郊外にある庭付きの豪邸で、もはや私にさえ誰かわからない、どれかの菊花が主催したパーティーを二階の自室から眺めている。
秋の夕暮れ時、バーベキューにはたくさんの人が参加していて。私はその集まりからこうして距離をとっている。
菊花は宣言通り、際限なく繋がりのある相手を家族にしていった。
手始めに、翠鹿としてバイト先の先輩である瑠衣さんを。続いて、菊花として、あの子を自殺に追い込んだ友達を。菊花の母親である薫子さんには、新しい人格を創ることで、日美香もまとめて、あらためて家族に戻った。
ありとあらゆる手際が、鮮やかだった。そしていつの間にか、所属しているゼミの人たちが、教授も含めて、どれかの菊花を愛し、どれかの菊花に愛されていた。
いまはまだ、大学の校内で菊花の愛は留まっているけど、もうすぐ愛の連鎖は校舎から羽ばたき、町に種を落とし。県に根を張り。海を越えて国を穢す。
菊花があの朝焼けに語った夢が、夢ではなくなりつつあることを予感しながら。私は際限なく肥大化していく人間関係の中心にいる、誰かを窓越しに見つめていた。
「そうなんですかー。知らなかったですー」
もはや私と日美香でさえ知らない菊花が、大学の教授陣を相手に中身のない相槌を打っている。
暗闇のような菊花でもなければ。大勢を誘蛾灯のように惹きつける翠鹿でもない。この菊花も名前を持っているはずだけど、興味がないから知らない。
どうして大学教授という賢い人たちが、あんな浅はかな褒め言葉に心惹かれるのか。自分で自分のことが情けなくならないんだろうか。
菊花の肉体は美人だと思うから、若い女の子にそれらしいことを言ってもらえたらそれだけで、あの年齢になると充分幸せなのかもしれない。
それにしても、菊花と交流を持っている教授陣の中に文系が一人もいない。理系という区分ですらなく、工学系・化学系に偏っていて……危険なものを感じないと言えば嘘になる。
振りまく愛の行き着く先を想像して、考えることを中断する。
「あんなの相手にして、なにが楽しいんだか」
愚かなのは教授たちだけじゃない。菊花のどれかに惚れた人の中に、大企業のお嬢様がいたから、菊花は庭園付きのお屋敷をプレゼントされた。
菊花の一番の家族である私と、二番目の家族である日美香には、そのお屋敷の一室が与えられている。
正直、シャンデリアが飾られているような絢爛な部屋はいらなかった。だけど、菊花と例のお嬢様にどうしてもと言われて、流されていつの間にかここに住むことになっていた。
ここに住んでいると良いことも多い。家賃はかからないし、光熱費だってお嬢様が払ってくれている。掃除も頼めば使用人が代わりにやってくれる。
でも時々思い出す。日美香と二人で住むのがギリギリの部屋で、四人で暮らしていた、あの頃を。
「蓮、いる?」
このお屋敷にばつの悪さを感じていると、日美香の声と共に扉がノックされる。
「開いてるよ」
菊花の婚約者として挨拶回りをしていた日美香を声で招き入れる。彼女の両手には、焼きたてのお肉や野菜が乗ったプレートが一枚ずつ。
「私の分も持ってきてくれたのか?」
「知ってる人が誰もいないから、それなら蓮と一緒に食べたいなって」
私と一緒に。その一言に年甲斐もなくはしゃいでしまう自分と、寂しさを感じる自分がいた。
確かにあの場には、私たちの知り合いが一人もいない。いまいる菊花は菊花じゃないし、大学の教授や学生の何人かとは普通に顔を知っているけど、特別親しいわけじゃない。
素直に生きている日美香が表現するなら、知らない人になると思った。
「私と蓮の分って言ったら、数が少ない一番良い希少な部位をたくさん乗せてくれたよ」
「菊花の第一、第二家族だからな。特典がいっぱいだな」
「一番平凡な二人なのにね。蕩けた視線で見てくるから、居心地悪いよね」
「だな」
星つきのレストランにあるようなテーブルに向かい合って座って、バーベキュー料理を食べる。
