらこの人たちにも、隠れた一大事があるのかもしれないけど。

「……一旦保留にしてたけど、これからどうするつもりだ? 生活費に学費のこととか。薫子さんにあんな振る舞いをしておいて、お金のことで頼ろうとするようなら、私は認められないぞ」

一時限目が始まるのを、二十人も入ったらいっぱいいっぱいになるほど小さな教室の中で、三人で並んで待っていると、蓮が釘を刺してくる。

それに関しては、その通りだと思う。私の存在、私たちの生き方を認めてくれないのなら、これで関係は終わりだとそう宣言しておいて、いざ困ったら頼ろうなんて、都合が良すぎる。

そういうことをするつもりは最初からなかったけど、改めてそうしないとなって思う。

「奨学金借りるか、中退するか。それはまだわからないですけど、薫子さんに頼らない生き方を探します」

「中退してどうすんだ? 私は学生だから、お前を養う余裕はないぞ」

「就職するか、バイトするか。そこは臨機応変に」

「できねーだろ、それ」

「……信用なさすぎません?」

「その点に関しては、あるはずなくないか?」

自分の過去を振り返ってみて、いま自分が言ったことを、自分でも信用できなくなってきた。そもそも、自分自身を信用するという行為そのものに、違和感がある。

信じるという行為には、過去が必要だ。人を信用するということは、その人の過去の振る舞いを参照している。面白かったり、気が合えば、好きな人として信用して。その逆だったら、苦手な人だという信頼の仕方をする。

それは物理現象でさえも同じ。手から離した物体は全て地面に向かって落ちたから、重力を信じているだけ。もしもいまから、十分の一の確率で、手から離した物体が空へ向かって一直線に登り始めたら、誰も重力を信じなくなるだろう。

私には、過去がない。自分自身を信用するに足る過去が。大学の授業についていけているから、頭は多分悪くない。行動力は……主に悪い意味ではあるけど、あるとは思う。

だけどというか、だからというか、とにかく自分で自分のことをあんまり信用できない。自分自身の言動が、地続きでないような気がしてしまう。それが事実なのか錯覚なのかすら、よくわからない。

成長という過程が抜け落ちたまま、成果だけがあるというのは、一見恵まれているようで、寄る方なさでしかない。

「やりたいことがあるならやってみればいいんじゃない? できれば、私たちが不安にならない範囲で」

「そういう前提なら、まあ、許せなくもないか」

授業を一人で受けただけで自殺をした私に対して、こんなに優しくしてもらえることに、申し訳なくなってくる。あんなことをやらかしたら、見捨てるか、目を離さないようにしないとって思われても仕方ない。

そんなことを言い出したら、私と菊花は”あんなこと”しかやらかしていない気がする。

「いっそ、誰も、菊花とあなたを知らない場所に行ってみるのはどうかな? 言わなければ、記憶喪失だなんてわからないし」

日美香の提案。以前の私だったら、根っから否定していたと思う。自分一人で生きていける気がしないし、蓮と日美香から片時でさえ離れるのが耐えられなかったから。

でも、薫子さんというか、菊花の家族に依存している人生をやめようと決めたから。挑戦しないとなって、いまは思えている。

「それじゃ、とりあえず、アルバイトでも始めてみます。生活費にもなりますし」」

「大学辞めて就職するよりは現実的だな。不安はあるが……まあ、いいんじゃないか」

晴れて二人の許可が出たから、授業が始まるまでの間、スマホを使って良さそうな仕事がないかを探す。

アルバイトを始めたくらいで人生が変わるとは思えないし、生活費と学費を自力でなんとかできるほど働くのは、現実的じゃない。それでも、このまま家と学校を往復する生活よりはいいと思う。

「どういうジャンルで探すの? やっぱり、人とあんまり接する機会のない工場とか?」

「工場ですか。いつ記憶……というか、菊花に戻って、意識を失うかわからない状態でそういう仕事をするのは怖いですね」

「それもそっか。それじゃ内職……じゃ、新しい環境にいけないから、意味ないよね」

「せっかく菊花を知らない場所に行くなら、いっそ接客業とかにしてみたらどうだ」

蓮の提案は、私の性格を素直に見ている日美香からや、私自身からは出ない発想だった。特別な考え方をしないと辿り着かない答えというわけではないけど、無意識に私と日美香は前提から外していた。

