〈作者まえがき〉
一年以上のブランクとなってしまい、誠に申し訳ございません。今話からまた定期的に更新していけたらと思います。
島暮らしの精霊達が人間との関わりを通じて変わっていくお話、第四話でございます。
レヴァンタへのコンプレックスを自覚してしまったクリノは、レヴァンタとの馴れ初めを思い返します。クリノのよく知るレヴァンタは、今とは真逆の繊細で不器用な女の子でした。
〈以下、本編〉
岸辺を彩る花々を眺めていると、クリノはいつも思い出す。物心ついてから幾ばくか経った頃の一時、ある夏の昼の出来事を。
「──ん?」
クリノがその寝息を耳にしたのは、仲間の輪を離れ、小川の縁を所在なくうろついている最中のことだった。懇願するかのようにか細く、せせらぎに掻き消されそうなほどに微かな音だったが、それはクリノの耳にはっきりと届いた。哀れを誘うでもない、いっそどこか無機的で規則正しい息遣い。しかし、それが何故だかクリノの胸に大きな高鳴りを生んだ。未だ体験したことのない程に大きな期待が、その胸の中でぐいぐいと生長を始めた。
当時のクリノは島で一番の若輩と言って差し支えなかったが、年上達に大いなる期待を掛けられていた。全ての精霊の中で特段美に優れたニンフという種の中でも、クリノは別格に美しかった。クリノの仕草は柳の枝の揺れるように嫋やかで、そこには幼い精霊にありがちなせっかちさがまるでない。声色は低く落ち着いて、それでいて掠れたりしゃがれたりせず、常に少女の歌声めいた清澄さを保っている。カンカン照りの中でも、打ち付けるような嵐の中でも、彼女は変わらずににこにこと笑っている。そしてその円く穢れの無い指先は、同年代のニンフなど到底及ばぬ魔力を軽々と扱うのだ。
優れたものの周りに集まることは、人にもニンフにも通底する習慣と言えるだろう。クリノに関しても例外ではなかった。クリノの周りには、いつも花や木苺が貢物ののように置かれて、常に笑い声が絶えなかった。クリノ自身もまた、そうした声に応えて微笑み返したり、簡単な話に応じたりすることに抵抗は無かった。
けれども、たまには誰の声も心に入れることなく、一人の時間を抱えていたい時があった。その日もまた、そんな気まぐれを起こした内の一つだった。葉擦れ、潮風、鳥の声、それに土や草の織りなす濃い匂いに浸っていると、魂を清らかな水で手洗いしているような安らぎに見舞われる。そこに加わった新たな気配は、クリノを安らかな夢遊から引き戻しこそしたが、不快な感覚は無かった。
(この声は、きっと私を呼んでいる)
頭のどこかがはっきりと確信していた。呼吸の主の元へ向かわないという選択肢は、すぐに消え失せてしまった。今この島に息づいているどの生き物の中でも、かの呼吸の傍に行き、手助けしたいとクリノは願った。幸いにして、気配の感じ取れる場所は近く、クリノは少し歩くだけですぐに彼女を見つけ出すことが出来た。
果たして、鮮やかな紫の花々に祝福されるようにして、「それ」はくたりと力なく寝そべっていた。生白い手足を投げ出して横たわっている「それ」が確かに生きているのだと分かった時、クリノの胸は言いしれぬ嬉しさに打ち震えたものだ。人間で言えば二十歳前後といえる容姿のその女は、クリノの一度も見たこともない顔立ちをしていた。生まれたばかりのニンフを見るのは、これが初めてだった。
「ねえ、あなた大丈夫? 声の出し方はわかる? 身体の動かし方は?」
「うん、なんとか……」
幼きニンフは恐る恐る首を動かし、やや頭を傾けてクリノを見上げた。その頃から真っ黒の髪は艶々と光っていたが、まだまだ肩にもかからないくらいに短かった。体つきは森の精にしてはやや細く、頼りなさげだ。背丈も、既に島でも群を抜いた魔力を持ちつつあったクリノの方が一回り大きい。けれども切れ長の眼は夜明けの海を思わせる紫で、魂が吸い込まれると思われるほどに美しかった。
「あなた、名前は?」
「わ、わからない。わたし、なんにもわからないよ……」
「難しいことなんてないのよ。胸に手を当てて、ゆっくりと息をして」
「息を……」
「そう。落ち着いて、頭の中を空っぽにして。そして、最初に頭に浮かび上がってきた言葉を言うの」
抱き起こして背中に手を当て、名を思い出す術を教えてやった。過去にクリノ自身が、仲間によってそうさせられた記憶を元にした行為だ。ニンフは胸に白樺の枝のような手を当てると、小さくふるふると震えながら息を吸い込み、やがてぽつりと呟いた。
「レヴァンタ?」
「そう。それがあなたの名前よ」
「うん、なんだかお腹の底から、ぽこんっ、て言葉が湧き上がってきたんだ。あなたのお陰だよ。ありがとう」
レヴァンタはそこで小さく息を呑むと、両手を胸の前できゅっと組み合わせた。眼の中で揺れる幼気な不安が鳴りを潜め、代わりに仄かな光が点る。彼女の聡明さは、既にこの頃から萌芽を覗かせつつあった。