味はこれまで感じたことがないほどだった。お野菜を噛めば噛むほど深みがあるとか、口に入れたら溶けるほどお肉が柔らかいとか。そんな感じ。
私のような人間には、菊花の新しい家族である、お嬢様お抱えの一流料理人の技術も、Aランクの食材の味も、正直よくわからない。
私も日美香も、そんなものはいらなかった。ただ四人で三割引きの食材を使った家庭料理を、一つのテーブルで囲めたら、それだけで。
「……菊花、どうしちゃったのかな?」
「こんな時まで菊花の心配か?」
正直、私たち二人が置かれている状況は、菊花の心配をしていられるほど穏やかなものではない。
菊花が人格を分割してまで広げようとしている家族の輪には、過激な偏りを感じる。それを抜きにしても、菊花の母親である薫子さんよりも特別な家族としての扱いを受けている私と日美香へ向けられている、増殖し続ける知らない家族からの感情はほとんど敵意の領域。
「家族としては二番目でも、婚約者は私だから。菊花の人生を支えるのは、私の役割だよ」
菊花に愛されていることで身の危険が生じかけているにも関わらず、日美香が菊花に抱く感情は全く揺れない。その一点だけで、菊花になりたくなる。
日美香が菊花へ向ける健気さを、私だけのものにしたかった。なんて、いまさらな気持ちが湧いてくる。
日美香を独り占めにする機会はいくらでもあったのに、全て逃して。すっかり私は日美香の二番目。
私の一番は、ずっと日美香なのに。その気持ちには気付いてくれない。
言葉にすれば伝わるのに。一番だと伝えて二番目にされるのが怖いから、日美香を二番目であることにしておく。
「蓮は心配じゃないの?」
「どうだろうな。あいつのことよりも、自分と日美香の身の危うさを感じてるよ」
「菊花は人を傷つけるようなことは……そんなにしないから、きっと大丈夫だよ」
「日美香にそう言われると不安になるな」
菊花がどこに向かおうとしているのか。日美香にわからないなら、私にわかるはずがない。
他人の人生なんだから、好きにすればいいと思っている。だけど、少しは家族の……一番大切な家族の幸せを考えてほしい。
菊花が自分を何人に分割したとしても、菊花とあの子の二人は、いつまでも私と日美香の家族だから。
※※※
夕食を食べ終えて、日美香が私の部屋にあるベッドに横になる。そのまま数分が経つ頃には、瞼を閉じて、そのまま眠っていた。
日美香が私の部屋にいる。それが嬉しい。大学に入って、二人暮らしが始まって。恋人にはなれないけど、親友として同じ時間を共有する。あの頃の私たちと、いまの私たちは、違う場所にいるんだろうか。
指先での髪を梳かしたくなるけど、勝手にそういうことをする資格がある自信が持てなくて。テーブルに座ったまま、日美香と窓から覗く景色を交互に眺める。
いつの間にかバーベキューパーティーは終わっていて、後片付けが始まっている。そこに主催者である菊花とお屋敷の主であるお嬢様の姿はない。
「こんなところでも階級社会か」
後片付けが卑しい仕事だとは思わない。だけど、菊花と、彼女の寵愛を受けている私と日美香はそうした雑事の全てから無条件で解放されている。
菊花への愛で駆動している集団だから、菊花からの愛の一位と二位はそれだけで偉い。会場であるお屋敷と食材を提供してくれたお嬢様でよりも、私たち二人の方が特別扱い。
同じ愛を分け合えば、そこに順位が生まれることはなにとなしにわかっていた。それが組織の論理に昇華されたら、愛の順位がそのまま地位になってしまう。
この在り方を愛と呼ぶことが相応しいとは思えない。愛とはもっと、戻りたいと思えるものではなかったのか。こんな場所にいたって、居心地が悪いだけ。
日美香の方になら近寄りたいと思える。あの胸の中に飛び込みたいと願える。だけど、日美香の二位である私は、日美香へ帰っていいのかわからない。きっと日美香は気にしないだろうけど、二位だから、拒絶される”もしも”を想像してしまう。
