《汚泥の底で煌めく一等星 前編 2話 欺瞞に満ちた出会い》 作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu) 

《汚泥の底で煌めく一等星 前編 2話 欺瞞に満ちた出会い》 作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

 

いつもの朝。いつもの教室。一人世界から取り残され、ないものとして扱われている私。生まれながらに汚れている私があるものとして扱ってもらえるのは、出席の時くらい。
醜くすぎる私は、いつからか差別や暴力の対象とすらされなくなった。病人に近寄らないのと同じ。私に近寄ると移るから。醜さが。
殴ったり蹴られたりするのもイヤだけど、存在しないものとして扱われるのは、また別の苦しさがある。

そんないつも通りの朝だけど、今日は大きく違う。何日か、もしかしたら何十日ぶりに麗華れいかさんが教室にいた。
いつものことだけど、彼女の周りには人だかりができていて、有名な雑誌の表紙を飾ったばかりであることも相まって、今日は一段とすごいことになっている。
「雑誌買ったよ」。「すごく可愛かった」。「インタビュー感動した」。そんな判で押したような悲鳴、あるいは嬌声のような感想が教室中に響き渡っている。
雑誌の撮影が終わって、帰国したばかりの麗華さんにとって、学校にいる時間は一応オフのはず。だけど、モデルとして注目度が最高潮であるいま、オシャレに敏感な高校生が放っておくはずがない。
この二年二組の教室には、教室と廊下の床を抜いてしまいそうなほどの人間が押し寄せている。それこそ、比喩でもなんでもなく、学校中の人間が。
普段は世間の事情には興味ありませんみたいな子も、二次元にしか興味ないですみたいなキモい子も、結局美人には負ける。
口ではどう取り繕っていても、目の前に麗華さんがいれば、ひと目見ようと、一言でも言葉を交わそうと、勝算の低い人だかりに身を投じている。
最初、私はテレビも見ないし芸能人には興味がないと公言して回る、社交性のない人間を同類だと信じていた。アニメや漫画に出てくる心身を極限まで美化された人間に恋をする気持ち悪い人間を仲間だと思っていた。
容姿が醜い私と同じように、彼女たちにも世界に居場所はないのだと。でも、違う。目の前に美人が現れたら、脇目も振らず尻尾を振る。少しでも美人とお近づきになろうとする。
普段は世間に背を向けている風を装っているくせに、結局最後の最後には美人が得をする世界に与し、寄与する。
それで恥ずかしくないのかと思う。容姿がそれほど良くもなく、だからといって何か特別な才能があるわけでもないのに、美人に得をさせていて。そんなことをしたって自分が損をするだけなのに。
まぁ……麗華さんが載っている雑誌を買った私が言えたことではないのかもしれない。たった一冊。人生で美人にお金を使ったのはあの日が初めてで、それもたった数百円。だとしても、私は美という世界を支配する法則に数百円を捧げ、美という概念に更なる力を与えてしまった。
そう、私だって美人が得をする世界に手を貸したのだ。それがたったの一回だとしても。たった一回でも罪は罪。
だからこそ、私は席から断固として動かない。三十一人いる教室の中で、席に座っているのが私と麗華さんだけだとしても。決してあの人だかりには参加しない。もう、これ以上、美人に得をさせたくないから。
醜く、誰にも尊重されず、この教室で私だけが席に座っていることにさえ気付かれていない私にだって、プライドがある。
美人に搾取され続ける人生だとしても、魂まで明け渡したくない。
始業のチャイムが鳴っても、麗華さんの周りから人が減る気配はない。なんなら、教師陣さえ麗華さんを讃える行列に参列し、授業を始めようとしない。
こんなにも異常で、だけど美しすぎる麗華さんの前では極めて正常な光景を前にしても、私は体を席に縛り付ける。他でもない自分の意志で。