「そうか。こうしてあなたと話しているのと同じように──最初から言葉を知っているように、私は自分の名前も最初から知っているんだ」
「そうよ。私達は、生まれながらにして己が名を知っている。永い命の中で何を忘れようとも、名前だけは決して忘れないの。この海と大地に還るまで」
「あなたは……? あなたにも、名前があるの?」
「もちろん。私はクリノよ。神々の言葉で、百合の花という意味」
「クリノ……百合……」
「貴方と同じ、綺麗な花の名前よ。立ち上がることはできるかしら? 今、服を紡いであげるから。しばらくしたら、みんなに挨拶しましょうね」
クリノの手で紡がれた衣を羽織り、その手を取って立ち上がったレヴァンタは、少しはにかんで微笑んだ。動きこそ僅かにもたついてはいるが、その笑みには芯のはっきり通った自我が見て取れた。精霊島のように潤沢な魔力を秘めた地は、およそ五十年に一度ほどの頻度でニンフを産む。クリノもこの日より五十年ほど後に知ることになるが、レヴァンタの精神は多分に早熟な方であった。
「ありがとう。あなたの名前も忘れないでおく。いつかこの海と大地に還るまで」
そうして、レヴァンタと共に生きる時間が始まったのだ。仲間達の皆がこの新入りを祝福し、屈託の無い笑顔と両手一杯の木の実でもてなした。初めて歯の上で弾ける果実、舌を滑る甘酸っぱさに驚くレヴァンタは、まさに卵から孵ったばかりの雛そのものだった。レヴァンタは皆に劣らず端麗な容姿を持っていたが、ニンフ達の前に出るのはやや苦手のようだった。クリノがそれとなく促せば、何とか仲間達と交わろうと努力をする。けれども、何を話そうにもどこかぎくしゃくしている有様だった。
その性分は、宴を終えてもなお変わることはない──周囲のニンフ達と遊ぶよりも、一人で淡々と務めを果たしたり、浜辺に座り込んで思索に耽ることをレヴァンタは好んだ。精霊島のニンフの務めとは、島中の土に手で触れて生命力を与えたり、他のニンフ達によって生み出された草花を植え替えたりする、ごくごく地味なものだ。奔放な同胞達は、まずこんなことに夢中になどはならない。レヴァンタは退屈ではないのだろうか?
「ううん、これはこれで楽しいよ。触れるだけでも、色んなことが解るから」
クリノの問いかけに、レヴァンタは真っ白な歯の見える笑顔で答えた。彼女自身の言うことには、土の粒や草花に触れると、その感触から様々な見識を得られるらしい。レヴァンタの楽しみは、どうやら孤独にこそ大きく比重を置いているようだ。
「島の南側の土は、北側の土よりも乾いてざらついているんだ。お日様がよく当たるからかな」といった発見を辿々しく語るレヴァンタに、クリノは喜んで付き合った。この風変わりな「妹」と屈託なく話せる数少ないニンフである事実は、常に仄かな熱と共にクリノの胸へと迫った。
クリノの方もまた、レヴァンタに知識を与えることを厭わなかった。美味しい木の実の成る場所を教え、いくつかの遊びを教えた。ニンフの持つ数々の力──花を咲かせる術や、触れずに土や岩を動かす術、水や布を作り出す術について。レヴァンタもまたクリノの良き弟子となり、教えたことは十二分に理解して、師の思いもつかなかった用途を平然と編み出す事すらもあった。二人の交流はそれなりの時をかけてひとまずの円熟を迎え、やがて次の段階へと移った。
「何、この感じ……脚のあわいがじんじんする……!」
「あら、大変。どのあたりが? もしかして、ここ……?」
「っ、ああ……! 声が出ちゃう……こんな変な声、クリノに聞かれたくない……」
「そう? 私は聴きたい。レヴァンタが気持ちよくなって、いっぱい上げる声を……」
クリノがレヴァンタの最初の褥の相手となったのは、ごくごく自然な成り行きだったと言えるだろう。本当はもう少し気長に待つ予定だったのだけれど、どこへ行くときにももじもじとついて回る彼女があまりに可愛らしくて、つい手を出してしまった。レヴァンタと出会ってから四季が一巡りしたある日の晩、クリノは川辺に魔法のリネンを敷いて、レヴァンタの身体をそこに横たえた。二人はぎこちなく交わった。
青果のようにこわばったレヴァンタの若き肉体は、クリノの両腕と乳房の間でたちまちくにゃくにゃに解されてしまった。ぐったりとしたレヴァンタの両脚を大きく開くと、皮の中で窮屈そうにいきり立った陰実が姿を現す。果皮を剥き、凝り固まった中身をクリノの柔っこい舌で包み込んでやると、レヴァンタは悦びの声を上げながら懸命に腰を突き上げた。
「クリノ、クリノ! お尻の付け根から……何か、じわじわ込み上げて…!…」
「大丈夫。背中から力を抜いて。私の舌に身を委ねて──」
「ひ! いぅ──ああああ……!」
「レヴァンタ……レヴァンタ……!」
