麗華さんが家に遊びに来てから、どれくらい時間が経っただろう。
午後六時を回ろうというのに、窓ガラスからは眩い夕日が差し込んでいて、電気代が節約できて助かる季節。
そんな太陽の恵みとは裏腹に、麗華さんとの間に流れる空気はとても張り詰めている。
何が最悪って、この気不味さを感じているのが私だけかもしれないということ。
普通、あんなことを言われたら怒って帰ってもおかしくない。なのに麗華さんは私の部屋にずっといてくれる。
この雰囲気から解放されたくて、早く帰ってほしいとも思う。でも、ずっといてほしいと思っている自分がいて、とても不愉快。
そんな私の様々な色が歪に混ざった心を知ってか知らずか、麗華さんは私が怒ってからは一度も言葉を発することなく、他のことをしている。
スマホを見たり、退屈することを想定していたのか教科書を開いて勉強したり。そして、時折思い出したかのように私の顔をまっすぐ見つめてくる。
麗華さんの顔ならわかるけど、こんな顔を見たって面白いはずがない。持ち主の私が見たって不愉快なだけだなのに。この顔が役に立つとしたら、サンドバックにする時に罪悪感を感じずに済むことくらいだろう。
「蠱惑は晩ごはん何にするの?」
「……えっ!? えーと、まぁ、適当に……」
今日はずっと一緒にいたはずなのに、数時間ぶりに声をかけられたような気さえして、思わず言葉に詰まってしまう。麗華さんの口調が普段と同じで、さっきのことを忘れてしまったかのような振る舞いなのも、私の混乱を助長してくる。
「私がご飯作ってあげよっか?」
「……料理できるんだ」
「テレビとか雑誌の企画に対応するためにね」
「体型維持のため、とかじゃないんだ」
「そういう努力しなくても、なんとかなっちゃうんだよね、私」
モデル界の頂点に立つ麗華さんは、飄々とした態度で努力していないと言う。それが真実かどうかなんて私にはわからない。影での努力をファンだけでなく恋人にまで隠す人がいてもおかしくないと思うし。
それでも確かなことは、麗華さんは世界で最も美しく、だからこんな傲慢とも取れる発言をしても世界が許してしまう。
「それで、どうする?」
ここで断るのは、恋人らしい振る舞いとは言えない。あんなことを言った後だからこそ、それらしく振る舞わないと……
「それじゃ、甘えちゃおうかな」
「恋人の家で、ご飯を作るなんて彼女っぽいね」
麗華さんはそう言って、さっきのことなんて忘れたように、年相応の女の子のようにはしゃいでいる。トップモデルの彼女が嬉しそうにしているものだから、美人が大嫌いな私でも、見惚れてしまいそうになる。
「冷蔵庫、開けてもいい?」
「特に何も入ってないけど」
そう私が答えるとすぐに、麗華さんは冷蔵庫を開ける。
「そう言ってる割には、結構いろんな食材が入ってるけど?」
麗華さんが学校では見せない、にやにしたや顔で私を見つめてくる。
こういうことになるかもと思って、一応食材をいろいろ買っておいた。野菜にお肉。そして、普段は高くて買わない夏の果物もいくつか。
別に、麗華さんが家に遊びに来てくれることが楽しみだったわけじゃない。ただ、こうしたら人付き合いの経験がない私でも、少しは恋人らしいことができて、麗華さんに好きになってもらえるかもしれないと思ったから。
「蟲惑、可愛いとこあるね」
「……こんな顔の人によくそんなこと言えるね……イライラする……」
さっき麗華さんに当たり散らかしてしまって、さすがに大人気なかったと少し反省した。でも、そんな感情は瞬く間に吹き飛んでしまった。
私が可愛いはずない。容姿だけじゃなくて、心だって醜い。そのことを先週と今日のことで強く自覚した。
そんな醜さを極めた私でも、普段ならこんなにイライラして、嫌味な言い方で返すようなことしない。ましてや、この程度のことで。
恋人のことを可愛いと思うなんて、愛おしいと感じるなんて、ごく普通のこと。それを言葉にして伝えてくれてるんだから、麗華さんは酷いどころか優しい人。
そう、麗華さんは美人なのに優しい。そんなことわかっている。でも、だからこそ、過去の苦い経験が私を酷く苛立たせる。
「蟲惑はかわいいよ」
「……いい加減にして! 一目惚れしたとか、可愛いとか……絶対言われたことも、言われることもないこと言って、からかうのはそんなに楽しいっ!?」