でも、言われてみたらそっちの方が良い気がする。思い返してみると、私が死にたくなったり、世界に失望したのは、私の存在を否定された時。だけど、そういうことさえなければ、あの菊花とさえも、そんなに苛立たずに会話できた。

私が気付いていないだけで、意外と人と一定の距離を保ちながら接する仕事は、そこまで苦手じゃないかもしれない。

「それに、人の視線に常に晒されてたら、お前も変なことしないだろうし、様子を見に行けるしな」

「もしかして、そっちがメインですか?」

「かもな。とにかく、私か日美香のどっちかが、初日の様子を見ていられる場所が条件だ」

蓮が心配してくれているのもわかるし、それだけのことをしてきた。それに、いきなり一人は心配だから、初日だけでも二人がいてくれたらものすごく安心。

最初さえ問題なく乗り切ることができたら、二回目以降はどうとでもできると思うし。

「それじゃ、そういう条件で探してみます」

それはそうと、私がバイトを始めたら、菊花が邪魔をしてこないか、少し心配。私がバイトを始めたら、菊花に入れ替わったからって、休まれたら困る。

人に迷惑をかけたくないというのもあるし、せっかく菊花とは無関係の人間関係を築いたのに、そこに菊花が侵食して来られたら、たまらない。

そこは空気を読んでほしい。菊花は菊花なりに、いまこうして、一ヶ月近く私に肉体を明け渡しているから、妥協している部分はあるのかもしれない。

それはそれとして、私だってこうして、菊花が選んだ大学、学部に大人しく通っているんだから。

※※※

家に帰った私は、帰りにコンビニで買った履歴書に私……というか菊花の経歴を記入して……いなかった。正確には、途中まで書き込んで、手が止まってしまった。

「なんかこれ、イヤですね」

我儘であるという自覚はあるけど、履歴書の記入欄に言いたいことがたくさんあった。

「……まあ、そう言うだろうなと思ってたよ」

「自分から言い出したから、割り切ったんだなって思ってたんだけど……」

蓮と日美香で反応はそれぞれ違うけど、若干呆れているという点では同じだった。

自分でも、しょうもないことにこだわっているなとは思う。私のことを見守ってくれている二人にしても、さすがにこれくらいは受け入れて、って感じだと思う。

でも、ここで妥協できるなら、最初から菊花として生きられた。単に記憶がないだけの菊花として、リハビリにまっすぐ励んで、記憶を取り戻すことに積極的。そんな私を想像してみるけど、それは菊花よりも私じゃない。

「だって、知識としては存在していましたけど、こうして向かい合うまでは、ここまでだとは思わなかったんですよ!」

経験から学ぶ者は愚者とはよく言われてるけど、私に言わせてみたら、知識だけで経験したように語るのは、嘘つきか、思い上がっているだけ。経験のみを喪失して、知識だけが残っている記憶喪失者だからこそ、心底そう思う。経験が伴わなければ、真に理解することはできない。

履歴書を書くことでさえそうなんだから。願書の書き方とか、役所の手続きとか。そういう知識自体はちゃんと残っているけど、自分ごとになっていないから、こうして実際にやってみるまで、わからなかった。

「名前のところに朝霧菊花って書くのもイヤですし、経歴のところに何を書けばいいのかもわかりません!」

「私も、さすがに菊花が通ってた地元の学校の名前までは聞いてないし……」

「いや、そういう意味じゃなくて……」

「とりあえず、知ってるところだけ書くしかないんじゃないか。それこそ、どこの大学に所属してるかしか向こうだって興味ないだろうしな。まあ、面接で答えられる程度には調べておいた方が無難だとは思うが」

「私じゃない人の経歴を、自分のように語りたくないんです。そうでないと、私は新しい場所でも、菊花のままです……」

結局、こういうところで菊花に躓く。一つの肉体に、二人の心を宿すという無茶。主人格という特権がある菊花は気にしていないみたいだったけど、私はこれだけのことで存在を毀損される。

名前を問われて菊花を書き、経歴を聞かれたら菊花の歩みを記さなければならない。履歴書に限らず、公的な書類の中に、私の存在を示す余白はどこにもない。

「切実さは理解しているつもりだけど……こればっかりは、私たちにはどうしようもないし……」

「……それはわかっています……それでも、なんとか本名を明かさずに働かずに済む場所があればいいんですけど」

「そういう場所で働くなら、全力で止めることになるが?」

「それは……そうですよね」

自分で言っておいてなんだけど、いくら菊花扱いされたくないとしても、さすがにそれはどうかと思う。

そういうところで働けば、私の望み通り菊花扱いはされないだろうけど、人間どころか、生物扱いもしてもらえない。そう、菊花から引き継いでいる一般常識が警鐘を鳴らしている。