最初に絶頂を迎えさせた時は、愛おしさの余りに自身も小さく達してしまったものだ。レヴァンタは眉間に皺が出るくらいに目をつぶり、反り曲げた背を僅かにふるふると震わせた。凛と整った目尻がとろりと蕩けていて、それがまたクリノの腹奥を更に煽り立てた。遠慮がちなレヴァンタが気兼ねなく絶頂できるようになるまで、クリノは辛抱強く何度も何度も教え込んだ。
「ねえ、クリノ……本当に、ここ?」
「そう、ここよ。爪を立てず、ゆっくり入ってきて──んっ、そう……!」
「ああ、うぁ……っ。クリノの中、熱くて、どろどろで、やぁらかい……」
「んん、ふ──そう、良い調子よ。指のお腹を緩やかに使って、きゅ、って締まるところを探して……」
自分の体を練習台にして、女の愛し方を実践させもした。接吻の力加減も、人肌への触れ方も、総てクリノが教えたものだ。こんなにも拙く女に触れるレヴァンタを知っているのは、きっとクリノくらいのものだろう。やはりレヴァンタの物覚えは抜群で、彼女はすぐにクリノの扱い方を隅々まで覚えてしまった。
一昼夜もクリノの身体で遊ぶと、レヴァンタはもういっぱしの攻め手に成長していた。クリノの秘洞を掻き回す指からもどんどん拙さが消えて、ついには性戯の師を指先一つで自在に喘がせるようになった。経験が浅く加減を知らない分、レヴァンタの青臭い若さをぶつけられているようで、クリノの頭蓋は幾度も喜びに満ち溢れた。レヴァンタの乾いた、長い指の感触に深く淫していると、はしたない表情を晒してしまっていたようで、レヴァンタに心配の声をかけられた。
「クリノ! 大丈夫?」
「うん、大丈夫……凄いわ、あなた。とっても筋がいい。されるよりは、きっとする方が向いているでしょうね」
「それは、つまり、君とは逆……」
「そんなことにも気が付いたの? ますます楽しみだわ……私達、いい番いになれるかも知れないわね」
「番いって?」
汗に濡れたレヴァンタの頬を緩く撫でながら、クリノは小さく笑いかけた。
「この川の源にある『誓いの泉』で、私達のお母様方、二柱の地母神様にお願いするの。もし互いに番いとして相応しいと認めてもらえたなら、結婚の証に互いの心を繋げてもらえる。まあ、まだ深くは考えられないかもしれないけれどね」
「心を、繋げる──」
「二人の感じることや思うことが、望むままに相手にも伝わるのよ。いつどこに居たって一人ぼっちじゃないし、こうして肌を重ねる時も、何倍も気持ちよくなれるらしいの」
「すごいね、それ。私もクリノとそんな風になりたい」
「ありがとう。でも、すぐには無理よ? とっても長い時間をかけて、お互いのことを大好きって思う気持ちを積み重ねないと、ね」
流し目を使いながら脚をさらりと撫ぜてやると、若きニンフはぶるりと身を震わせ、上体を起こしてクリノに覆い被さった。微かに触れ合った互いの乳房を、幾筋もの汗が伝っていく。誘惑はうまく行ったようだ。
「私、頑張る。もっとクリノの深くに行って、一緒にいっぱい気持ちよくなりたい……」
「うん、教えてあげる。あなたが欲しがれば、欲しがるだけね」
「ああ、クリノ! もっとくっつきたい……キスしよ……」
「ん、んん! もう。ちょっと忙しないったら」
実に五十も四季が巡る間、二人は幾度となく肌を重ねた。時が積み重なるごとに、二人の身体はぴったりと馴染んで、その度に快楽はいや増した。平常では変わらず気弱で内向的なレヴァンタだったが、クリノを抱く時はとても活発で、そのたわわな肢体を存分に貪った。レヴァンタと肌を重ねるに至っているのは、この時点ではクリノだけのようだった。皆が知らないレヴァンタの一面を自分だけが知っているのだという実感は、快いものをクリノの心に与えていた。
変化の前触れはごく些細なものだった。それまで二人の関係には細かな進展こそあれど、その大枠は概ね変わることは無かった。転機は奇しくも今クリノが身を置いているのと同じ秋の日、人間達が「四季の訪れ」を終えてその生息域へと引き上げた後に訪れた。
「レヴァンタ、それは何?」
ある時、所在の解らなくなったレヴァンタを探していると、彼女は木のうろに腰掛けて、何やらうんうんと頭をひねっている最中だった。レヴァンタの手には四角く分厚い紙の束があり、彼女はそれをめくっては何事かをぶつぶつと呟いていた。クリノが呼びかけると、レヴァンタはぱっと顔を上げて、嬉しそうに教えてくれた。
「本っていうんだ。この間、『秋』と一緒にやってきた人間から貰った。読み方も教えてもらったんだよ」
「読む? これを使って、何を読むっていうの?」
「文字だよ──ああ、だから、ええと。ここに来る神官達が、みんな紙に描きこんでる小さな模様のことだよ」
「ああ、あれのこと……」
