「あの……麗華さんはどこに向かってるの?」
「恋人からさん付けで呼ばれるのはあんまり好きじゃないな」
「れ……」
麗華。そんな言葉が完成する寸前になって、理性が言葉を止めた。心の中で“麗華さん“を”麗華”と呼び捨てにすると、心が麗華さんを受け入れてしまうことを予感したから。
醜い人間を支配下に置く美人を支配し返す。そのためには、麗華さんを心の内側に入れるわけにはいかない。
私の内側に麗華さんを入れるのではなく、麗華さんの内側に私が入り込むことでしか、美人が醜い人間を搾取する世界の理を逆転できない。
だから、麗華さんを呼び捨てになんてしない。呼び捨てにしたら、理性では制御できないほどに、心が麗華さんに親しみを感じてしまうから。
「それじゃ、麗華はどこに向かってるの?」
でも、麗華って呼んでほしいのなら、そうしてあげる。でも、心の中では絶対にそう呼んであげない。麗華さんの心に入り込むために、麗華さんが望む恋人でいてあげる。でも、心は決して差し出さない。
私の心の中では、あなたはいつまでもいつまでも”麗華さん”。
「遊園地とかもいいけど、映画に行こうかなって」
「映画はそんなに……」
「十一時半からのチケットを取ってあるから、それまで近くのカフェでゆっくりしよ」
映画は好きじゃない。そんな意思表明をする前に、麗華さんは今日の予定が決定事項であることを宣告してくる。
まぁ、それ自体は全然構わない。というか助かる。私にデートの知識なんてあるはずないから、麗華さんに率先して予定を決めてもらえる方が良い恋人でいられる確率が上がる。
でも、映画は好きじゃない。だって、映画には美人しかいないから。あんな不自然に漂白された世界を、素直に楽しむのは難しい。だって私は、麗華さんとは違って消される側だから。
「映画館も近いし、ここにしよっか」
麗華さんに連れられて来られたのは、縦に長いビルの一階にあるカフェ。その最上階に映画館があるから、確かに時間を潰すには都合がいい。
でも、レジに並びながら張り出されているメニューを見て、私には致命的な問題があったことを思い出す。
きっと私は、麗華さんとのデートに無自覚に浮かれていたんだと思う。だって、デートにはお金がかかることをいまのいままで忘れていたんだから。
コーヒー一杯六百円。ケーキ一つ八百円。それは時給千円のバイトを詰められるだけ詰め込んで生活を成り立たせている、頼る人がいない私には眩暈がしそうなほどの値段。
「あの、麗華……言い辛いんだけど……」
「お金のこと? それなら心配しないで。最初から蠱惑の分も私が払うつもりだったから。もちろん、これから先もね」
私の名前が私の許可なく呼び捨てにされていることなんてどうでも良くなってしまう発言だった。
私の分も払う? 最初からそのつもりだった? そんな話、聞いていない。
「なんで……」
「なんでって、孤児院出たばかりで、生活費をバイトで稼いでるんでしょ? そんな恋人とのデートなんだから、私が出すのが普通でしょ」
言いたいことが……言いたいことがたくさんある。一目惚れって言っておきながら、私の経歴を知っていた。告白した後に調べた可能性もあるけど、違うと断言できる。
だって、そんな隙があったらトップモデルになれるはずがない。麗華さんは私の過去を知っていて、私に告白したんだ。普通なら近寄りたくない過去を私が持っていることを知っていながら……いや、きっと、知っていたからこそ。
一目惚れなんてやっぱり嘘。こんな顔の人に一目惚れなんてあり得ない。だから麗華さんには別の目的がある。私を恋人にする以上の。聞いたってどうせ、一目惚れしたとはぐらかされるだけだから、ムリに聞こうとは思わない。それに私だって、麗華さんのことを恋人とは思っていないわけだから。
だから、むしろいま本当に問題なのは、私のデート代が全て麗華さんによって支払われてしまうこと。デート代を全額出してもらったら、対等な関係でなくなってしまう。
そんなの耐えられない。だって、麗華さんがお金を持っているのは、偏に美人だから。美という祝福を受け、その恩恵を分けてもらったら、私は私でなくなってしまう。
私は醜い。醜いからこそ、美人から施しを受けるわけにはいかない。それは美人に魂を売り渡し、世界に屈服することに他ならないから。
「……ふ、普通じゃない。そういうのはいらない。自分で出す」
「でも、お金ないでしょ?」
「ないけど、いらない! どうしてもそういうことがしたいなら、私の誕生日とかにして! いくら美人だからって、人を見下さないでっ!」
驚いた表情を浮かべている麗華さんを見て、思わず大きな声が出てしまう。当然のように、お金を出すと宣言する麗華さんを見て、私のちっぽけで、肥大化したプライドが傷付いたのかもしれない。
こんな醜い容姿の私がプライドだなんて言ったら笑われるだろう。それでも、譲れないものがある。
「かっこいいね」
「……意味が……わからない」
