仕事をするというのは、想像していたよりも、ずっと悪くなかった。働いている時間が週に三日と少ないから、生活を成り立たせるほどお金を稼いでいるわけじゃない。
それでも、働き始める前よりは、ちょっとだけ、まともな人間になれたと錯覚できた。
あと単純に、菊花のことを誰も知らない環境で、一から始めることができたことに、最も価値があった。
「お疲れ様ー、翠鹿ちゃん。ちょっと慣れてきた?」
「……えっ、あっはい、少しずつ、ですけど……」
お店の営業時間が終わって、更衣室のロッカーの前でメイド服から私服に着替えていると、瑠衣さんが声をかけてくれる。
それに私は、数呼吸遅れて、焦って返事をする。いまだに名前で呼ばれ慣れていなくて、働き始めて二週間以上経っているのに、咄嗟に反応できない。
とにかく名前という概念が、あまりにも自分ごとではなさすぎる。一つの肉体に二つの心。だけど、名前は一つ。ずっとそれが当たり前だった。疑問や不便も当然あったけど、だからって、とってつけたような名前をつけるのも、違和感があった。
名前ほど重い贈り物はない。親と仲が良い人も、悪い人も、世界中の誰一人として例外なく、親に名前をつけてもらっている。自分の名前は、自分でつけるものじゃない。
だとして、私がそれをしてもらうのに相応しい相手が誰なのか。誰につけてもらうのが最も納得できるのか、いまでもわからない。
順当に考えると、私を産んだのは菊花だから、菊花につけてもらうのが一番妥当な気がした。だけど、菊花は私を”菊花”だと思っているから、他者と区別をつけようとする名付けという行為をしてくれるとは思えないし、つけてと頼むのも気に入らない。
そもそも、菊花は家族ではあるけど、親ではない。薫子さんは菊花の親ではあるけど、私の親ではないし、蓮と日美香を愛してはいるけど、やはり親ではない。
結婚相手の苗字をもらう人はいても、名前をつけてもらう人はいない。だとしても、名前をつけてもらうなら蓮と日美香が一番。でも、それにも問題があって、名前は一つしかつけることができない。もしも、蓮の案と日美香の案が衝突したら、どちらかの名前しかもらうことができない。そうなると、二人の間に、私の名付け親という形で、大きな優劣をつけることになるのがイヤだった。
ただでさえ四人で付き合うという不安定な選択をしている私たちだから、四人が四人全員に台頭でいられなくなることは、なるべく避けたい。
結局、どれだけ考えても、この人につけてもらった名前なら納得できる、という相手が思い浮ぶことはなかった。
だから、職場で適当につけてもらった翠鹿という源氏名は、距離感としてちょうど良かった。
”翠鹿”という称号は、このお店の中でしか通用しない、使い捨ての名前。蓮と日美香にそう呼んでもらう必要もない。このお店をやめれば簡単に捨てられる、一生背負っていく必要のない気楽なもの。
それでいて、菊花の影響が及ばないこのお店の中では、”菊花じゃない方”であることをひととき忘れさせてくれる、おまじない。
「裏では本名で呼ぼうか? 慣れてないでしょ?」
「いえ、そんなことはないです! そのままでお願いします!」
「そう? 聞いて良いのかわからないけど、本名で呼ばれたくないのって何か理由があるの?」
瑠衣さんに本当のことを答えるべきか迷う。菊花と呼ばれたくない理由を隠しているわけじゃない。ただ、こんな面倒な感情を告白されたって、された側に変な気を使わせるだけな気がして、だから誰にも話していない。
ただ、本名ではなく翠鹿で呼んでほしいとだけ伝えている。
「……聞いても、ろくなことにならないと思いますよ」
「そう? 翠鹿ちゃんは長い付き合いになりそうだから、事情を知っておいた方がいいかなって思ったんだけど。そういうことなら、やめとく」
瑠衣さんが私のどこをどう見て、長続きしそうだと思ったのか……思い当たる節があるとすれば、メイド喫茶を、”こういう仕事”だと、割り切っているからかもしれない。
メイド喫茶は、お客さんとの距離が近い。ともすれば、あるお客さんに肩入れしかねない。