「文字が読めれば、神官達が書いたことも解るようになる。彼女達がこの島のどのような点を気にしているのか、一体私達の何を観察しているのかだって……そして、その他にも文字で書かれたものがあれば、色んな優れた知識や考えを取り入れることが出来るようになるんだ」
紙の束を漁り続けるレヴァンタを、クリノは頬杖をついてしばらく観察した。レヴァンタは草むらの上にへなりと座り込み、紙の上の文字を指でなぞりながら、時折紙を上に下にとめくった。木の枝で戯れる猫にも似た、あどけない光景に思える。表情にさえ気を払わなければ。
少なくとも楽そうな顔ではない。額には大粒の汗が浮かび、見開かれた眼はすっかり乾ききって、レヴァンタの並々ならぬ集中を示している。しかし時折吊り上がる口元には、何か愉しみに類いするものが確実に浮かんでいるので、クリノは口出しできなかった。未知の世界を拓いていく喜びを、レヴァンタはまさにその手で知っていく最中なのだった。
そのまま、何日何晩でもそうしている。ネズミやリスが頭の上を通り過ぎ、肩に鳥が止まっても、集中したレヴァンタは意にも解さないのだった。まるで身体が石に変わってしまったように──その異様さは、少なからず他のニンフにも伝わり、その心に様々な感情のざわめきを起こしていた。
「最近のレヴァンタって何してるわけ? ニンフの務めも果たさずに、ずぅっとおかしなことにのめり込んで。一体何考えてるのかしら」
島のニンフでも一際強気な性格の者──例えばラルなどは、レヴァンタのことをそう評して憚らなかった。日陰者のレヴァンタは、こうした少し尖った気質のニンフ達からは軽んじられる傾向にあった。彼女達はニンフ達の中でも一際享楽に長けている割に、周囲に対して少し冷めたスタンスを取っていた。ラル達の目には、レヴァンタは無為な苦行に励む変わり者としか映らないのだ。
「ラル、そんな言い方は」
「本当のことじゃない。クリノ様も酷いと思わないの? こぉんなに寂しそうなクリノ様をほったらかしにして、一人遊びばっかり」
同族たちの口さがない批評を、クリノはあまりきっぱりと否定することが出来ないでいた。当のクリノ自身にも、今のレヴァンタの考えがまるで理解できなかったからだ。
レヴァンタの聡明さであればちゃんと知っていたから、これも何かアイデアがあってのことであろうという信頼はあった。けれど、それはあくまでレヴァンタをよく知っていて、それも度量の広いクリノの見解でしかない。レヴァンタの意図がラル達のお眼鏡にかなうものかといえば、そんな根拠はない。余計な一言故にレヴァンタへのさらなる悪口を引き出してしまうことも、クリノにとっては懸念すべき事柄だった。
「ふふ、クリノ様のここも寂しいって泣いてるわ? あたしの舌で慰めてあげる」
「ああっ……あっあっ、ああ! いきなり強く……そんなに弾いたら……!」
「もう、遠慮しなくていいのに。あいつはずーっと一人っきりで満足なんだから。あたし達は二人でしかできないこと、いっぱいしましょ……」
「でもっ」
クリノにとって、レヴァンタだけが大切な友達というわけではない。レヴァンタを世話する時間が無くなる分、クリノを想う同胞達が次々と彼女に誘いをかけて、クリノもまたそれに応えた。レヴァンタの生まれるずっと前からニンフ達の手によって拓かれていた身体は、度重なる行為をたやすく受け入れた。レヴァンタの不在によって募る無形の寂しさを、クリノは他のニンフとの閨の中で存分に紛らわした。
「ほら、イって。あんな野暮なやつのことなんて、忘れちゃえばいいんだよ」
「ひゃ、やあ! ア──んんー──!!」
「あは、クリノ様ったらすごい顔。ほら、クリノ様の蜜をたっぷり含んだこの口とキスしましょ」
「ン……ん……んんんん……!」
ラルの巧みな舌遣いに翻弄され、軟らかな乳房を幾度も震わせた。悦楽の世界に上り詰める直前でさえも、クリノの脳裏にあったのはレヴァンタの青い熱を帯びた視線だった。思えば、クリノの中でレヴァンタへの想いが形となったのはこの頃だったかもしれない。今まで庇護の対象と思っていた想い人が初めて傍から離れた時、クリノの恋は本当の意味での開花を遂げたのだった。
けれど、人のものにしろ、精霊のものにしろ、時間が想いを待つことはない。クリノが花咲いた想いに気づく前に、次の変化がレヴァンタを見舞いつつあった。それは草木の色がくすみ、あらゆる息吹が鳴りを潜める、冬の始まりの出来事だった。
「……あら?」
レヴァンタの様子を見るために彼女のねぐらへと向かったクリノは、すぐにただならぬ様子に気が付いた。レヴァンタは丘の麓の小さな洞窟に住んでいて、ぽっかりと空いた洞窟の中に沢山の石ころや落ち葉、それに人間から貰った「本」を貯め込んでいた。
空気さえも凍り付くような朝だった。薄い日光が外から徐々に射しこみ、洞窟の中を微かに照らし始めていた。レヴァンタの手によって綺麗に整えられた地面の上に、彼女の生白い両脚が力なく投げ出されているのが見えた。胸は浅く細やかに上下し、握りしめられた手は微かに震え、そして青白い寝顔は苦悶に締め付けられて深々と歪んでいた。
