あの子が働いていたメイド喫茶。あの子が働き始めたのを見守っていた時と全く同じ席で翠鹿のライブを、日美香と一緒に見ていた。
1「……なんか、変な雰囲気な気がするんだけど……私の気のせいだよね?」
店内を包み込む異様な空気。それを日美香は、いつもの察しの悪さだと言い聞かせようとしているけど、そうじゃない。
メイド喫茶のライブを私たちは全く知らないけど、おかしいということだけは生物としての本能が理解している。
いま行われているのは翠鹿のライブというより、翠鹿によるミサと形容する方がしっくりくるほど、何かが根本的に壊れている。
「盛り上がっていくよ〜!」
翠鹿の掛け声に、お客さんたちだけじゃなく、他のメイドさんたちまで、愛の手を送る。
それだけなら健全な盛り上がり。だけど、私と日美香を除く店中が、翠鹿に熱狂しすぎている。文字通り、翠鹿に狂っている。
側から見ても、メイドとしてあまりにも完成された翠鹿の身振り。表情。振り付けと歌唱力。初ステージとは思えないほどの完成度だから、盛り上がること自体は納得できる。なのに、目の前の事実を飲み込むことができない。
理由はわかっている。壇上にいる翠鹿の中に、あの子はおろか、菊花の片鱗すら見つけることができないから。
あの子の、この世の全てに呪われたような瞳の澱みも。菊花の人の内側を全て見通すかのような、真っ暗に透き通った瞳も。翠鹿にはない。
彼女が持っているのは、あまりにも澄んだ瞳。この世の全てに祝福されていることを一片たりとも疑うことを知らない、赤子のような視線。
壇上にいる女性を、私と日美香は知らない。あんな人を私たちは知らない。
私と日美香は、あの子の幸せを願っていた。あの子の存在がどれだけ不確かで、私たち四人がどれだけ問題を抱えていても、それだけは本当だった。
なのに肝心のあの子がどこにもいない。菊花さえもいない。翠鹿という、この世の誰も知らない誰かが、目に映る世界中に愛されている。
見ていられなかった。こんなことになるくらいなら、あの子は小さな病室の中、記憶を取り戻し、誰にも見送られることなく、存在すらなかったことにされた方が幸せだったんじゃないかとすら思う。
だってこれじゃ、あんまりだ。あの子はあれだけ消えたくないと。菊花に喰われたくないと。そう願っていたのに。
消えたという自覚すらないままに。一番恐れていた菊花ですらなく、あの子は翠鹿に喰われて消えた。こんなにもグロテスクなことが、あり得ていいわけがない。ないのに、私たち二人以外からは肯定されている。
この現実をどう解釈すればいいのか、私たちにはわからなかった。
「次の曲が終わったら、お店出ない?」
あの子の初ライブだからと足を運んだけど、日美香の方から、ここにはいられないと、翠鹿の歌声にかき消されながら言ってきた。
正直、私もあの子が存在しない光景を見ていることに耐えられなくなり始めていたから、日美香に先に声をかけてもらえて助かった。
一番目立たない席とはいえ、ステージからは店内全てを見渡せる。菊花に来てほしいと誘われたのだから、途中で帰るのはさすがに気が引ける。
そんな決断を自力で下せるほど、私は強くない。他の人に言わせたら小さなことかもしれないけど、私にとっては日美香がいないとできないこと。
「みんな〜、今日は来てくれてありがとう〜!」
流行りのアニメソングのカバーを歌い終え、テレビで目にするアイドルに匹敵するライブを作ろうと奮闘する翠鹿の姿に、本当なら感じ入るものがあるはず。
でも、何もない。だって、私たちはこの人のことを知らないから。
今日、あの子が世界に居場所を見つけた姿が見られると思っていたのに、あの子はどこにもいない。
「それじゃ、出よっか」
「そうだな」
日美香の言葉を合図にして、二人揃って席を立つ。
「次が最後の曲になるんだけど、私がこのステージに立つまでの間……私の人生を支えてくれた、大切な人たちを紹介したいと思います!」
その瞬間、壇上にいる翠鹿が、突然私たちを名指しする。直後、最初から予定されていたように、店内の照明が私と日美香が座っていたテーブルの周辺だけを照らす。
「私の家族の、蓮と日美香です! 家族で二人いるってことは、私の姉妹や恋人の家族って考えると思うけど、二人とも私の恋人。だから、えーと……」
店の中で最もステージから遠い席からでもわかる、翠鹿のふやけた表情。それを、真剣な表情で見守るお客さんと、メイドさんたち。
でも、私にはわかる。あの躊躇いが演出であることくらい。だって、あの子なら躊躇ってしまうほど大切なことは、目の前にいる人にしか伝えない。
「私! 二人の女性と、同時にお付き合いしてます!」
