麗華さんが私の家に遊びに来てからもうすぐ一週間が経とうとしている。
明日の土曜日、私は麗華さんの家に遊びにいく。クラスの誰も知らない、麗華さんのファンでさえも知らない、麗華さんの家に、私が遊びにいく。何をどう間違たら、こんなことになるんだろう。
真夏の熱気が篭った体育館の中に麗華さんの姿はない。今日も麗華さんはモデルの仕事で学校を休んでいる。
当たり前だけど、トップモデルに休みなんてない。あるとしても貴重なはず。そんな限られた時間を、麗華さんは私に割いてくれている。
「最近、麗華さんが仕事を少し減らしてるって噂、聞いたことある?」
私の順番が来て、好きでもないバレーボールをしていると、体育館の隅で休んでいるクラスメイトの噂話が聞こえてきた。
「ずっと目標にしてたってインタビューで昔からずっと言ってたから、休憩したいのかもね」
私は麗華さんの恋人だけど、トップモデル麗華さんのファンじゃない。だから、麗華さんと同級生どころか、ファンであれば誰でも知っているようなことでさえ知らない。
モデルである麗華さんに興味なんてない。それでも、ボールの行方よりも噂話の行き先の方が気になる。
こんな本当か嘘かわからない噂話に、麗華さんが私と付き合う理由が隠されているかもしれないから。
「でも、最近の麗華さんの自撮り写真、すごく綺麗じゃない?」
「うん、まるで恋してるみたいだよね」
恋。何の根拠もない噂話に出てきた言葉に脳が揺れる。ファンの目から見て恋してるように見えるのなら、本当にそうなんだろう。実際、恋人がいるわけだし。
でも、恋人である私自身がその言葉を実感できない。モデルとしての麗華さんしか知らないファンでさえ信じることができる恋を、当事者である私が信じられない。
麗華さんといない時間まで、麗華さんに支配されている。それがどうしても気に入らなくて……すると頭に衝撃が走った。
気付くと私は、体育館の床に仰向けになって倒れていた。クラスメイトの噂話に夢中になってよそ見をしていたら、ボールを顔面で受けてしまったみたい。
体育の授業で誰かが怪我をしそうになったら、普通誰かが危機を知らせてくれるけど、私はそうした当たり前からいつも取り残される。そういう扱いには慣れているから、傷付いたりもしない。
私を心配してくれる人はいないし、私が立ち上がるのを待たずに試合は再開される。
この場に麗華さんがいたら、手を差し伸べてくれるだろうか……って、私は何を考えて……麗華さんは私がいる世界を変えてくれるわけじゃない。ただ面白半分で、私と付き合っているだけ。
恋をしているっていう噂も、その相手が私と決まったわけじゃない。本当は他に付き合っている人が別にいて、恋愛が発覚した時の身代わりにするために私を選んだ可能性だってある。
というか、十中八九そうだろう……麗華さんが私と付き合っている理由とその謎……気付いてしまえばなんて事のない話だった。
麗華さんに告白されてからずっと頭の中にあった霧が、綺麗に晴れていく。これでやっと試合に集中できる。
私にボールは不自然なほどに回ってこないし、私が触れたボールはそれとなく交換される。それが気のせいだったらどれだけよかっただろう。
私は世界に嫌われている。私と間接的にすら触れたくないほどに。そんな私とイヤな顔一つしないで手を繋いでくれるなら、麗華さんの本物の恋人の身代わりだとしても良いとさえ思える。
そういう扱いに納得しているわけじゃない。でも、身の丈はわきまえないといけない。この世界での自分の身分くらい、理解しているから。
体育の授業が終わり、洗面所にある鏡で怪我の様子を確認する。
怪我の状態を確認するだけ。それでも自分の顔を見ることに嫌悪感がある。自分の顔だけど、自分で見ていて吐き気がする。
自己肯定感を削がれているとか、思い込みとか、そういうんじゃない。誰が見たって醜いものは醜い。
ボールが直撃した左目のあたりには青あざができていているけど、それが化粧に見えてしまうほど私は醜い。
こんな容姿を嘘でも、”一目惚れ”とか”かわいい”と言ってくれる人がいてくれることに救われている私がいたことは否定できない。