「こんなになっても、私たちはずっと同じ場所にいるのかもな」
日美香に話しかけるように独り言を零して、返事がないことに安堵する。単純な日美香は、私が進歩したように思ってくれているだろうから。そのまま気付かない、これまで通りの日美香でいてほしい。
そうやって、椅子に座ってぼんやりと夜に揺れていると、扉をノックする音が聞こえた。
日美香に続いて二度目の来客。菊花の愛を一心に受けている私は、菊花の新しい家族たちに酷く疎まれている。そんな私の私室を尋ねてくる相手は、この世に二人しかいない。
「誰だ?」
「誰って、このお屋敷で蓮を訪ねる人なんて、私と日美香しかいないでしょ。開けていい?」
「どうぞ」
いまは菊花のようだから、部屋に入る許可を出す。鍵はついているけど、どうせ誰も部屋の前を通ろうとさえしないから、部屋から出る時以外は閉めていない。
「相変わらず不用心だね」
部屋に入ってくるなり、菊花が苦い顔をしている。菌糸のように拡大を続ける家族の絆の中心にいる菊花だからこそ、私がいかに疎まれているかを知っている。
「随分と家族のことを信頼してないんだな」
「蓮らしくないことを言うね。信頼の形は一種類じゃないだけ。愛し合うことと、無防備な姿を晒すことは違うよ。最愛の人の身となったら、なおさらね」
「無防備に転がってる憎い相手の腹を蹴る意気地すらないやつ相手に、随分と怯えているんだな」
「そりゃ怯えもするよ。だって蓮に手を出したら、ワタシを出さざるを得なくなるんだから」
言葉を発している最中の菊花の左目に、私の知らない誰かが、刹那宿るのが垣間見えた。菊花がどんな意図でこの人格を造ったのかは、容易に想像がつく。
自分を守るためだ。自分が愛するものを守るために、意にそぐわない相手を殺せる人格が必要だった。私に言わせれば、家族を繁殖させなければ、そもそも必要のなかった人格。
菊花は一体人生を何等分にするつもりなんだろうか。世界人口と同じだけ自分を切り分ければ、世界を統一できると考えているんだろうか。
「そうやって外壁を頑丈にし続けて、一体どこに行きたいんだ?」
「どこって……ここ、かな」
菊花が突然、私の胸に飛び込んできた。身構えていなかったから、椅子ごと背後に倒れてしまって、日美香が眠るベッドの上に身体が投げ出されてしまう。
「どうしたんだ、いきなりこんなこと……」
返事をしないまま、ぎゅと私のことを抱きしめてくる。クイーンサイズのベッドの左隣に、眠ったままの日美香を感じながら、私はいま誰に抱きしめられているのか、その主語を見つけられずにいた。
だけど私はこの感触を知っている。甘えているのではなく、私以外に寄る辺がなくて縋りついてくるような。
「……おかえり。また会えたな」
「……ちゃんと私ですか?」
私の半信半疑の言葉に、懐かしいあの声色で答えてくれる。菊花といい、この子といい、相変わらず何の前触れもなく出てきて、消えていなくなる。
「私が決めていいのか?」
「私を見つけてくれたのは、蓮だから」
「責任重大だな」
背中に両腕を回して、そのまま顔を抱きしめる。日美香にはこんな大胆なことできないけど、この子の一番だって確信があるから。
改めて私にはこの子が必要なんだとわかる。安心して触れ合うことのできる、どれだけ愛が増殖しても、この人の一番であり続けられると信じていられる、この子の存在が。
「もう一度君といられて、安心したよ」
「あんまり、いい意味で言ってないですよね?」
「私にとってはいい意味だよ」
「それなら、まぁ」
納得しているような、していないような。この子の存在くらいはっきりとしない口調で、そう言ってくれる。
「それはそうと、どうやって帰ってきたんだ? 翠鹿に喰われて、死んだと思ってたんだが」
「蓮が私を見つけてくれたから……」
その言葉と共に、私を抱きしめる力が強くなる。私の感覚では、菊花の中から急にこの子の片鱗が見えた。だけどこの子の視点では、私が見つけたから、また生まれることができた、ということらしい。