勇気を振り絞った、堂々とした力強い、浮気宣言。あの子の初ライブを見に来たはずが、あの子はいない上に、急に自分たちの関係に焦点が当てられ、鼓動が速くなるのをぼんやりと感じていた。
「それと、私、実はとある病気なんです。といっても、病名があるわけじゃなくて……実は私、記憶喪失なんです! 記憶自体は取り戻したんですけど、人格が混ざり合うと、記憶喪失中の私が消えちゃう気がして……だから、独立した私として生きてます!」
翠鹿がまたも、わざとらしい溜めの後、第二の大告白を行う。
彼女はものすごいことをしている。とても勇気が必要な言葉を振り絞っていることは、ちゃんとわかっている。だからこそだ。
記憶喪失中の人格であることを包み隠さず公言する。こんなもの、あの子であるはずがない。
あの子はこんなことできないし、やらない。自分の存在が認められる世界を、自分の力で築いていく。世界を自分から塗り替えていく。そんなことできないから、あの子だった。
それができるあなたは、何者なのか。菊花でさえ、世界を侵食することは選ばなかった。
結論は出ている。あなたはあの子でもなければ、菊花でもない。翠鹿だ。職場で名前を与えられたことで、あの子から分裂増殖し、ついには人格を乗っ取るに至った、第三の菊花。
こんなにも力強い人間が、あの子であるはずが、断じて。
「どうして、みなさんの時間を使ってまでこの舞台でこんな話をしたかっていうと、このお店に感謝しているからです! 記憶喪失中の人格なんていう、名前がつけようのない私に、名前をくれたこのお店の中でだけは、嘘をつきたくなかったから!」
この話を聞いて、理解できている人はいるのだろうか。あの子とずっと一緒にいたからこその、当然の疑問とは裏腹に、店内がいろめきたった拍手で染まる。
お客さんたちも、猫耳と猫の尻尾をつけたメイドさんたちも。揃いも揃って。中には、涙を流している人や猫までいる始末。
なるほど、と思った。これが記憶喪失中の人格という、居場所のない存在が、存在することを肯定してもらう最適解なんだと。
記憶喪失という、人生の地盤がない苦悩を理解してもらう必要なんてない。本当に必要だったのは、それらしい”感動げ”な雰囲気を作り、自分の存在を肯定してもらえるように誘導すること。
新人メイドさんの初ライブという、世界という単位で見れば小さいけれど、人という単位で見ればそれなりに大きな晴れ舞台で。勇気のある告白をする。その内容に理解が及ぶ必要なんてない。
翠鹿というメイドが、プライベートで深い悩みを抱えていて。普段見せない負の側面を乗り超えて、ここでメイドさんをやっているというだけで、人は感動できる。
記憶喪失中の人格に本当に必要だったことは、理解や寄り添いではなかった。無理解者の心すら打たせる、強引なまでの説得力。
ふざけるな。私と日美香の努力をバカにしているのか? あの子の悩みをなんだと思っている?
そもそも、こんな表面的な優しさで満たされるような、つまらない人間じゃなかっただろう。お前も、菊花も。
この翠鹿という女はあまりにも浅い。あの子も、菊花も、ちゃんと一人の人間だ。でも、この女は違う。
その悩みは、あの子のものであって、翠鹿のものではない。自分のものではない感情に寄生して、ようやく何者かになれる。その程度のやつ。
翠鹿と比較すれば、比較することすら烏滸がましいほどに、あの子はどれだけ人間だったか。あの子は、同意を得ずに、私と日美香を壇上に連れ出すようなことはしない。
こいつはさっき、私と日美香に人生を支えてもらったとさっき言っていたが、そんなことをした覚えはない。
でも、翠鹿にそんな気遣いはない。この女には想像力が根本的に欠けている。だから、こんな中身のない、音圧だけの薄っぺらな分厚さだけで、自分の存在を肯定できてしまう。
そりゃ、これくらいの方が幸せだろう。だとしても、こんなものが心の豊かさであってたまるものか。翠鹿は、自分が貧しいことにすら気付くことができないほど、貧しい。
本当に、この女が嫌いだ。こんな薄い人間、百万の人間に好かれることはあっても、二人の人間に愛されることは絶対にない。
※※※
「今日のライブは大成功だったね」
従業員用の出口から出てきた菊花と合流して、夜の繁華街を三人で歩きながら駅に向かっていると、平坦な口調で彼女はそう言った。
「成功した割には嬉しそうじゃないな」
「そうかもね。二人は途中で帰ろうとしちゃうし」
菊花が私たちの方を振り向いて、わざとらしい笑顔を向けてくる。これでは本当に悲しんでいるのか、それほど気にしていないのかすら、よくわからない。