不満が言葉になって溢れていた。麗華さんに対する、じゃない。醜い人に対してあまりにも苛烈で、美人にとてつもなく甘いこの世界への理不尽に対する不満。それを初めて受け止めてくれそうな美人である麗華さんに、まとめてぶつけてしまう。
こんな理不尽、あっていいはずがない。私は麗華さんに何一つイヤなことをされていない。だから、こんなことをしていいはずがない。
なのに、これまで私が味わってきた理不尽を、誰かに当たり散らかすのは胸が痛むけど、それと同じくらい、気持ちがよかった。
膿んだ傷口を触りたくなるように。触ったら痛みが走るけど、それが少しクセになるみたいな心地良さ。そんなどこか恍惚とした、どうにも形容し難い感覚が、私を支配している。
「蟲惑……そんな風にずっと思ってたんだ……」
そのはずなのに、麗華さんの悲しい声がぼんやりとした脳内に響き渡った瞬間、これまでの人生で積み重ねてきた痛みが全て反転したような快感は霧散して……気持ち良い思いをした分だけ、痛みを倍にして心を満たした。
「あの、その……」
自分で自分がわからない。美人なんて大嫌い。世界中の美しい人を全員一列に並べて、順番に斬り殺してしまいたいほどに。
だから、麗華さんの心が傷付くのは、最高の悦び。そのはずなのに、そのはずだったのに……
死んでしまった方がマシだって思えてしまうくらい、いまは辛くて辛くてたまらない……
「そ、そうじゃなくて……」
恐ろしくて麗華さんの顔を見ることができない。美しい顔を見たらイライラするからじゃなくて、麗華さんの感情を知ることが恐ろしいから……
怒っているのか、悲しんでいるのか……答え合わせなんてしなくても、麗華さんとの恋人ごっこはこれで終わり。それは確かなのに、心はその現実を見たくないと悲鳴を上げている。
「……なんてね。そんなのわかってたに決まってるでしょ」
私が罪悪感に呑まれて、いっそこのまま死んでしまおうかと思っていると……麗華さんは、今度も何事もなかったように、冷蔵庫から食材を取り出して、料理を作り始めた。
「……えっ、あの……」
あまりの出来事というか、麗華さんの変化に思考がついていかない。普通、ここまで言われたら誰だって怒るか、傷付く。それか、うんざりして部屋を出ていく。
だって、誰かに好かれることを知らない醜い人間に、慈悲深くも手を差し伸べたら、当たり散らかされたんだから。美味しい思いをすることに苦労しない美人からしたら、やってられない。そのはずなのに……
麗華さんは私のために晩ご飯を作り始める。
「……あの、麗華は……何してるの……?」
「何って、蟲惑と二人で食べるご飯の準備をしてるんだよ。見てわからない?」
私と二人で食べる? こんなことを言われたいまのいま? どういう神経をしていたらそういう発想に辿り着くのかわからない。
もしこれが栄華を極める麗華さんのからかいや、嫌がらせといった暇潰しの類なら、もう私の負けでいい。私が麗華さんを惚れさせることで、醜い人間と美人の力関係を逆転させようなんて、大それたことを考えた私が悪かった。
身の程を弁えなかった私が悪い。でも……でも、これは違う。いつでもどこでも、私はイヤなことをされてきた。だから、経験でわかる。
麗華さんは嫌がらせとか、そういうくだらないことはしない。誰かを虐げることをしなくたって、頂点でいられる。それだけの実力と自信を麗華さんは持っている。そのくらいわかる。
だからこそわからない。なんでこうなるのか。どうして、こんなことを言った私が許されてしまうのか。それも一度だけじゃない。先週のデートと合わせたら、私は何度、意理不尽なキレ方をしたかわからない。
「……麗華は私と……ご飯を食べてくれるの?」
「当たり前でしょ。蟲惑は私の恋人なんだから」
恋人。恋人。恋人……あの路地裏で私に声をかけてきてから、ずっとそればかり。意味がわからない。
意味がわからないことは怖い。恐ろしい。理由が知りたい。もうこの際、どんな酷い理由でも良い。醜い人と一緒にいたら、自分は美人だと自覚できて安心するとか。そういうわかりやすい理由がほしい。
そうじゃないと、どうして麗華さんが私のことをこんなに甘やかしてくれるのかがわからない。
「……なんで……なんで許してくれるの?」
「許す? 蟲惑は私に何か悪いことしたの?」
「いや、だって、さっき、麗華に酷いこと言って……ていうか、今日だけじゃなくて、先週のデートの時だって……」
「気にするわけないでしょ、そんなこと。ネットで散々言われてるってのもあるけど、蟲惑が美人が大嫌いなことくらい最初からわかってたし」