※※※

今日は大変な一日だった。私以外の人にとっては特に。麗華さんに謁見しようと押し寄せる人だかりは一度として止むことはなく、麗華さんと同じ教室にいる私は常に押し潰されそうだった。
潰れそうになるのは、好きで集まっている野次馬だけにしてほしい。美人が憎い私でさえ、常に人波の中心にいた麗華さんに同情してしまうほどだったのだから。
まぁ、あれだけチヤホヤされて、世界中に美しいというだけで認められているんだから、ちょっとやそっとの鬱陶しさくらい……とも思う。
意図的か無意識か、麗華さんを抱えるにはあまりにも狭すぎる教室の中でも、醜い私の周辺は少し空いていてはいたけど。
今日の授業が全て終わって、荷物をまとめて、いつものようにバイトに向かおうと教室を出て、学校を出る。
廊下も、校庭も姿を消した麗華さんを探して回る人で溢れ返っていた。それは校門を出ても変わらない……どころか悪化している。私が通っている高校だけじゃなくて、噂を聞きつけた他の学校の子たちが、小学生から、近くの会社に勤めいていると思われる大人までいる始末。
麗華さんはこんな一般的な高校じゃなくて、もっと特別な学校か選択肢を選ぶべきだったと思う。単純に迷惑だ。
でも、こんな風に思っているのはきっと私だけ。他の人はむしろ感謝している。麗華さんと同じ学校になれるなんて、こんな無名の学校を選んでよかった。一流企業じゃないけど、この会社を選んでよかった。そんな風に。
そういう空気にうんざりして、私は人の少ない裏路地に入る。大通りを進んでバイト先に向かうには、麗華さんを求め彷徨うゾンビの群れを掻き分けないといけない。でも、有名人である麗華さんはこんな怪しい道を使うはずがないから、空いている。

裏路地に篭った夏の不愉快な熱気。それが今日は心地よかった。美人を持て囃す、脳を使っているかも怪しい人だかりから発せられる瘴気に比べれば、コンクリートの壁に乱反射する熱気は美味ですらある。
入り組んだ道ではない道を行きながら、脳裏に浮かぶ不愉快な光景。美人が美人であるだけで居場所を作り、人気者になり、得をする。そんな情景が心臓を握り潰さんとする。
気を抜いてしまったら、言い表しようのない感情を、近くにある室外機にぶつけてしまいそうなほどに……

 

「ここで待ってたら、二人きりになれると思ってたよ。蠱惑こわくちゃん」
複雑な路地裏の先から、私を待っていたと、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
それは存在するはずのない人。私を待っている人なんてこの世に存在しない。私の名前を知っている人すらいない。そのはずなのに……そのはずなのに……
声を聞けば、誰かなんて一瞬でわかる。だって美人は憎いことに、声まで美しいから。そんな風に聞こえてしまうだけの魔力を伴っているから。
「麗華……さん?」
「名前覚えててくれたんだ。席に座ったまま石みたいに動かないから、私のこと知らないかと思ってた」
突然の出来事に頭が静止してしまう。どうして目の前に麗華さんがいるの? 世界からない者にされている私のことを、どうして世界の中心である麗華さんが覚えてくれているの?
ましてやわざわざこんな場所で待ち伏せするなんて…‥どう考えてもおかしい……おかしいけど、おかしすぎるからこそ、麗華さんの意志でここにいるんだとわかってしまう。
言うまでもなく麗華さんは暇じゃない。美人は大嫌いだけど、単なる事実として、世界で最も忙しい高校生は間違いなく麗華さんだ。
バイトをたくさん入れないと生きていけない私ですら、そこだけは認めるしかない。
そんな彼女が、罰ゲームとか、嫌がらせとか、そんなくだらないことに時間を使うはずない。
だから麗華さんは、麗華さん自身の選択でここにいる。だからこそ意味不明が悪化する。だって……だって……私でないといけない理由なんて、どこをどう探しても、全身を解体して、頭蓋骨をこじ開けたって見つかるはずないから。
「な、なんで私のこと……」
「えっ、いきなりそれ聞くの!? 恥ずかしいな……」
美人が恥ずかしそうにする姿を見ているとイライラしてくる。こうしていれば相手が慮って、望みを叶えてくれると、そう思っている。美人のそういう態度が気に入らない。
待っていれば相手がなんとかしてくれると、経験則で知っていることが、頭にくる。
「そうですか。私、これからバイトあるんで」
だから私は、麗華さんの思い通りにはならない。トップモデルに声をかけてもらえた喜びを足蹴にして、麗華さんの隣を躱すように横切り、バイト先へと向かう。
世界中で大人気の麗華さんと、世界中の誰をも置き去りにして親密になれる可能性なんかよりも、美人に自分の思い通りにならない人が存在すると教え、悔しさを味わわせる方が私には大切。
私は他の人とは違う。私は絶対に、美しさには屈しない。
「待って! わかった! 一目惚れしたの! 私と付き合って!」