そんな環境の中で私は、お客さんと一定の距離を置いているというか、人間のメイドさんに化けた猫という、痛い設定を演じることを、かなり自覚的に徹している。
メイド喫茶に必要な割り切りを、このお店で一番長い瑠衣さんには、よくできているように見えるのかもしれない。
菊花でない私は、菊花らしい振る舞いをしてしまうことを極度に恐れて、自分らしくあることに脅迫的だった。その点、翠鹿という人格に求められているものは、私からほど遠くて、菊花でもない。
あまりにも接点のない存在を演じるのは、意外と楽しくて、苦じゃないのも大きいのかもしれない。
「長く続くかはわからないですけど、長く続けられたらなとは思ってます。なので、あんまり私情は持ち込みたくなくて……」
「それは、いい心がけだね。なんとなく予想はついてると思うけど、キャストとお嬢様の間に私情が挟まると、お店の空気が悪くなっちゃうからね」
瑠衣さんに年齢を聞いた時、「猫年齢では四歳ニャン」とはぐらかされたけど、いまの言葉には年季の入った実感が伴っていた。
「……それは好意でも、ですか?」
「むしろ、そっちの方が問題だよ。厄介なお嬢様は出禁にすれば済むけど、お金を使ってくれるお嬢様を無碍にはし辛いでしょ? いくら役割を演じるプロって言っても、わたしたちだって人間だからさ、どうしてもサービスの差はつけちゃうんだけど、行きすぎたら誰にとっても印象良くないからさ」
瑠衣さんの実感がこもった言葉に、気をつけなきゃなって思う。仕事でも、私生活でも。お客さん一人一人との距離が近いから、二週間働いて、私の顔を覚えてくれたお客さんが何人かいる。
すると、彼女たちについ肩入れしたくなってしまう。おまけに、ちょっとした指名システムが、お店のメニューとして導入されているから、よく指名してくれる人をさらに特別扱いしたくなる力学が働いてしまう。
かといって、たくさんお金を落としてくれる人を、あんまり特別扱いしているのが見え見えだと、他のお客さんも、同僚の人も、面白くない。
金銭と引き換えにサービスを提供しているのは事実だけど、そればっかりに囚われたら、お互いに要求が過剰になっていく。そうした光景を瑠衣さんは目にしてきたんだろう。
それと似たようなことを、蓮と日美香にしていないか。二人の間に態度の差はついていないと思うけど、菊花は明確に仲間はずれにしている。なにせ、接点がないから。でももしかしたら、それもよくないのかも、なんて思わなくもない。
「参考になります。色々と」
「色々と、ね。お嬢様の前では、あんまり思わせぶりなことは言うもんじゃないよ」
「言いませんよそんなこと。そういうことをするのは私であって、翠鹿のキャラには合いませんから」
「そういう自覚があるならよろしい」
着替えを終えた瑠衣さんが、更衣室から出ていく。今日は瑠衣さんがお店の鍵を閉めることになっているはずだから、私も素早く着替えを終えて、外に出た。
※※※
仕事を終えて家に帰る頃には、夜の十一時を過ぎていた。あんまり張り切って働き始めたら危ない予感がしたから、大学がある日にしかシフトを入れていない。だから、帰ってくる時間は遅いけど、一日の労働時間は四、五時間くらい。
周りにどう思われているかは正直わからないけど、私的には働き方も、働く時間も、ちょうどよかった。
「二人とも起きてるかな」
もしもねていた場合に備えて、玄関の扉をそっと開ける。すると、廊下の奥に見えるリビングには明かりが灯っていた。私が働き始める前から、この時間まで起きているのは普通のことだったけど、私のせいで起きているのかとつい考えて、申し訳なくなる。
「ただいま」
「おかえりー。晩ご飯できてるよー」
リビングに入ると、深夜とは思えないほど元気な日美香が出迎えてくれた。
「おつかれ。今日はどうだった?」
ご飯を用意してくれていた日美香に促されるままに、テーブルに座ると、ベッドの上いる蓮が、今日の出来事を、務めて冷静に聞いてくる。
