あとがき

約一年三ヶ月ほどの長期連載にお付き合いくださりありがとうございます! 「記憶喪失中の人格は存在していいのか?」という問題提起からは若干ずれてしまった部分もあるかなと反省しつつですが、個人的には納得いく最終回になりました。

どうすれば記憶喪失中の人格という存在と、記憶喪失中の人格も含めた四人で家族になるという無茶(世界には一婦多妻文化もありますが、そことは違う関係性かなと思い)を、どうやって実現させるかに行き詰まり、中盤迷走してしまった実感があります。

私が作品を描いている理由が「自分なりの答え探し」なので、そうした迷走も含めて楽しかったのですが、付き合ってくれた読者の方には迷惑をかけたかもしれません。

 

この作品のテーマは「記憶喪失中の人格を一個人として認めることは可能か?」だと思うのですが、それは表向きのテーマの部分があります。

私が本当に書きたかったことと言いますか、私の作品のほぼ全てに共通しているテーマ性は「世界に居場所がない存在は、どんな風に生きるのか?」というものがあるような気がしています。作品を書いていると、大体この方向性になっているという……

そうした理由もあり、せっかく三角・四角関係を掘り下げていたので、二人ではなく三人・四人で付き合い家族になるという、一般には許容されないであろう”世界に居場所のない生き方”を書きたくなりました。

共通項のなさそうな「記憶喪失中の人格の是非」と「四人で家族になるという生き方」という二つのテーマ(問題)を、どう着地させれば自分が納得できるのか、かなりの時間悩みました。その私なりの現時点での答えが、この最終回、でしょうか。

一方は世界に否定されながらも、一人の中で抱きしめてもらう。もう一方は一人に否定されながらも、世界を巻き込み増殖していく。

自分でもこれでよかったのかわからない部分はありますが、この結末以外は嘘になる気がしました。記憶喪失中の人格が、世界に祝福されるというのは、あり得ない気がして……物語なので世界に居場所を見つけさせてあげることは可能ですが、それは優しい嘘ですらなく、その場凌ぎなだけに感じました。たくさん足掻いて、でも結局世界に居場所を見つけられなくて。結局、最初に自分を見つけてくれた人の腕の中でだけ存在していられる。その方が本当かなって。

もう一つのテーマである「四人で付き合うという生き方」は、「一般的な二人ではなく、社会との衝突が生じる四人で生きていくと決めた時点で、特定の人数にこだわる意味が消えるのでは?」という疑問が途中から拭えませんでした。

愛している者同士で集まったら四人だったのだから、この四人にこだわる意味はあるとは思うのですが、その在り方で社会に許容してもらえるビジョンが全く見えませんでした。

こちらももう一つのテーマと同様、ハッピーエンドをでっちあげることはいくらでもできたとは思うのですが、嘘っぽくなってしまい、自分で納得できませんでした。

ですが、際限なく愛を肥大化させていくというモデルであれば、社会に居場所を見つけられるなと思えました。選り好みした四人ではただの身勝手と捉えられ、社会から排斥される気がするんですが、百人、一千人。果ては百億の人々と愛し合うのであれば、排斥のしようがないかなって。。

 

病院の一室から始まったとは自分でも思えないほど、こじんまりと、それでいて世界を蝕む結末を書いたつもりです。楽しんで作品を読んでいただけたらいいなと願いつつ……改めて、ここまで読んでくださりありがとうございます!

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