「ああ、そんな!」
クリノの激しい狼狽は波動となって森中を伝わり、たちまち全てのニンフ達を呼び寄せた。気に掛けていた者達も、意地悪を言っていた者達も──あの皮肉っぽいラルでさえも──事ここに至ればみな激しい憂いの表情を湛えていた。レヴァンタの傍らにある書物を誰か一人でも読むことが出来たならば、彼女らはそこに書いてあることを片端から試したことだろう。しかし、誰が何をしたとて、これはどうにもならない事だった。
レヴァンタは決して病ではなく、ニンフ種に普遍の変化に晒されているに過ぎなかったのだ。悪夢にうなされたようなレヴァンタを見ているニンフも、一人、また一人と感づき始めていた。レヴァンタに顕れているのは、精霊達の最も恐れる兆候に他ならなかった。
「間違いないな、これはもう」
クリノよりもいくらか年配のニンフが、レヴァンタの枕元でそうこぼした。クリノほど強い力は無いが、年月に培われた落ち着きがあり、日頃から皆に頼りにされる者だった。彼女の言葉であれば、憔悴のクリノも幾ばくか気を静めて聴くことが出来た。
「レヴァンタは変わりかけてる。人間達のもたらしたものが頭の中でぎゅうぎゅうに詰まって、彼女の形を変えようとしているんだ」
「どういうこと? 私、どうすればいいの?」
「癒やしの力をいくつか試してはみたが、効き目が無い。レヴァンタ自身が強く拒んでいるのだろう。これではどうにもならない」
「そんな!」
「恐らくきみは最後の最後までレヴァンタを気にかけるだろうけれど、危なくなったらすぐにここを離れるんだよ。それがきっとレヴァンタのためでもある」
年配のニンフは去り際にレヴァンタを一瞥すると、後ろめたげに顔をしかめた。
「レヴァンタとて、一番世話になった相手を丸呑みになどしたくないだろうから」
───例え価値観や性格が変わろうとも、人間であれば、それが直ちに自身の形に現れることはない。しかし、精霊の類いはそうはいかない。精霊にとっては心の形こそが己の有様であり、精神の形が変われば身体もまたそのままでは居られない。
精霊種の精神に伴って起こる大きな変化を、人の世では「変生(へんじょう)」と呼ぶのだが、精霊達にとっては当然知る由も無いことだ。即ち、高邁な悟りへと至った者はより力ある精霊に。心に傷を負った者、邪悪な愉しみを知った者は呪いを帯びた魔物に──今のレヴァンタに起こっているのがそのどちらであるのかは、外からは誰にも判別がつかない。そして、精霊の中でも有数の清らかな心根を持つニンフが変生を成すとしたら、それは大抵が後者なのであった。
見舞いに来るニンフ達も、日が経つと共に数を減らしていく。魔物の発する瘴気は、まっとうなニンフにとっては毒なのだ。レヴァンタが魔物に身を変えるのであれば、もう共には生きられない。しかし、クリノはその場を離れる気になどとてもなれなかった。
「お母様方、レヴァンタの苦しみを少しでも取り除いてください。またこの子と楽しい時を過ごしたい……」
責任を感じていなかったと言えば嘘になろう。レヴァンタをここまで放置し、変生に至ることを許してしまった一番の責任は、確かにクリノにこそあるのかも知れない。
しかし、クリノの胸の内の大半を占めていたのはそんなことでは無かった。もっとあやふやで単純な一事──レヴァンタの苦しみがそこにあるのなら、自分がその場にいてやりたい。この手でレヴァンタの苦しみを少しでも受け止めてやりたい──その一念だった。森の中で初めて彼女を見いだした時の気持ちに似た、静かで熱い意思が胸の底から湧き上がり、身体中を満たしていた。他の誰に対しても抱いたことのない、強靭な芯の通った愛情だった。
自身の願いのために、出来る手立てを尽くすことにする。レヴァンタの眠りを妨げないよう、日中の洞窟には簡易な蓋を施すことにした。小さく痩せた身体に手を当てると、それだけで彼女の命のありようが千々に乱れ続けていることが感じられて、胸の底がとてもざわつく。本来であれば島の土に使うべきニンフの魔力を、レヴァンタの命を整える事に使い続け、クリノはたちまち疲労困憊に陥ってしまった。
仲間の差し入れてくれる果実を口にし、力の回復に努めている時でも、レヴァンタの傍を離れたくはない。胸の隅を甘く疼かせるレヴァンタの目は、未だに固く閉ざされた瞼の向こうに隠されたままだ。あの薄明じみて輝く瞳にもう一度出会えるまでは、本物の暁を拝めなくとも構わない。クリノは本気でそう願っていた。彼女もまた、心身ともに限界に至っていた。