美人は嫌い。大嫌い。でも、麗華さんが私に、八十億の中に例外があると言ってくれてように、美人にも例外があっても良いのかもしれない。
でも、麗華さんと私の例外は根本的に違う。麗華さんの例外は嘘で、私の例外は不服だけどちょっとだけ本気だということ。
だから私は明日、麗華さんの家に遊びにいくのはそんなに嫌じゃない。
私を利用している理由がわかったから、気を使わなくて済む。麗華さんに理不尽に当たり散らかしたって、別に気に止む必要はない。だって麗華さんは私を利用しているだけなんだから。
利用価値が無くなれば捨てられる関係なら、その価値がある間にしたいことをしないと勿体無い。
私のような人間では一生どころか、何度輪廻転生を繰り返したとしても触れることも叶わないような美人と手を繋いだり、お話をしたり、手料理を食べたり。
いましか見れない夢なんだから、やれることは全部しないと。醜い私に、次の恋人なんてないんだから。
※※※
土曜日の朝。私は学校がある日よりも早起きをする。それは、毎週土曜日は麗華さんとの恋人ごっこを始めてから、二人で過ごす日になっているから。
どういうわけか、麗華さんは毎週土曜日、仕事がない。クラスメイトの噂を信じるなら、わざわざ土曜日に仕事を休んでいる。
もし、本当の恋人を守るためだとしたら、ずいぶんと手の込んでことをしていると思う。でも、トップモデルならそれくらい周到にしないと本物の恋人の存在がバレてしまうんだろう。
モデルなんていう醜い世界なんて興味ないからよく知らないけど、プライベートの麗華さんを一目見ようと犯罪まがいのことをする人間だっているだろう。
そういう意味でも、最初のデートは外だったけど、それ以降は屋内になったのは麗華さんの都合もあったのかもしれない。
「そろそろ出かけないと」
人目にこの姿を晒したくはない。だから、休日はバイト以外で出かけることなんてなかった。外に出たって勝手に見せ物のような視線に串刺しにされたり、露骨に指を刺されるか……不愉快なことしか待っていない。
おまけに、今日は真夏の太陽がコンクリートを溶かしかねないほどの勢い気で街を照りつけている。
でも、麗華さんといつまで恋人でいられるかわからないから、出かけないわけにはいかない。
麗華さんとの時間を死守するために、バイトのシフトを土曜日だけじゃなくて、念のために日曜日も外した。将来のための貯蓄どころか、生活費が削られてしまうけど、麗華さんとの恋人ごっこはいまだけの特別だから、バイトなんてしている場合じゃない。
私が生涯を捧げても決して手に入るはずのなかった、世界で一番の美少女と過ごすひとときは、醜い人間の将来よりも遥かに価値がある。そんなこと、言葉にするまでもない。
最寄りの駅から電車で三駅。街の中心部に位置する、私の家からもうっすらと見えるタワーマンションの最上階。そこが麗華さんのお家だった。
このマンションは麗華さんの両親が買ったものなのか、それとも麗華さんが自分で稼いで手に入れたものか。それは知らない。
でも、そんなことどっちでもいい。どちらだとしても、このマンションを手にしていること自体、世界の理不尽を象徴している。
親の持ち物だとしたら、親のいない私にしてみれば、身寄りがあるという理不尽。麗華さん自身の手で買ったものだとしても、それはとてつもない美人だから手にできたもので、醜い私にしてみれば理不尽。
麗華さんといると、麗華さん自身にそのつもりがなくても、苛烈な暴力に晒されているような気持ちにさせられる。
本音を言えば、もう、麗華さんとは会いたくない。それでも、会ってしまう。それは、麗華さんが美しいから。
綺麗な人と一緒にいると、心が救われる。こんなにも綺麗な人と一緒にいられる間だけは、私は世界に存在することを許されるから。
エントランスにある機械に、麗華さんの部屋である2421の数字を入力する。時間は約束通り、午後二時ちょうど。
機械から聞こえてくるベルの音が不安を煽る。麗華さんはこれまで出会った美人とは違うと、頭ではわかっている。私が恋人の身代わりだとしても、遊びに誘っておいて、連絡もなしで予定を入れるような人じゃない。