「だって、知らない人のライブ見てても仕方ないし……」
「知らない、か。ま、そうかもね」
菊花は、日美香の素直な言葉に納得しているように見えた。
そして、彼女の大成功という表現と、客観的な盛り上がりとは裏腹に、肝心の菊花自身が今日のライブに満足していないようだった。
「まるで自分ごとじゃないみたいだな」
「蓮は相変わらず鋭いね。私の人生を翠鹿に渡して、ライブの練習をしてたし、翠鹿の記憶と経験を引き継いでるけどね。だから嬉しいのは嬉しいよ」
菊花はどうやら結果に満足はしている。だけど、どこか満たされていない、いつもの菊花だった。
ステージの上にいる翠鹿は、あんなに楽しそうにしていた。それこそ、この世の全てから肯定されているみたいに。
菊花と翠鹿はあまりにも正反対。翠鹿にあの子の面影はなく、菊花の性質が香りほども残っていない。
菊花が、あんな見せかけで幸せになれるわけがない。万雷の拍手で翠鹿を満たすことはできても、あの子と菊花はそんなものを求めていない。二人に必要なのは私と日美香だ。
どれだけ菊花が、両手で抱えきれないほどの愛を求めていても、それだけは変えようがない。
「なあ、そろそろやめにしないか。こんなことを続けても、お前もあの子も不幸になっていくだけだ。私と日美香が愛のリミットなんだ。身の程を知れとは言わない。実際、人気は得ているわけだしな。だけど、足るを知ろうとしてもいい頃合いなんじゃないか?」
「百理ある助言だね。でも、止める気はないよ。蓮の言う通り、あんな空間にいても私は虚しいだけ。でも、手応えはあったからね。止めるわけにはいかない」
「翠鹿が努力したのはわかるよ。菊花だってきっと頑張ったんだと思う。だけど、あんなの私たち四人が望んだ光景じゃないよ……」
日美香が言葉に詰まってしまう。この場にいる三人全員が、あのライブに否定的。あの子がもしも存在していたなら、彼女もそうしていたと思う。
だと言うのに菊花だけが、あれを否定しながら続けようとしている。菊花の真意を理解できないことなんていまに始まったことじゃない。それでも、今回ばかりはさすがに理解を越えすぎている。
三人で付き合うとか。愛を際限なく結び続けることで家族を増殖させることで安全な世界を作るとか。言っていることはめちゃくちゃだけど、理論は理解できるし、実現できたら素敵だと思った。だから、大嫌いな菊花と手を繋いだ。
それに比べて今日のことは、別に実現しても特に画期的だとは思わない。無理解な喝采に、なぜ傷付いてまで固執し続けるのか。あの子と人生を分け合うことを躊躇っていた菊花がなぜ、翠鹿という人格に時間を投資するのか。
「……どうしてそこまでするんだ? 愛を求めるにしたって、もっとうまいやり方を、お前なら見つけられるだろ」
「それじゃ聞くけど、二人は今日翠鹿に拍手してた人から、好かれる自信ある? 私はないよ。だって私は、ああいう人たちのことが嫌いだから。二人もそうでしょ?」
顔を俯かせるという形で肯定することしか私にはできない。それは日美香も同じ。日美香は日美香で、あそこで拍手ができる人たちに、傷付けられてきた。
表面を撫でることしかできない日美香にとって、表面しか見ない人間は、ほとんど天敵のようなもの。私にとっても、表面を取り繕い切ることができないから、採取的に性格の悪さを見抜かれるから、ああいうタイプとは相性が悪い。
「私は好きになれないし、好きにさせることすらできない人たち。そういう人たちと愛を結べるのが翠鹿。私じゃない翠鹿だからできること。今日その役割を、私の期待以上に果たしてくれた」
菊花が本当に世界中の人間同士の愛の中継地点となり、全人類を家族で結ぶつもりなら、確かに翠鹿は必要なのかもしれない。菊花やあの子と正反対である翠鹿でないと、魅了できない人は存在することは、想像に難くない。
だけど、それが菊花の幸せに繋がっているとはどうしても思えない。
「あの程度の愛でお前は満足なのか? そうじゃないだろ?」
「”あの程度”が、あの人たちが捧げられる愛の限界なんだよ。世界を愛で満たすって夢のためには、ああいう質の低い愛でも、ちゃんと拾ってあげないとね」
「……最近の菊花、神様みたいでなんか怖いよ」
ネオン煌めく夜の繁華街を歩く菊花に神性を感じろというのはムリがある。だけど、彼女が掲げている理想は神様そのもの。それもただの神様ではなく、限りなく善性を帯びていながら、どこまでも無自覚に他者を下に見ている邪神の類い。
いや、それほどまでに価値観がかけ離れているからこそ、この世の誰にも比肩できない上位者で在れるのかもしれない。だとすれば、菊花にはその素質がある。この世の全てを愛で以って救うという、崇高な使命を全うするに足る。