最後の、もっとも決定的な変化が起こった時、クリノはもう夢と現の境も解らないといった有様だった。起きている内は常にレヴァンタの身に力を注ぎ続け、時折糸が切れたように眠り、目覚めればまた同様の事を繰り返す。そんな生活を続けていれば当然のことだ。とにかく、二人の閉塞に満ちた生活は唐突に終わりを告げた。
「ん……」
その日、クリノに目覚めをもたらしたのは、冬の終わりの澄んだ気の冷たさだった。レヴァンタの手を握り、自身の生気を分け与えながら眠りに落ちることにはもう慣れっこだった。だから、瞼が開ききるまでもなくクリノは気が付いた。レヴァンタが、あの世界で一番愛しく小さいものが、その手の中に居ないことに。
「レヴァンタっ!」
身体を起こし、辺りに感覚を巡らせれば、すぐにレヴァンタの居場所は知れた。今居る場所の真上から、強い生命の気配を感じる。つまり、この洞窟のある丘の頂点だ。
「いけない──」
クリノは傍らに脱ぎ捨てられた毛布を抱えると、すぐさま小山を駆け上り始めた。脳裏をよぎる大きな不安の影を振り払いながら、もつれた足を進ませる。魔物に成り果てることが、ニンフ種としての零落がなんだというのだ。どんな姿になり果てたとしても、絶対にレヴァンタを自分の元へと取り戻してみせる。ただその一念だった。そして開けた丘を五分ほど登ったところで、クリノはようやくそれを目の当たりにした。
「やあ、クリノ。いきなり傍を離れてごめんよ。だいぶ苦労をかけていたようだね」
思わず目を見張る。金色の朝日を身に浴びてそこに立っていたのは、確かにレヴァンタであってレヴァンタではなかった。弱弱しく人見知りし、クリノの後ろをついて回るあの小さく可愛らしいものは、もうこの世のどこにも存在していなかった。
「いろんなものが随分と小さくなってしまったよ。慣れるのに時間がかかりそうだなあ……」
まず、身体の大きさがまるで違う。クリノの胸元までしかなかった身長が、もうクリノを頭一つほど追い越している。華奢だった身体は確固たる厚みを得、その四肢はふくよかに逞しく発達している。他のニンフ達と同じように白かった肌は、日に焼けたように幾分か色を濃くしていた。精霊というより、それは四季の折々にこの島を訪れる人間に似ていた。
背を流れ落ちる黒髪は僅かに癖がかっていて、さながら清冽なる大滝だ。すっと通った鼻筋、弧を描く薄い唇は、見る者総てを魅了する輝かしい比率に支えられている。しかし、涼やかな目元から覗く薄紫の瞳は、紛れもなくクリノのよく知るものだった。
その両目が嬉しさと共に細められ、こちらを眩しい気持ちにさせるはにかんだ笑みを形作った。どんなに有様が変わっても、笑い方だけはどうしようもなく見知ったレヴァンタのままだった。
「本当に心配をかけたね。私はこの通り元気だよ」
よもや、同じニンフを二度も仲間と引き合わせる羽目になろうとは──生まれ変わったレヴァンタと再会した島の住人達は、案の定揃って目を円くした。レヴァンタの身体から溢れ出る生気は、ニンフの放つそれの清浄さを保ちながら、今までのそれとは明らかに比べものにならない大きさだ。居住まいも振る舞いも堂々としていて、あの物怖じした態度は見る影も無かった。レヴァンタはたちまち島の話題の中心となり、周囲に同胞達の姿が絶えないようになった。
一方で、過去にレヴァンタを軽侮していたニンフ達の一部は、なかなか彼女を認めなかった。レヴァンタの口から語られる流麗な言葉や考えにもいい顔をしない。歓迎のムードの中で、彼女らの不満は静かにくすぶっていた。
「随分と遊びがいのある身体になったね、レヴァンタ」
レヴァンタが「成長」を果たして十日ほどが過ぎた頃、ついにラルが痺れを切らせた。当時のラルは仲間内でもそれなりの攻め手で、多人数で交わる際にも中心となることが多かった。何人もの仲間を惜しげもなく侍らせるラルの姿は、さながら森の女王といった風情で、多くのニンフが彼女の魅力の前に傅いていた。レヴァンタに対する態度にも、そこに裏打ちされた自信が多分に見て取れた。
「でも、どうせ中身はリスみたいな臆病者のままでしょ? あたしの閨に来なさいよ。自分が何も変わらないってこと、教えてあげるわ」
「構わないよ」
レヴァンタは喜んでラルについて行った。二人はラルのねぐらたる大樹の洞に入り、それきり何日も出てこなかった。通りがかった者、心配して見舞いに来た者──クリノは言うまでもなく──は、皆がねぐらから響く声に耳を傾けたものだ。聞こえてくるのはいずれも獣じみて濁った嬌声ばかりで、淫靡な精霊達はレヴァンタがどんな苛烈な攻めに遭っているのかと想像し、腹の内を熱く疼かせた。
「やあ、お待たせ」
やがて日が五度ほど巡った頃合いに、ラルを伴ったレヴァンタが洞窟から歩み出た。一糸纏わぬ姿の二人からは、存分に情事に耽った後の甘ったるい気配が香り立っている。その気配を浴びただけで、目をうっとりさせてへたりこんでしまうニンフも数多くある。しかしそれ以外の者達も、やはり動揺を隠せなかった。