二週間経ってもというか、私が仕事に慣れ始めているから余計に、私が五人目を連れて来ないかという不安が強くなっているみたいだった。
私が働くことで、蓮に心配をかけるのは仕方ないにしても、こういう形で不安にさせるのはあまりにも不本意だった。蓮のために仕事を辞める選択肢が頭を過ぎりはするけど、職場に迷惑をかけたくないし、ようやく仕事にも慣れてきたあたりだから、やめたくはないと思ってしまう。
「いつも通り、特に何もなかったですよ。あっ、でも、常連の方には、少しずつ顔を覚えてもらっています」
「……そうか、よかったな」
言葉とは裏腹に、全くよく思っていなさそうな蓮の声が印象的で、言葉選びを間違えたことに気付く。とはいえ、蓮と日美香に隠し事はしたくないし、そんなことをしたら余計に不安にさせそうだ。
「心配しなくても、蓮が思ってるようなことにはならないですよ。翠鹿でいる時の私は、私とは全然違いますし」
「でも、最近のあなたは、明るくなった気がするなー」
レンジから晩御飯を取り出して、テーブルに並べてくれている日美香が率直な感想を口にする。私にその自覚はないけど、もしも日美香の印象通りなら、どう考えても、いま言うべきじゃない気がする。
「えっと……本当に、職場ではもっとずっと明るいですから!」
「……私は前の、全く聞き分けのない、自分の世界に閉じこもってる、卑屈なお前の方が好きだったよ……」
蓮が、ベッドにうつ伏せに沈んでいく。なんだかよくわからない拗ね方をされて、困ってしまう。未来のことはわからないけど、お客さんは優しいし、瑠衣さんは頼りになるし、他のメイドさんたちもよくしてくれる。
だからこそ、蓮と日美香は特別だってわかる。二人とは菊花を起点にしているけど、その上で私は私で、菊花は菊花だとしてくれた二人が好き。
菊花と特別な関係を築いていた二人が、それでも私は私だと認めてくれたという事実。こればっかりは、世界の誰にも代わりになれない。
「いまでも卑屈だと思いますよ。蓮に五人目を連れてきてほしくないと思うくらい」
「……そういうことを言えるようになってきたことが、不安なんだよ……」
「別に、前からこれくらい言えたと思いますけど」
「声色って言うのかな? そういうのがちょっと変わった気がするよ」
私を一番側で見ている二人がこう言うんだから、そうなんだろう。そう思うと、途端に不安になってくる。働き始める前までは、菊花に乗っ取られることを恐れていたけど、今度は働いている間に演じている翠鹿という人格が、私を支配してしまうんじゃないかって。
週にほんの十数時間演じている人格に影響されているとしたら、私という存在のなんと頼りないことか。
「仕事の影響が出ているとしたら、困りますね」
「ちょっとくらいならいいけど、あんまり行き過ぎたら、あなたがあなたじゃなくなっちゃうもんね」
「自分でも怖がりすぎだって自覚はあるんですが……」
「そうしている方が、らしくていいよ」
蓮に私らしいとお墨付きをもらって安心するような、これではいけないような。明るく前向きになれているとしたら、良い変化であるはずだから、喜ぶべきなんだろう。でも、明るい自分は自分じゃないというか、何がどうなっても明るくあれないことを、自分らしさの拠り所にしているところがある。
「そんなに深く考えなくてもいいんじゃない? 記憶が飛んだり、人格が入れ替わったら自分じゃなくなるのは、そうだろうなって思うけど、いろんな経験をして、考え方が変わるのは、普通のことだと思うし」
「それはそうだとは思うんですけど……地続きの小さな変化が積み重なって、気付いたら原型がなくなっていたらって思うと、怖くないですか?」
「うーん、深く考えたことがないからよくわからないけど、私はあんまり怖くないかな」
「それを言い出したら、小学生の頃の自分なんて、外見も知識も考え方に価値観まで、何一つ残ってないぞ」
蓮が言っていることと、日美香が言っていることは似ていて、私自身、二人の意見に賛同している。だけど、不安になる。変わりゆく自分に。
※※※