だけど、私にはわかっている。菊花が愛を騙るのは、愛を際限なく振り撒き続ければ、いつか自分もその対象になれると信じているからでしかない。
根本的に憐憫なんだ。菊花の行動原理の全てが。だからこんなにも、愛されているのに不愉快。
「この調子だと、菊花の掌から私たちが零れ落ちる日も近いな」
「この期に及んでまだそんな言葉が出るとはね。なんか根本的に勘違いしてるよね。私はちゃんとわかってたよ。それこそ、蓮に三人で付き合おうって、初めて提案したあの日の時点で」
菊花は私がなにを理解していないと糾弾したいのか。そこのところが全く理解できない。どう考えても菊花がやろうとしていることは、限りある愛を切り分けて分配するという、狂った営み。
四人なら愛を切り出すことなく平等に愛せるだろうけど、これ以上は不可能なのは目に見ている。だから、私が五人目を恐れていたことも、このままでは菊花が私と日美香への興味が失せると予感するのも、正当性がある。
「これ以上、家族を増やしたら愛を等分することになるのは目に見えてる。思い違いなんてないよ」
「無知はいいけど、無自覚は良くないなー。でも、そういうところが好きなんだけどね」
先頭を歩く菊花が振り向いて、私の瞳を一瞬だけ覗き込む。その瞳はまるで万華鏡のようで。菊花がいて、翠鹿がいて。あの子の面影が乱反射しているように錯覚させられた。
「三人は四人で付き合うって決めてからずっと、必死に愛に順位をつけないようにしてた。醜いことこの上ないよね」
「なにがだ?」
「なにがって、本当にわからない? 愛に順位をつけないよう努力してる時点で、順位が生まれてる証拠だって言ってるの。愛に優先順位を本気でつけたくないなら、たった一人と愛を結ぶしかない。見ようとしてないだけで、薄々気付いてるでしょ?」
一人で先頭を歩く菊花の言葉に、時間が凍りつく。思ったことは素直に言葉にしてしまう日美香ですら、言葉にできない。それほど明確な四人の急所。
そう、わかっていた。私が頭の中で、三人の名前を呼ぶ時、必ず決まった順番で呼んでしまう。最初は特に意識していなかったけど、それが愛の順位であることを察知して、考えないようにしていた。
きっと、私と同じ無意識な順位が、私だけでなく、日美香にも、あの子にも。そして菊花にだってあったはず。誰にも口にしないから表出しなかっただけで。
いや、違う。壊れてしまうとわかっていたから。四人で愛し合うと三人で決めたのに、優先順位があるなんてなったら、前提が破綻してしまうから。
「なにを言いたいのか理解できな……」
「それじゃ、私から言おうか? 私の一番は蓮だよ。その次が日美香で、最下位は常に私。くだらない愛を捧げてもらったら、私から私に向けた愛が繰り上がるかと期待したんだけど、そう都合良くはいかなかったね。はい、次は日美香の番」
菊花がこれまでで一番の無茶振りをする。日美香は婚約者でありながら二番目にされたことに困惑する間も無く、順位を発表することを強制される。
私も日美香も、全員を平等に愛せていたなら、躊躇いなんてなかった。胸を張って全員が好きだと言えた。菊花の思惑を挫くことができた。でも、できない。
日美香は自分じゃないからわからないけど、私には明らかに順位が生じているから。嘘を取り繕うことは簡単だ。だけどそんな小細工では、菊花には勝てない。
「そんなの、決められないよ……だけど、私にとっては菊花が一番だよ。婚約者なんだもん」
日美香らしい素直な答え。きっと本当に、圧倒的な一番があるだけで、私とあの子の間に差はない。それに比べて私は……
「それじゃ、次は蓮の番。聞かせてほしいな。蓮の一番を」
菊花に見透かされるように見つめられて。日美香が私にとっての一番。そのはずなのに、そう言えない自分がいる。言いたくない私がいる。
あの子が翠鹿に無惨に跡形もなく喰い殺されたのを見せつけられて。ここで私が日美香を一番にしてしまったら、誰があの子が生きていたと証明するのか。
菊花は世界中と愛を結ぶと公言しているけど、自分は対象外。菊花が雨のように降り注がせる愛は、あの子を濡らさない。
菊花の愛から零れ落ちるのだとしたら、私がやらないと。だって私以外にはもう、あの子が生きた証は存在しないから。
「一番はあの子で、その次が日美香だ。そして、菊花、お前はなにがどうなっても一番下だ」
嘘をついた。わかりやすい嘘を。だけど、それを本当にしたかった。罪悪感じゃなくて、そう約束したかた。
「そういうところなんだよ。私が蓮を好きになったのは、そういうところなんだよ」