ラルのことをよく知るニンフ達は、レヴァンタがすっかり陥落したものと思い込んでいたのだ。当時は島一番の遊び人として生を謳歌していたラルに、島の片隅で趣味に耽っていたニンフが敵うはずがないと。しかし、顕れたのはそれとはまるで逆の光景だった。ラルは従順な様子でレヴァンタに腰を抱かれ、今まで見せたこともないような恍惚をその表情に宿していた。四肢は淫らにレヴァンタの豊満な肉体へと絡みつき、股からは未だに幾筋もの愛液が脚へと伝っている。
それで、その場に居た全員が理解した。洞窟から響き渡っていた嬌声は、ラルのものだった。今まで誰も彼女をあれほどに喘がせたことがなかったので、声を聴いてもそうとはわからなかったのだ。
「いやあ、ごめん、遅くなって。本で覚えた『睦言』っていうのを全部試してたら、こうなっちゃって……」
「ねえレヴァンタぁ……やっぱり戻ろう? 私、もっと可愛がってほしい……」」
「さすがにこれ以上は皆が心配するからね。今はこれで我慢してほしいな」
「ん、わかったぁ……ぢゅ、ちゅ、れるれるれぅ……」
誰にもなびかないかに思えたラルがすっかりレヴァンタの虜となったことは、ナメクジのように絡み合う舌同士を見れば明らかだった。残念がる者もあったが、多くのニンフ達は興奮し、そしてレヴァンタに強い興味を抱いた。この件をきっかけに、レヴァンタはすっかりこの島の中心人物となっていった。ニンフ達はこぞってレヴァンタに話しかけ、贈り物をし、また遊びや情事に誘うようになった。
レヴァンタもまた、そんな彼女達の好意にただ寄りかかるようなことはしなかった。むしろ、その好意を上回るほどの献身を見せたと言っていいだろう。目覚めた後の彼女は、ねぐらに溜め込んでいた沢山の本を数日程で読み果たすと、そこから得た知識をニンフ達のために使い始めた。
飽きっぽいニンフ達にとって、ほとんどの試みはさしたる影響を与えなかった。けれども、自身らにとって程よく質素で住みよい家を作るとか、森のハーブや木の実からお茶を作って味わうとかの小さな「文化」が、確かに精霊島に根付いていった。
島のコミュニティに起こった変化は、人間達にも大きな驚きをもって迎えられた。彼らは人間の領域に居ながら、何らかの手段でレヴァンタの身に起こった異変を知っていたらしい。一連の事件から初めての「四季の訪れ」では、いつもの顔触れとは違う年配の神官が幾人も船に乗っていて、レヴァンタを興味深そうに眺めていた。慎みにくるまれた質問の礫に淀みなく答えながらも、レヴァンタから質問した事柄はたったの一つだけだった。
「ねえ、キリコはどうしたのかな? とても世話になったからお礼がしたいのだけれど、ここに居ないのはどうして?」
レヴァンタに書を与えた神官の名だ。神官達がためらいがちに語ったところには、彼女はまさに職を追われようとしているという。罪科は、精霊に対して過度な干渉を行った事──キリコが規律に反してまでレヴァンタに書を与えた理由に、クリノは心当たりがあった。森の空き地でレヴァンタに何事か頼まれている彼女を、実際に見たことがあったからだ。
レヴァンタのしなやかな指に手を握られ、潤む瞳で見据えられ、さっと頬を赤くするキリコの横顔。あれを見れば、いかに心の機微に疎いものであろうとも理解できるだろう。頼みごとの中身が何であれ、彼女には決して断ることが出来なかったということを。
「ふむ」
レヴァンタはしばし考え込んでから、宙に両手を広げ、何事かを呟き始めた。レヴァンタの掌から滲みだした魔力が、空中で一塊となり、幾重にも捏ね繰り回され、やがて一枚の薄い膜となる。膜はやがて、普段ニンフ達の着ているものよりも一段とキメの細かい、上等な一枚の布となった。レヴァンタはそれを恭しい仕草で手に取り、筒型に丸めると、一人の白髪の神官に手渡した。それは風の噂で伝え聞く、人間達の使うという「魔術」によく似ていた。
布を受け取った神官が、それを広げた途端に思わず腰を抜かしていたのを覚えている。輝きさえ放たんばかりに素晴らしく紡がれたその布は、やはり丁重に折り畳まれてから人間達の領域へと持ち帰られた。
その布に当時の神官長に宛てた請願文が刺繍されていたこと、これがきっかけとなってキリコの処罰がかなり軽くなったことを、クリノはだいぶ後になって知ったのだった。
「どうしてそんな風に変わってしまったの? 何があなたを変えたの?」
成長したレヴァンタと初めて肌を重ねた頃には、冬はすっかり鳴りを潜め、次の年の春が既に終わりに差し掛かっていた。日は未だに明るく二人を照らし出し、その起伏の大きい肉体に濃い影を落としていた。
愛蜜に濡れそぼった指先をぺろりと舐めると、レヴァンタは微笑みと共に「クリノは今の私が好きじゃない?」とだけ返した。
自然、クリノは慌てて反論せざるを得ない。