反射的に怒鳴るような言い方をしてしまった。それなのに、美人でかっこいい麗華さんにそう言われると、嫌味か何かだとしか思えない。でも、美人だから、私の脳は素直に喜んでしまう。
美人の言葉は栄養を与えてくれる。心がどれだけ拒絶しようと吐き出すことが叶わないほど大量の。
映画が始まる時間が迫り、二人で手を繋いだまま……いや、麗華さんに手を掴まれたままエレベーターに乗り、最上階にある映画館に向かう。
「それで、私はこれからどんな映画を見ることになるの?」
「この映画」
最上階へと向かうエレベーターの中で麗華さんがスマホの画面に表示された、予約画面を見せてくれる。
「どうしてこれを選んだの?」
「これのコラボグッズのCMに私を出そうって話が出てるから、見とかないとなって」
「……それって、関係者以外に言っちゃダメなやつじゃない?」
「ダメだよ。でも、蟲惑にならいいかなって」
信頼、されているんだろうか。それとも、私は噂を言いふらすような相手もいないと舐められているんだろうか。
それとも、本当は話しても良い情報だけど、それを特別な秘密と称することで、わかりやすく好意を示しているのだろうか。
おそらく後者だろう。いまどき、コンビニのバイトですら、こんな簡単な守秘義務、守れる。うっかり仕事の秘密を漏らすような人間が、トップモデルになれるはずがない。
人並みの容姿があればこんな捻くれた発想が自然と浮かぶこともなかったんだろうか。
そんなことを思っている間にエレベーターは私たちを最上階へと運び終え、扉が開く。
そこからは流れ作業のように、二人でそれぞれお金を払って券売機でチケットを買う。
「今日ってプライベートだよね?」
「そうだね」
「なのに、仕事の下調べするんだ」
映画が始まるまでの暇な時間。こうした時間を退屈させると恋人ポイントが下がることくらいは知っている。ただでさえこの容姿のせいで、恋人ポイントは底を抜けている。だから、会話をする。麗華さんの心に少しでも馴染むために。
「印象は良くしとかないと、次が続かないからね」
「麗華くらい美人だったら、そんなの関係なさそうだけど」
「世界一の美しさとか言ってはくれるけど、内心そうは思ってないってことだよ」
麗華さんは私の嫌味にそう言って謙遜する。芸能界の事情は私にはわからないし、芸能人なんて一人も知らないけど、麗華さんよりどころか、麗華さんと互角の美人すらこの世界のどこにも存在しないと思う。
麗華さんが生まれてさえいなければ、美しさの平均値が下がって、相対的に私の容姿がマシになると思ってしまうほどに、麗華は美人だから。
劇場の中央にある席に麗華さんと並んで座る。麗華さんは飽きもせず、私の手を掴み続けている。劇場の中を見渡してみると、私たちとは違って、本物の恋人同士もいる。
いままで見ないようにしていたから気付かなかったけど、どのカップルも容姿が釣り合っている。容姿に大きな優劣がつくような関係は、私が見る限り友達同士。
容姿に違いがありすぎたら、恋人という関係にはならない。だって、手を繋いだり、キスをしたり、もっと言えば人生を共に歩んでいく相手が醜いのは耐え難いから。それは、醜さから離れることが決してできない私が一番よくわかる。
だから誰もがより美しい相手を求めて、最終的に自分と同じ程度の容姿の相手と付き合うことになる。それに比べて私はどうだろう。私の容姿は醜さの頂点で、麗華さんは美しさの頂点。釣り合いなんてどこにもない。
客観的に見て私たちは恋人同士ではない。ここまで容姿に著しい差があったら、友達という関係にすら至れないだろう。現に私はこれまで、この醜い容姿のせいで、友達どころか知り合い一人いたことがないんだから。
「そろそろ始まるみたいだよ」
「うん」
麗華さんの声に呼び戻されて、スクリーンに目を向ける。
始まる映画の予告。それが終わって始まる映画の本編。どれも私には醜悪な映像の集まりでしかなかった。
だってどれも、美に埋め尽くされているから。CGで作られた綺麗な映像に、美しい女優たち。どれも同じ。その本質は何も変わらない。
美を敷き詰めることで、世界を支配しているルールをより強固にしている。美人が得をしているその裏で、一体どれだけの醜い人間が虐げられているかを無視して。
劇場の中にいる人たちは、映画を見て泣いたり笑ったりしている。それが私には、とても愚かに見えた。
だって、彼女たちの容姿だって、そこまで大したものではないから。私よりは遥かに美しいけど、映画に出てくる女性たちと比べたら相手にならない。
あなたたちだって美人に搾取される側なのに。自分の意志でお金を払って映画を見て、美人が得をする世界に加担する。それが愚かでなくてなんなのだろう。
あなたたちのような人たちがいるせいで、私が損をしているのに……あなたたちのような、”醜い”と”美しい”の中間にいる中途半端な人間が、美人が得をすることを正当化するから……
美人が美しい映像の中を激しく動き回る。誰もが胸を躍らせる大人気作品。それは私にとって、醜い世界の法則を詰め込んだ醜悪な作品でしかなかった。