それでも怖くなる。もしかしたら、愛想を尽かしてしまうんじゃないかって。先週、私は麗華さんに激しく当たり散らしてしまったばかりだから余計に……
「ようこそ、蟲惑」
そんな不安をかき消すかのような明るい声が聞こえたと同時に、部外者の侵入を阻むオートロックの扉が開いて、エントランスを進む。
マンションの入り口は、私が住んでいるアパートが高さまでそのままいくつも収まってしまいそうなほど広大で、シャンデリアが飾られたエントランスの最奥にあるエレベータに乗り込み、二十四階行きのボタンを押す。
上昇を始めたエレベーターはいつまで経っても目的地に着かない。緊張しているからっていうのもあるんだろうけど、物理的に遠い距離を進んでいるから、時間がかかる。
まさか、人生で乗った中で最も長いエレベーターが、マンションだなんて、全くこの世界は狂っている。
ようやく辿り着いた最上階は、まるで有名なホテルのようだった。私が住んでいるアパートは、共用の廊下は雨風に晒されて錆びていたりするのに、ここではそんなことない。
私が使っている寝具よりも触り心地の良い絨毯には誇り一つなく、廊下は建物の内側にあるおかげで衛生的。わかりきってはいたことだけど、私と麗華さんとでは住む世界が違う。
何がどう間違って、私はこんな異世界に迷い込んでしまったんだろう。ともすれば瞬く間に追い出されてしまいそうな場所にいられるのは、麗華さんがどんな形であれ私を必要としてくれているから。
麗華さんの加護が消えた瞬間、私はこんな豪華絢爛な建物に迷い込む権利すら消失する。
醜い私が美人の麗華さんの上に立とうだなんて、最初から無理だったと今更ながらに確信する。私はただ麗華さんに与えられているだけの身分。最初から私が下で、麗華さんが上。
玄関のチャイムを鳴らして、麗華さんを待つ。ついさっき入り口で麗華さんに迎えてもらったばかりなのに、本当に出てきてくれるか、なんて考えてしまう。
こんな気持ちになってしまうのは、麗華さんを信じることができていないからなのか。それとも、私が過去の傷に囚われているからなのか。
その答えがどちらかなんてわからない。わからないけど、この不安を麗華さんにいつの日か消してもらえたら……美人に感謝することさえ、あるかもしれない。
「こんにちは蟲……惑……」
玄関を開けて麗華さんが出迎えてくれた……その刹那、麗華さんは私の左頬に手を当てて、前髪を上げてくる。
「どうしたの、いきなり? さすがに恥ずかしいんだけど……」
この顔は嫌い。だから、あんまり観察されたくない。見れば見るほど欠点が際立っていくだけなんだから。
「その怪我、どうしたの?」
「これ? 昨日体育の授業でよそ見してたらボールが当たっちゃって……心配してくれてるの?」
生まれて初めて誰かに怪我の心配をしてもらった。それが嬉しくて、つい、諸悪の根源である美人が相手なのに涙が溢れそうになる。
でも、麗華さんの表情は”心配”のそれでないことに気付いた。この表情はよく知っている……私の醜悪な顔を見て、誰もが揃って浮かべる嫌悪の表情……
「あの、麗華、どうしちゃったの? 急に黙り込んで……」
沈黙が恐ろしいんじゃない。麗華さんの表情が恐ろしかった。路地裏で私を待ち伏せして、意味不明な告白をしてきたあの瞬間に感じた不気味さなんかよりも……この見慣れた表情こそが。
普段見ることのない笑顔をくれる麗華さんが、出会ってから初めてみせる冷酷な姿が。
「……私たち、別れよう」
「……えっ、な、何言って……」
「それじゃ」
あまりにも意味がわからなくて、言葉が出てこない。
そして、普段はあんなにも寛大な麗華さんは、私が思考を整理する間すら与えてくれず、玄関の扉を閉めようとする。
「ちょっ、ちょっと待って! わ、私、何か悪いことしちゃった? それなら謝るから……」
自分でもどうしてここまで別れ話を切り出されただけで錯乱しているのかわからない。わからないけど……足を玄関に挟んで、無理矢理麗華さんを引き止める。こんなことしたって余計に怒らせるだけだとわかっているのに、それでも麗華さんの背中に縋ってしまう。