「レヴァンタのことを嫌うだなんてあるわけがないでしょう? どんな姿になったって……例え魔物に姿を変えてしまっても、私ずっとあなたの傍に居たいわ」
「ありがとう。でも、何だか浮かない顔をしてる」
「それは……色んなことが急すぎて。正直、気持ちがまだついていけてない」
「うん、うん。それもそうだね」
レヴァンタはもっともらしく頷くと、余り汚れていない方の手を伸ばし、クリノの片頬を撫ぜた。かつてはクリノに撫でられるだけでぐらぐらと揺れていた薄青の瞳には、今や少しの乱れも見られなかった。
「今はまだ、十全に納得してもらうのは難しいと思う。私に起こったことは、私達の代はおろか、この島の長い歴史の中でもまるで例のないことだろうから」
「例のない、って──」
「地に落ちた木の実は腐り、道を外れたニンフは魔物となる。物事が変化を示す時、それは大抵が私達にとって都合の悪い方へ転がっていくものだ。私達ニンフにとってさえも、それは当たり前の理だ。だから、今の私の状態を不安がるのも無理からぬことさ」
レヴァンタは少し首を傾げると、クリノの前髪を掻き上げ、額に恭しくキスをした。胸の中でもやもやとわだかまっていた感情が、たちまち
輪郭を無くしてしまう。思えば、それは微弱な催眠のまじないを含んでいたのだが、当時のクリノはまるで気づかなかった。こちらの瞳を覗き込むレヴァンタの笑みは優しかったけれど、どこかぎこちなさを含んでもいた。
「どうか、今は私を信じてほしいんだ。この変化は決してこの島にとってにとって悪い結果をもたらさないと。君を悲しませたり、苦しませることはないと。いつか全ての理由が解る時が来るから、君はいつも通りにしていてほしい。優しくて、柔らかくて、慈しみ深い、みんなの女神様で居てあげてほしいんだ……お願いだから……」
急速に眠りの闇へと落ちていく意識の中でも、レヴァンタの言葉はくっきりと心の底に残った。そして、クリノは実に四百年もの間、ずっとその頼みに従い続けてきた。
認めたくなかったけれど、うっすらと解っていた。あの日のレヴァンタが、言葉巧みにクリノの疑問から逃れたことを。クリノの欲する答えを知っていながら、それにはまるで触れずに話を終わらせてしまったことを──そのズレは、今に至って一度も直されることなくそこにあり続けた。歪みは長い時間を超えて大きくなり、今やクリノを強くさいなむ後悔となっていた。
痛む胸を押さえながら、現在のクリノは思う。
(結局、たった一度さえも言えなかった。時間はたっぷりあったのに)
(『私を置いていかないで』と一度でもあの子に訴えられさえすれば、私こんなに苦しまなくて良かったのに───)
†
川の音が聴こえる。絶えることなく過去を運んでいく冷たい流れを前にして、クリノは一人膝を抱えてうずくまっている。
レヴァンタと出会ったこの川は、かつてクリノが一跨ぎに渡れるくらいに小さかった。しかし、途方もない年月の中で岸が削られ、今ではクリノが十人横に並んでも及ばない程に大きな渓流となった。少し上流側の川岸で、鹿の親子が水を飲んでいる。一枚の枯れ葉が忙しなくクリノの目の前を横切って、くるくると回りながら下流へと消えていく。
「居なくなっちゃいたいなあ……」
呟きは、川がごうごうと立てる水音にたちまち掻き消されてしまった。この川がいつからここまで逞しい音を立てるようになったのか、クリノは知らない。数千、数万と訪れた場所のはずなのに、川がいつから森でも有数の大河となったのか、クリノにはまるで解らない。
確かなのは、この川を大河たらしめた本当の出来事は、今よりもずっと過去に起こってしまっていたということだ。誰の眼にも見えない形で、誰にも感じ取ることの出来ないくらい些細なきっかけで──それが、今のクリノには口惜しかった。今まで自分が見逃してきた数えきれない程の兆しが、両肩の上に積み重なって、身体を地面に押さえつけているようだった。
「……」
先程から、後ろに立つ者があることには既に気が付いていた。慣れ親しんだニンフの気配。きっとクリノを驚かせたり緊張させたりしないよう、ゆっくりとした足取りで後を追ってきたのだろう。
「さっきぶり、って言うのかな?」
やがて、それは後ろの木々の間からするりと抜け出ると、草を踏みながらこちらへと歩み寄ってきた。そして川辺までやってくると、片脚を優雅に伸ばしてクリノの隣に腰掛けた。
「少しお喋りしないかい。多分、今の私達にはそれが必要だから」
レヴァンタの低く優しい声が、川音のヴェールを越えてクリノの耳に触れた。 紫の花咲く川辺にそよ風が吹いて、二人の髪を僅かに揺らした。
(続)
〈作者 あとがき〉
賢くはなったけれど、本心を包み隠す狡さも知ってしまったレヴァンタであった。
次回、ちょっと拗れる二人。
新米ホヤホヤの巫女ップルが鍵となるか。