《汚泥の底で煌めく一等星 前編4話 不本意な好意》 作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

照りつける太陽による溶けそうな暑さがほんの少しだけ落ち着いた放課後。夕日さえ入り込めないほど入り組んだ、熱気の篭る路地裏に向かうと、約束通り麗華れいかさんが待っていた。
「どう、返事は決まった?」
私のことを本当に待ってくれていた。帰る場所のない私には、誰かに待っていてもらうなんて経験はなくて、これが初めてだから、それだけで嬉しくなってしまう。
でも、ひさしぶりとか、やっほーとか、そうした挨拶もなしに、いきなり告白の返事を聞いてくるのは、少しどうかと思う。まぁ、それだけ麗華さんにとって大切なこと、ということでもあるんだろうけど……
「返事は……決まってる……」
「それじゃ、答えを教えて」
麗華さんが答えを急かすように距離を詰めてくる。私は、美の魔力に取り込まれ、自分を見失うのが恐ろしくて、反射的に一歩距離をとってしまう。
「その様子だと、ダメってこと?」
「そうじゃなくて……麗華さんと付き合いたいとは思ってるけど……」
そこで言葉が詰まってしまう。麗華さんは私に一目惚れしたという嘘をついている。そして私は、麗華さんと付き合いたいという嘘をつこうとしている。美人の近くにいれば得があるはずという偏見で。
この感情がいけないものであることはわかっている。だからこそ、ちゃんとした答えを返すことができず、つい視線を麗華さんから逸らしてしまう。
そうした迷いを読み取ったかのように、麗華さんは突然その両手で私の両手を包み込んできた。
「ほんと! 嬉しい! モデルの仕事でずっと忙しくて、彼女は初めてだから、嬉しい! でも、恋人同士って何をしたらいいんだろう……やっぱり、デートかな!」
「えっ、あの……」
私が曖昧とは言え、付き合うという返事を出した途端に、モデルの麗華さんが見せる日本刀のように鋭い凛々しさは消え失せ、年相応の女の子のようにはしゃぎ始める。
「ねえ、ねえ、蟲惑ちゃんはいつならデートできる?」
「いつって、そんないきなり言われても……」
年相応にはしゃぐ麗華さん。私にはそれがとても不自然なものに映る。だって麗華さんは友達も恋人も作り放題。彼女がこれまでどんな仕事をしてきたかは知らないけど、恋人ができたくらいで、ここまではしゃげるほど浅い人生を送ってきてはいないことくらいわかる。
いくら美人だからといって……いや、美人だからこそ、この程度でここまではしゃぐわけがない。ましてや、こんな醜い人間と付き合えることくらいで。
「私は今週の土曜日がオフなの。それ以降はしばらく仕事があるから、厳しくて」
「その日は夕方からバイトがあるけど、それまでなら、まぁ……」
「それじゃ、今週の土曜日、デートね!」
麗華さんの態度を疑ったり、困惑している間に、物事が次々と進み、決定していく。
気付いた時には、私は麗華さんに自分の携帯電話の番号どころか、家の場所まで教えてしまっていた。
「それじゃ、今週の土曜日、朝十時に駅前で待ち合わせね」
「いや、そういうことじゃなくて……」
麗華さんは私の静止を聞かず、いや、あえて聞かずに、なんだろうけど、去って行った。麗華さんは美人だから、こうやって自分の願望を相手に押し付け、返事を待たずに去ることが有効だと理解している。
仮に麗華さんの言い出した時刻が自分に都合が本当に悪かったとして、だからなんだと言うんだろう。あれだけ綺麗な人とデートができるんだったら、予定を空けるに決まっている。もし時間を空けずに自分が約束の場所に行かなければ、あんなに綺麗な人をいつまでも待たせることになるんだから。そんな罪悪感に普通の人は耐えられない。
そんな美人の罠に、私はまんまとハマっている。つまり私は、今週の土曜日、バイトを念の為に休みにしようかとさえ考えてしまっている。
もしも……もしも、バイトの時間なんてしょうもない理由で、麗華さんとのデートが中途半端になったら面白くない。バイトの時間に囚われながらデートをするのは、つまらない。
頭ではわかっている。私が麗華さんと付き合うのは甘酸っぱい恋をするためでないことくらい。というより、そんなものが麗華さんとの恋愛で手に入るとは思えない。あんなに欺瞞に満ちた人との恋人ごっこなんかで……
でも、土曜日を待ち遠しく感じる私が生まれることを阻止できない。麗華さんの思い通りになりたくないと思っているのに、関われば関わるほど麗華さんは私の心に根を張り、自由を絡め取ってくる。
それがわかっているのに、離れることができない。今週の土曜日を先週までと同じように過ごす選択肢は、最初から潰されていた。