この子ではない菊花ではなく、この子そのものだったはずの翠鹿に喰われた時点で、跡形もなく消えてしまった。あまりにもあっけなくて、抗いようのない死を目の前にして、自分でも理解できない意地だけでこの子を想い続けていた。
そんな私の感情を道標にして、この子は帰ってきてくれた。菊花の心の肉片で組み上げられた、坩堝の中から。
「やっぱり、私の一番は蓮です」
「お前、菊花の……」
そこまで言葉に出て、自分の中で押し込めた。この子が翠鹿に喰い殺された後の記憶を持っていないと、愛の順位なんて言わない。この子は全員を平等に愛そうとしていたはずだから。自分を喰い殺そうとしていた菊花さえ。たとえそれが、私と日美香に合わせたものだとしても。
そんなこの子が、私が一番と言葉にして伝えてくるなんて。この子は、純粋にこの子のままなのだろうか。私には同じに見える。何をどう感じるかも。抱きつき方も。
菊花か、翠鹿か、あるいは他の菊花の記憶や経験が混ざっているくらいでは、この子は毀損されない。そんなにやわな存在じゃない。記憶喪失中の人格は、きっと。
「……こんなこと聞いていいのかわからないんですけど……日美香は眠ってるから。蓮の一番は誰ですか?」
潤んだ瞳で。この子が望んだ答えを考える余地がないほど、わかりきった質問。
日美香の寝顔を左眼で捉える。かわいいと思う。いますぐ抱きしめたいと思うほどに。だけど、私の指先は日美香に届かない。届かせちゃいけない。だって、私は日美香の一番じゃないから。
だけど、この子になら触れたいように触れられる。この子の一番はずっと私だから。
「君が一番だよ」
「いままで知らなかったんですけど、私、うそつきが好きみたいです」
「嘘なんて言ってないよ」
「そうじゃなくて……嘘を本当にしようとしてくれるところが好きなんです」
囁くように。だけど、私に理解して欲しそうに。それはまるで、どこか菊花であるような力強さだった。
菊花にも、似たようなことを言われた気がする。あの時も、私が自分を偽ってまで、この子が一番だと取り繕ったとき。
自分の中に芽生えた譲れないもののためなら、最愛の日美香に二番目だと思われても構わないと、そう行動したときだった。
菊花に言わせれば、進んで不幸になろうとする悪癖。実際、そうだと思うし、私が私を嫌いな理由。
日美香には見透かされていない私の本質。私がどんなことをしても、優しい人だと勘違いしたままでいてくれるから、自分を偽らないでいられる。
蓮とこの子は、私がどれだけ取り繕っても見抜いてくる。でも、どうやら二人は私のそういうところを好いてくれている。それが気に入らないのに……心のどこかが、嬉しいと感じてしまう。
「…………嘘の一番なんかもらっても価値ないだろ」
「そんなことないです! 消えることを望まれていた私に、存在してもいいって言ってくれたのは蓮だから! 蓮にとって本当は二番目でも、可哀想だからってだけの理由で一番にしようとしてくれた! 張りぼての愛を本物みたいに飾り立てようとしてくれた!」
「……私のイヤなところ、全部言葉にしないでくれ……」
この子はまるで良いことのように言ってくれるけど、全然違う。この子を一番にしたかったのは、自分を好きになりたかっただけ。”可哀想な子”を無理矢理にでも愛してあげようとする優しい私であろうとすれば、自分を美しいと思えるんじゃないかって。
記憶喪失中の人格という、世界に顧みられることのない悲劇性を利用して、自分を少しでも愛せるように……日美香に相応しい私だと思えるようになりたかっただけ。
そういう意味では、私がこの子を愛そうとしている理由は菊花と同じ。自分の人生を分割してもいいと思えるほどに自分を好きじゃない菊花が、欠乏した自己愛を補うために、無数の愛を求めているのと本質は変わらない。