麗華さんにバレていた……なんて驚くほど、私もバカじゃない。そりゃ、最初路地裏で告白された時にあんな塩対応されたら、誰だってわかる。
でも、そのことをわかっていたら、ただでさえ関わり合いになりたくない醜い人間と関わる理由が尚更わからなくなるから、その可能性を自然と排除していた。
「ていうか、蟲惑は私に本気で気付かれてないと思ってたの?」
「いや、だって、そうじゃないと説明がつかないっていうか……」
「やっぱり蟲惑はかわいいよ。抜けてるとこがあるのは、すごく良いと思う」
あまりに困惑していて、嫌味じゃないはずなのに嫌味に聞こえる”かわいい”に反撃する気力さえ湧いてこない。
「じゃ、じゃあ、理由を教えてよ! 自分のことを本当は好きでもない人と恋人ごっこしてた理由!」
「ごっこって、私はいまも本気だよ? 自分を嫌いな人と付き合ったり、自分が嫌いな相手と付き合ったりしちゃいけない決まりなんてないでしょ?」
「えっ、いや、それはそう……だけど……普通は付き合ったりしない。っていうか……」
麗華さんを支配する。そういう計画だったはずなのに、結局告白されてからずっとずっと私が振り回されている。麗華さんと遊ぶ時間の予定だけじゃなくて、麗華さんと一緒にいない日常の時間まで。心がずっと麗華さんに振り回されている。
「だから、最初に言ったじゃん。一目惚れだって」
「この期に及んでまた一目惚れ!? こんな容姿の人間に一目惚れなんてあり得ないでしょ!」
「まぁ、確かに八十億人が好まない顔だとは思うけど、例外が一人くらいいたってよくない?」
「そういう頭のおかしい人も探せばいるかもね!でも、それがよりにもよって、あの、いまをときめく麗華なわけ? どういう確率!? あり得ないでしょ!?」
「あり得てるじゃん」
まずい……何を言っても有効打にならない。全部全部、躱されてしまう。いや、躱されているならまだ良い。でも、麗華さんは私の言葉を避けてなんていない。真正面から受け止めて、軽々と打ち返している。
だから、私の知りたい答えにいつまでも辿り着くことができない。
「そんなんじゃ納得できない! 麗華が不愉快な思いをしてまで私と付き合い続ける理由をちゃんと教えて! 納得できなかったら……別れる!」
別れる。そんな言葉が脅しにならないことはわかっている。理由はわからないけど、私の心は麗華さんと別れたいとは思っていないし、私が麗華さんと付き合えているのは麗華さんの慈悲のおかげなんだから。
「蟲惑にそこまで言われたら、仕方ないからもう少しちゃんと説明するけど、理由の根本は変わらないよ」
なのに、麗華は私と対等な恋人関係であるかのように振る舞い続ける。
「一目惚れなんだから、蟲惑に容姿以外何も期待してないの。それが理由。蟲惑に嫌われてても気にしないことのね」
「……まだ納得できない……」
「一緒にいて幸せとか、楽しくお話ししたいとか、そういうことがしたいんだったら蟲惑を選ばない。私は蟲惑の顔を近くで見ていられたらそれだけでいいの。一目惚れってそういうことでしょ?」
……狂っている。麗華さんは壊れている。”美人は”とか、”トップモデルだから”とか、そういう偏見のような理由ではなく、麗華という人間が壊れている。
「……わかった……もう、麗華の好きなようにして……」
本当に私の容姿が好きなんだとしても、それはそれで美的感覚がおかしい上に、一目惚れという概念も崩壊している。
もし容姿が好きでないのだとしても……私はいまでもそう思っているけど、ここまで平然と嘘をつけるなんて、人としておかしいし、嘘をついてまでこんな醜い人間と恋人でい続けようとするのが壊れている。
ここまでして嫌がらせをしたいなら、もう受け入れるよ……好きなようにしたらいい。醜い私は……いつまで経っても美人の下であることを諦めるよ……
「それじゃ、来週は私の家に遊びに来てね」
「……私なんかに家の場所、教えていいの……?」
真夏の休日に、好きでもない恋人の家に遊びに行かないといけないなんて、面倒極まりない。
でも、もうどうにでもなればいい。そんな気分だった。
「ファンの子になら教えないけど、蟲惑は恋人だからね」
恋人だから。麗華から何度聞いたかわからない言葉。同じ言葉を何度も何度も発することで、刷り込みが行われると耳にしたことがある。
私は麗華の恋人。そんな自覚が、芽生え始めているのも確かだった。それは麗華が生み出した幻想だとわかっているのに。