麗華さんの声が路地裏に響いてから十歩ほど進んで、ようやく言葉が脳に響いた。だけど、その意味は全く理解できなかった。
わからないなら、美人の思い通りにならないためにも、このまま道を進むべき。そのはずなのに、私は美人に屈しそうになっている。
もし……もし、耳にした言葉が天文学的確率で一般的に使われる意味と同一であったなら……私は生まれて初めて誰かに見てもらえる。対等な一人の人間として……
それも、麗華さんという一等星に……
私の理性とプライドが囁いている。屈してはいけないと。美人からの甘言に惑わされては、世界に屈するだけだと。
それに何より、裏があるに決まっている。でなければ、こんな醜い生物未満の私に、声をかけることなんてあり得ないから。
でも、でも……世界で一人ぼっち、狭くて暗い部屋に一人きり……そんな人生から抜け出せるかもしれないのなら……
「……そ、それはどういう意味、ですか……」
「どういうって、告白に決まってるでしょ」
麗華さんの声はさっきよりも落ち着いていて、さっきの言葉が本当に告白なのだとしたら、口にしてしまって後戻りできなくなったから落ち着いたのだろう。
バイトがあることを言い訳にして、返事を保留すれば、なんでも思い通りにできる麗華さんに勝てる。どうせ数日もすれば、私に告白したことなんて忘れるか、消し去りたい黒歴史になる。
そうわかっているのに、私はゆっくりと体を麗華さんの方へ向き直していた。
「もしかして、罰ゲームか何かだと思ってる?」
「そ、そういうわけじゃ……」
罰ゲームだとは本当に思っていない。ただ、麗華さんは知らないだけで、私は何度も何度も失望させられている。所詮私は世界の邪魔者。そういう扱いをされ続けてきた。
だから、よりにもよって超美人からの告白なんて、この世で最も信じ難い。
「それじゃ、どうやったら信じてくれる?」
「…………一目惚れした理由を教えて。そしたら、付き合ってもいい……」
社会的な地位ではなく、美醜で上下がつくことに耐えられなくて、私が妥協して付き合ってあげるような言葉遣いをあえてする。そんなものを抜きにしたって、私が下だってことは変わらないのに。
プライドが邪魔をしている。主観的にも客観的にもそう映る。だけど、いまさら口にした言葉を変えることはできないし、美人に主導権を握らせることだけは絶対にしたくなかった。
「怒らないで聞いてほしいんだけど、美人とか、愛嬌のある醜さって見飽きちゃったの。綺麗とか、顔立ちが整ってないけど愛される感じとか、そういうのは答えが決まりきってて見飽きちゃった。それに、職業柄人の容姿を気にしちゃうから、蟲惑ちゃんに一目惚れした」
怒らないで聞いてほしいと前置きしておきながら話す内容とは思えない。つまり私のことを、正視に耐えないほどの醜さだから一目惚れしたと言っているのだ。この女は。
いくら醜い自覚があっても、妙に間接的な表現で言われると頭にくる。
「なんで会ったばっかりの麗華さんにそんな言い方されないと……」
「好みなの、あなたの顔が。あなたの身体が。私のいる世界じゃ絶対に出会えない容姿のあなたが。自分と比較せずに済む蟲惑ちゃんが」
私は告白されていて、その理由を耳にしているはずなのに、驚くほど嬉しい気持ちにならない。
私の容姿が何の魅力もないどころか、いかに醜いものであるかは私自身が一番よくわかっている。
そして、麗華さん自身は自分がいかに優れた容姿を持っているかを誰よりも理解している。
そんな麗華さんに一目惚れされたなんて……嫌味を超えて侮辱だ。その理由が、あまりにも醜すぎるおかげで、モデルとしての自分を忘れられるという、ある程度理解可能な理由だとしても。
「わ……私はあなたのこときら……」
世界中から肯定されているあなたのことを、世界から孤立している私が否定する。否定しなきゃいけない。私がやらなければ、麗華さんは美人だからというだけで、全て思い通りになってしまうから。
その思いを口にしようとした刹那、麗華さんは突然私の体を抱き寄せ、額を私の額にピッタリとくっつけてきた。
「な、なにして……」
美人は嫌いだ。大嫌い。本来私の分だったものを我が物顔で奪っていく美人なんて。それでも、目の前に麗華さんの顔があったら、心臓が止まる。
理性と心がどれだけ麗華さんを否定しても、本能が麗華さんを受け入れてしまう。
美人だから。ただそれだけの理由で麗華さんを受け入れてしまう。生まれ持った美しさで優劣が決まる世界に、取り込まれてしまいそうになる。
「返事は次会った時でいいから。私は今日一日しっかり考えて告白したのに、蟲惑ちゃんにはすぐに答えを出してなんて、フェアじゃないから」
「わ、私は麗華さんと付き合うつもりは……」
「はい、これ私の電話番号。もちろんプライベート用ね。それじゃ、またね」
私の返事は間違いなく聞こえていたはずなのに、麗華さんはそれを美で一方的に握り潰し、入り組んだ路地裏へと消えていった。
そして、一人取り残された私の右手の中には、十一桁の数字が書かれたメモの切れ端が残されていた。