「世界が美しいだけの場所だったら、私は生まれた証すらないまま、消えるしかなかったんです! 菊花と日美香を、記憶喪失に乗じて別れさせようとした醜さが、私を救ってくれた! 穢れている蓮だから、いいんです!」
でも、そんな私をこの子は、菊花は本当に必要としてくれる。ようやくわかった。私がどうして菊花が大嫌いなのか。
私は日美香に相応しいと思える自分になりたいのに、菊花はそんな必要がないと私に思わせてくるから。そのままの蓮が素敵だって。
日美香の一番だって思えるくらい自分のことを好きになりたいのに、大嫌いな自分のままで菊花の一番になれてしまう。楽に幸福になれる道を提示してくるから、菊花のことが本当に大嫌い。
「……やっぱり、大嫌いだよ。菊花のことが」
「それじゃ、蓮の大好きと大嫌いの一番を、私と菊花で独占してるってことですね」
苦択のない二人分の笑顔。右側が菊花のようで、左側がこの子のようで、純粋なのにとても歪んだ幸せの表現。それを見て、菊花が本当に求めていたのは、この両腕の中にあるものなのかもしれないと思った。
菊花でもなければ、”翠鹿”という名前を得た途端に消えてしまう、106番目の元素よりも不安定なこの子こそが、菊花なんじゃないかって。
菊花は文字通り、誰にでもなれる。持ち前の器量で、必要に迫られれば、新しい誰かになる。全く新しい価値観・倫理観を手にした新しい人格が、境界があるかすら曖昧なままに、”誰か”の”誰か”として増殖していくことで、愛を繁殖させていく。
菊花は誰でもあって、誰でもない。菊花の肉体は確かに一つなのに、菊花という人格は不定形ですらなくなった。
菊花はいつだって関係の中心にいるのに、菊花だけがいつもそこにいない。きっと最初から菊花すら存在しなかった。薫子さんが人間に菊花と名付けたから、薫子さんや身近な人が望む菊花を演じていただけ。
他人が望んだ自分を演じる能力に長け過ぎていた菊花は、生まれた瞬間……もしかしたら、生まれる前から迷子だったのかもしれない。
記憶喪失になることで他者からの願望に影響されていない本当の自分を見つけたと思ったら、世界中に拒絶されて……私だけがその手を取った。
大学では菊花であることを求められて。メイド喫茶では翠鹿であることを求められて。だけど、きっと私だけがこの子にこの子であること以外、何も求めなかった。
好きになることも、嫌いになることもできないほど自分がない菊花は、無数の人と家族と呼べるほど親しくなれるよう、自分の中に自分じゃない自分を作り続けて。そうして残ったわずかな余白を、本当の自分にしようとしている。それが、この子。世界に存在を望まれていない、無価値な心。
私は幸せになりたかった。でも、嫉妬深くて、欲深く、臆病な私に、そうなる資格はないと諦めていた。
そんな私に、たった一つの愛は耐えられない。他と比較することすら許されない唯一の愛。そんな特別を持続させる自信がない。
でも、菊花は私に安心をくれる。私と菊花は歪みきっていて、順位がつく愛でないと安心できない。たった一つの愛じゃなくて。際限なく等分することを繰り返して、それでもずっと変わらず一位のままの愛。
唯一つという不変ではなく、ずっと勝ち続けているという不変。不滅の愛を信じることができないから、壊そうとしても壊れないことで不滅の保証書を更新し続けていく。
こんな在り方がいつまで通用するかわからない。だけど、もうしばらくはこのままでいられるみたい。
なにせ、どういうわけか私はまたあの子を見つけてしまった。菊花の大海から、存在していないはずのあなたを。狭い病室で出会ったあなたと。
どれだけ菊花が増殖して、世界を耕そうとも。私だけが存在していないあなたを見つけて。あなたは私に見つけられる。
誰にでもなれる菊花が、誰かになり続けて、世界中を塗り潰して。空白がなくなっても、私が真っ白な場所を見つけて。そこが、最初から存在してはいけなかったあなたの居場所で。自分をどうしても好きになることができない私と菊花が、救われる場所。