「そういうことならさ、こういうのはどうかな? 履歴書はどうにもならないけど、本名で働く必要はなさそうだよ」

そう言って、日美香がスマホの求人広告を見せてくる。そこに表示されていたのは、メイド喫茶にコンセプトカフェの求人。

確かにこういう場所なら、本名で働かずに済むし、人との繋がりもある。それに、働いている間はメイドとか、人に生まれ変わった猫とか、明らかに菊花でない振る舞いを許容してもらえる。

かなり合っている気がする。これにしようかな、と伝えようと思って蓮の方を見ると、頬の筋肉が膠着していた。

「……日美香は、自分の婚約者が、こういうお店で働くのは許せるのか?」

「どうして? だって、そういうお仕事でしょ?」

日美香はいつも通りで、蓮もいつも通り。でも、日美香の言う通り、働いている側も、お客さん側も、そういうところは割り切っていると思う。

ゲームの中で世界を救う英雄を演じているからといって、まさか自分が世界を救えると勘違いしないのと同じ。

それはそれとして、蓮が心配する気持ちもわかる。なにせ、私たちは四人で付き合うという選択をしている。そのきっかけになっているのは、私と菊花。

その私が、お客さんと親密な関係を演じる仕事をするとなったら、気が気じゃないだろう。私は自分のことだから、恋人と家族をこれ以上増やさないとわかるけど、私ではない蓮は、そりゃ気が気じゃないよね。

「私はそんなに移り気じゃないですよ?」

「そういう問題じゃ……」

蓮が浮かべている表情は、まるでどこにも自分が納得いく答えが存在していないと主張しているみたいだった。

私にとっては蓮と日美香でもなく、菊花が選んだ大学でもない、私が選んだ別の世界が必要であることを蓮はわかってくれている。

でも、どこでもいいわけじゃなくて、菊花であることを意識しないでいられる場所じゃないとダメ。

「そんなこと言い出したら、私が普通に働くだけでも、五人目を作る可能性はありますよ?」

「……私は、そう思っているが?」

蓮にしては珍しく、わかりやすい感情をまっすぐ向けてくる。菊花に人生を支配されるのはイヤだけど、蓮に束縛されるのは、ちょっと好き。

絶対にいますぐ働かないといけない理由もないし、こういう職種である必要もない。選びなそうかな、と思っていたら、

「とりあえず、私たちのことは気にせずに、あなたのしてみたいようにしてみたら? 私は四人も五人も一緒だと思うし」

と、日美香に言われた。

「お前な……私は、この子と日美香と菊花だから、四人でいたいと思っただけで、たくさん愛して、たくさん愛されたいわけじゃない」

「それは私だってそうだけど、結婚したり付き合うのは二人同士じゃないとダメだって常識に縛られたくないから、四人で付き合うことにしたんじゃないの? 四人を保つためにこの子を縛るのは、私たちの始まりを見失ってる気がする」

蓮と日美香で意見が対立している。それ自体は当たり前のこと。同じ肉体、脳を共有している菊花とすら意見が合わないんだから、他者と全ての意見が合うなんてありえなし、あり得た方が気持ち悪い。

だけど、私が原因でこうなっているのは、見ていられない。

「えっと……私の思いつきでトラブルを増やすのは、本意じゃないっていうか……」

「……君は菊花のこと、結局どう思ってるんだ?」

「えっと……別に全然好きじゃないですよ。でも、蓮にとっても、日美香にとっても大切な人だから、家族だと感じられたらとは思っていますし、最近は少しそう思えてきてるかも、です」