今日も無事に終わった大学から電車に乗って、途中で蓮と日美香と別れて、職場に向かう。
キャスト用の裏口からお店の中に入って、猫の尻尾が生えたメイド服に着替えながら、心の準備をする。お客さん……じゃなくて、お嬢様から好かれる翠鹿に変身できるように。
「こんな感じかな」
スマホのインカメラを使って、自分の表情を確かめる。うん、多分問題ない。口調も普段とは違う、自信に満ちていて、かわいらしいものに変える。
普段と違う自分を演じるというよりも、自分の原型を残さないほどぐちゃぐちゃに造り変える。そう表現する方がしっくりくるほどに。
「うん、今日の私もかわいい!」
普通、かわいい自分というものは、憧れてなる人がほとんどだと思うけど、私はただ単純に仕事に必要だから。
昨日まではそのことに、なんとも思わなかった。それどころか楽しくすらあったけど、蓮に言われて、少し違和感を覚える。
なりたい自分ではなく、必要とされる自分を演じる。それは菊花を演じることと何が異なるのか。その答えをまだ持っていないから、ひとまずお客さんが待っているホールに出る。
客席を回って注文を取りつつ、軽い雑談に応じたりしながら、店内の様子を眺める。メイドさんと写真撮影をするお嬢様に、友達同士で楽しく食事をしているお嬢様。
やっぱり、このお店で働くことはキライじゃない。むしろ好き。ここは日常を持ち込む場所ではないって、はっきりとわかる。蓮と日美香がいないのは寂しいけど、だからこそ菊花の支配が一切及ばない世界で唯一の場所。
「チェキお願いできますか?」
働き始めてから三週間目に突入して、顔馴染みになってきたからか、チェキの撮影を頼まれることが、少しずつ増えてきた。といっても、このお店の常連のお客さんが私に気を遣って、という感じだから、私の実力ではない。
それでも、菊花ではない私を求めてもらえるのは、素直に嬉しい。比較するつもりはないけど、蓮でさえも、本当の最初の最初は、私を”菊花ではない”と見ていた。
菊花ではない私から、蓮との関係は始まっている。日美香とは、菊花であることを忘れた菊花として、関係が始まっている。
完全に菊花から独立した私に価値を見出してもらった経験はこれが初めてだから、仕事にも気合が入る。
「撮りますよ〜。はい、チーズ!」
お客さん……じゃなくて、お嬢様の肩を抱き寄せて、笑顔を作る。私も、菊花も、笑顔を浮かべる機会に乏しい。それでも、メイドさんらしい、かわいい表情を作れることに安堵する。
そして、こんな私らしくも、菊花らしくない振る舞いを、いとも簡単にできてしまう自分が怖い。
求められているのは、翠鹿なのか、私なのか。普通に考えたら、求められているのは翠鹿であって、私じゃない。でも、翠鹿を演じることができるのは世界で私だけだから、間接的に私も必要とされている。そう解釈するのが最も自然。
でも、その解釈が自分の中でうまく消化できない。こうしてツーショットを求められて嬉しいはずなのに。それは本当のことなのに、どこかで自分ごとではないような、雲の上にいるような感覚が消えない。
みんなこんな感じなんだろうか。そんな風には見えない。瑠衣さんも含めて、メイドさんはみんな、ここでの姿も含めて、自分だって思えているように見える。
私は、ここで人間関係で浮いているってことはないはず。だけど、心の内側は、ここでもちょっと浮いている。蓮は心配しなくても、私はいつも通り、ちゃんとしっかり、うじうじをやっているよ。
「ありがとー。またよろしくね」
「は〜い! またよろしくお願いします、お嬢様っ!」
きっと、お嬢様に心の内は見透かされていない。このお店の常連さんだし、私にもよくしてくれるから、楽しいまま帰ってほしいし。
だから、うまくメイドさんの役割をこなせているのはいいことであるはずなのに。うまくこなせる器用さが、自分という存在がどこにあるのかを曖昧にさせる。
きっと私は最初から、わかっていたんだろう。求められる菊花を、ちゃんと演じられるって。そして器用に菊花をこなしている間に、いつの間にか自分が菊花にすり替わってしまうことを。