※※※

土曜日の朝、私は学校がある日よりも早起きをしてしまった。約束の時間は、学校よりも遅い時間なのに。妙に気持ちが落ち着かなくて、眠ることも、約束の時間までぼんやりと過ごすこともできない。
これじゃ本当に、恋をしているみたいで気に入らない。いや、本当に恋をしているのならいい。麗華さんがどんな人なのかを知って、そこを好きになったのなら。でも、これは違う。
私が麗華さんと付き合うと決めたのは、容姿が理由。それが気に入らない。こんな私にも分け隔てなく接してくれた麗華さんの優しさが嬉しかったのは本当だけど、これは恋じゃない。
いまのこれは、身分の違う美人から告白されて、浮き足立っているから以上の何物でもない。それ以上の想いが内包されているのなら、素直に受け入れることができる。
純粋に麗華さんのことが好きならどれだけよかっただろう。そしたら、今日のデートを素直に楽しむことができる。
私には確信がある。あんなにも一方的にいろんなことを決めてくる麗華が美人じゃなかったら、絶対に受け入れてなかったと。麗華さんの振る舞いは、美人だから世界に許されていて、私までも許してしまっている。
だから願ってしまう。本当に好きになれたらいいのに、と。もし麗華さんとの関係がずっと続くのなら、容姿なんてものではなく、麗華さん自身を好きになれたらいいのに。

時刻は午前九時半。はやる心を落ち着かせることがどうしてもできなくて、時間よりも早く待ち合わせ場所の駅前にいる。
早く来たからって早く会えるわけじゃない。そもそも、時間通りに麗華さんが来てくれる可能性は低い。
美人は待ち合わせに遅れても許されてしまう。化粧に時間がかかったとか、服を選ぶのに時間がかかったとか、そういうよくわからない理由で正当化されてしまう。私はそういうので納得させられてしまう人の気持ちが全く理解できないけど、いざ目の前で麗華さんにそう言われたら、なんだかんだで許してしまうんだろう。
それから十分、二十分、待っても待っても一向に麗華さんは現れない。そりゃ、三十分も早く来ている私が悪い。むしろ、時間通りに来てくれるだけでもありがたいと思わないといけない身分だってこともわかっている。
それでも、早く来てほしい。麗華さんの顔が見たい。そうしたら、胸の中に渦巻く不安が消えてくれるから。醜い私との約束を守ってくれる人なんて、世界のどこにもいない。そんな絶望を、麗華さんが来てくれたら消えてくれる気がする。
麗華さんほどの美人が私との約束を守ってくれたのなら、世界は醜い私に慈悲を残しているんだって思えるから。

そんなか細い希望を裏切るかのように、待ち合わせの十時が目の前に迫っても麗華さんは現れない。噴水の前にある時計の針が一秒を刻む度に、心が切り刻まれているように感じる。
まだ待ち合わせの時間まで四分残っている。残っているけど……これまでの人生で、ここから報われた試しがないから、心がへし折れそうになる。
携帯の画面を閉じては開いて、閉じては開いて。無意味だと知りながら、麗華さんから連絡がないかを確認し続けてしまう。待ち合わせ直前に無理になったと連絡があれば、それだけで救われる。
予定が無かったことになっても、私にだけ連絡がないとか、私にだけ別の待ち合わせ場所を伝えておいて除け者にするとか、そう言う扱いが当たり前だったから、連絡があるだけでいいのに……
「ごめん、待った?」
まるで世界が終わる寸前のような気持ちに酔いしれていると、背後から麗華さんの声がした。
駅前で最も目立つ位置に聳え立っている時計の針は九時五十八分を指し示している。時間通りに、いやそれよりもほんの少し早く来てくれただけで涙が溢れそうになる。
きっと、時間に遅れていたとしても、来てくれただけで同じような反応になっていただろうけど、こんな弱気な自分を美人相手に見せたくないから、表情を作ってから麗華さんの方を振り向く。
「私が早く着き過ぎただけだから気にしないで」
「それならいいんだけど」
いま世界で最も有名なモデルというだけあって、麗華さんは普段学校で目にするのとは違う格好をしている。
「それじゃ、行こっか」
そう言って麗華さんは、有無を言わさず私の右手を掴んで歩き出してしまう。
「ちょっ、手、掴まないで」
「手を繋いでるの。デートなんだから、手は繋ぎたいよ」
私と麗華さんでは見解に相違がある。私は言葉の上では恋人だと言っているけど、気持ちまで恋人なわけじゃない。だからいきなり手を掴まれたら、それは手を掴まれた以上の意味を伴わない。
でも、麗華さんの中では私は恋人扱いのようで、手を繋いでいることになっている。
麗華さんに恋人扱いされる。それが私にただの恋人以上の安心感を与えていないと言えば嘘になる。でも、そんな本能的な反応に酔いしれるつもりはない。
麗華さんほどの美人に手を掴まれたら、誰だって頬を熱くする。麗華さんほどの美少女に恋人扱いされたら、鼓動が速くなるに決まっている。
これは私の心が麗華さんにときめいているからじゃない。ただ生物としての本能が、美人を魅力的に思うようにプログラムされているだけ。
数式をちゃんと立てて、正しい計算を行えば正しい答えが得られるのと同じ。人間という式に美人を代入すれば、誰だってこうなる。ただそれだけのこと。