蓮の質問の意図がわかるようなわからないような。それでも、私の偽らざる素直な気持ちを答える。大切な蓮に、駆け引きなんてしたくないし。

そんな私の答えを聞いた蓮は、何かに納得したような表情を浮かべた。

「……なら、君が私が全然好きじゃない五人目を連れてきて、文句を言うのはフェアじゃないよな」

「なんで五人目を連れてくる前提なんですか!? ないですよ、そんなこと。多分、ですけど」

「それを言い出したら、私か、蓮が五人目、六人目を連れてくる方が先かもしれないしね」

「頼むから、一つ屋根の下に収まる人数にだけは収めてくれよ……」

「それじゃ、誰かがものすごいお金持ちにならないといけないね」

「……そっちで解決するんですね。絶対、そういう意味じゃないと思うんですけど」

「いや、もう、そういう意味でいい。そうなったら、私は百人くらいに惚れて、惚れてもらって、連れてくるから」

半笑いで、蓮が開き直ってくれている。いくらなんでも百人は冗談だとしても、盛り過ぎ……いや、でも、蓮ならその気になれば百人くらいに好かれそうではある。

少なくとも私は、たとえ百人目だとしても、蓮を好きになっていたから。

※※※

自分ではよくわからないけど、そこそこ名前が通った大学だったからか、一発で面接が通って、バイトをしようと決めた二週間も経たない間に、初仕事の日を迎えていた。

「最初は緊張するよね」

厨房の裏で客席を観察していると、胸に瑠衣(るい)と書かれた猫肩の名札をつけているお店の先輩が声をかけてくれた。

「はい……働くこと自体がこのお店が初めてなので、とても緊張します……」

「そうなの? それで、よくこういう仕事を選んだね」

「新しいことに挑戦したくて。それに、自分じゃない名前がもらえるのも、いいなって思って」

「わかるわかる。自分じゃない自分になれるっていいよね」

瑠衣さんは、このお店で働き始めて三年になるみたいで、振る舞いだけでなく、声や表情に余裕がある。仕事の研修で二、三時間接したくらいだけど、蓮と日美香とはまた違った頼もしさがある。

「ここで固まってても仕方ないし、注文とってこよっか!」

「うぇ、ちょっと!」

物理的に背中を押されて、厨房から客席に弾き出される。

私が職場として選んだのは、いわゆるメイド喫茶。人間に化けた猫が接客しているという、なかなかキテいる設定の。

その設定通り、店員はみんな尻尾の生えたメイド服に猫耳のカチューシャ……ではなく、猫耳を生やしている。思考の中で設定と考えていると、粗が出てしまうと、瑠衣さんに教わったから、気をつける。

とりあえず、注文が必要な人がいないか、店内を歩きながら、改めてお店の内装を確認する。

飲食店だから、20以上ある席はどこも食事ができるようになっている。だけど、普通の飲食店では目にすることのない、マイクスタンドが置かれた舞台が、店内の中央に設けられている。

さすがに新人の私があの場に立つことはないというか、許されない。でも、人気を得ればあそこに立つことも夢ではない。

テレビに出るほどではないけど、このお店の中では最も注目を得られる場所。世界中からではないけど、手の届く範囲にいる人たちから存在することを認めてもらえる場所。

瑠衣さん以外のメイドさんたちとはまだほとんど話したことがないけど、私がステージに憧れる理由は、ちょっと邪かもしれない。

なんてことを思いながら、教えられた通りに店内を歩いていると、ステージの反対側というこのお店の中で、一番目立たない席に向かい合って座っている蓮と日美香と目が合った。

コスプレをしている私の姿は、普段のキャラと違うから、二人に見られるのは恥ずかしいから来ないでと言ったんだけど……見なかったことにしよう。

そう思うんだけど、二人の視線があまりにも保護者すぎて、無視できないし、忘れ難い。日美香が手を振ってこないだけ、空気を読んでくれている。

「注文いいですか?」

蓮と日美香に見守られていることで、余計な力が心に入ってしまう。だから、二人のことはいまばかりは忘れて、注文を取りに行く。

「初めて見る顔だけど、新人さん?」

「は、はい! 今日からです!」

接客業の中でも、お客さんとの距離が近いから、いきなり軽い雑談が始まってしまう。こういう機会がほしかったから、ここを選んだんだけど……思えば、蓮と日美香以外の人と話したことがないし、良い意味での事務的な会話を数えるほどしかしたことがないから、どうするのが正解なのかわからない。

「翠鹿(すいか)ちゃんね」

胸についた名札を見て、お客さんの女性が何気なく、私の名前を呼ぶ。名前の候補がある中で、適当に選んだもの。外の世界では通用しないけど、菊花ではない私を識別する称号。

あまりにも適当に。感動もなく決めたけど、それが逆に特別感がなくて、お気に入りだった。