「私、あなたの顔が好きだって言ったよね? 顔しか好きじゃないって、ちゃんと先週、伝えたよね?」
「えっ、あの……」
「あなたには顔しか価値がないのに、それを守るために全力を尽くせないような人とは付き合えない。失望した。だから、さようなら」
いつでも、私がどんなことをしても、言っても、あんなに優しかった麗華さんが玄関に蓋をしている私の足を骨ごと砕くほどの勢いで蹴り付け、玄関を閉ざす。
「えっ、あの、その……」
何が何だかわからない。わからないけど、私は麗華さんの恋人でなくなるらしい。それを確信させるかのように、玄関の内鍵が閉まる音が聞こえた。
「ご、ごめんなさいっ! れ、麗華が私の容姿を好きだなんて、思わなくて……っ!」
分厚い玄関越しだから聞こえているかわからない。だから大声で叫ぶ。両手が砕けることも厭わずに、扉を叩きつける。何度でも何度でも。麗華に伝わるまで何度でも。
周囲の人間にどう思われてもよかった。騒音が原因で警察を呼ばれたって構わなかった。そのまま処刑台に送られたって構わない。麗華に本気だと伝わりさえするなら。
だって、だって、このままじゃ麗華とお別れだから。体育の授業でよそ見をしていたら、顔にボールが直撃した。そんなしょうもない理由で。
「だ、だって、こんな見た目なんだよ!? まさか本気だなんて思わなくて……! 気をつけるから! もう絶対、何があっても顔を傷つけたりしないから……だから……っ!」
麗華のことを好きだなんて思ったこと一度もない。嘘でも好きだと伝えたことすらない。それなのに、すぐ文句を言って、理不尽に当たり散らかして。
それでも恋人でいてくれた麗華さんが、顔に青あざができたくらいでここまで怒るなんて……いや、怒ってなんていなかった。麗華の心には空っぽがあるだけだった。本当は失望すらなかった。
あんなに冷たい表情を見せられたら……疑う余地なんてない。麗華は私の顔が本当に好きだった。世界を創造するときに出た端材を適当に継ぎ接ぎして生まれたような、醜い私の容姿が。
「お願いだから……私にもう一度、チャンスをください……お願い……します……」
ただの玄関の扉。それがいまは岩戸のようで……私の力で開くことは決してない。麗華が開けることでしか、この扉が開くことはない。
どれだけ打ちひしがれていただろう。気付けば日も暮れようとしていて、いくら屋内でも換気が行われているだけの廊下は真夏の熱気が木霊し、私の体は言葉もなく悲鳴を上げている。
それでも、動かない。私には麗華しかないから。麗華以外に頼るものなんてない。居場所なんて、居場所になってくれた人なんていないから……
そう思っていると、固く閉ざされていた鋼鉄の扉が開く音がして、その直後、ミネラルウォーターが入った五百ミリリットルのペットボトルが投げられた。
「誰だって失敗はあるよね。わかるよ。その容姿だから、一目惚れを本気にしなかったのも、同情の余地があると思う。だから、今回は許す。でも、いまの蟲惑は好みの容姿じゃないから、今日は帰って」
帰れ。それはすごく残酷な言葉。そのはずなのに、すごく嬉しかった。いまの私にとっては、乾いた体に水分を入れることよりも、壊れかけた心に麗華の恋人でいられる安心を詰め込む方が大切だった。
「そ、それじゃ、私はまだ麗華の恋人でいられるの!?」
「次はないから」
「わ、わかった! もうしない! 絶対!」
「次はないから」の後に続けた私の言葉が麗華に届いたかはわからない。私が声を発するよりも先に扉が閉じてしまったから。
でも、伝わっていようといまいと、関係ない。麗華はプロだから、きっと結果しか見ない。だけど結果を出せば必ず認めてくれる。こんなにも醜い私の容姿を好きになってくれたんだから、必ず。
私が本気であることを言葉でどれだけ訴えたって、次こそ麗華は一瞥もしてくれない。だから、私がすべきことはただ一つだけ……この醜くて、私を写す鏡を衝動的に叩き割ってしまうほど憎いこの顔を、命に変えてでも守る。それしか残っていない。