「どう、返事は決まった?」
私が蠱惑ちゃんに告白した路地裏で、返事を求める。まぁ、聞かなくても答えはわかっている。
これまでずっと、同じ学校にいる有名人を無視し続けていたあの蟲惑ちゃんが、私が机に仕込んで置いた誘いを無視せず、この場に現れたということは、そういうことだ。
なんとなくだけど、断るつもりならわざわざそれを、よりにもよって美人に伝えようとするほど律儀な人間には見えない。
「返事は……決まってる……」
「それじゃ、答えを教えて」
返事を求め、それに躊躇いを見せる。その姿は私に、東雲麗華の毒がこの一週間で回りきったことを実感させる。
あえて、というほどでもないけど、純粋に仕事が忙しいこともあって、私は学校をしばらく休んでいた。蟲惑ちゃんが私の顔を見る時間が少なければ少ないほど、常人離れして強靭な心は自滅すると思ったから。そして、実際そうなった。
きっと告白されてからの一週間、ずっとあれこれ考えていたんだろう。私のことを。そして、私の手を取らされてしまった。
感情は時に本能を凌駕する。でも、そんな激情は永続しない。時間が経てば、内から際限なく滲み出てくる本能が、感情を埋没させる。
「その様子だと、ダメってこと?」
「そうじゃなくて……麗華さんと付き合いとは思ってるけど……」
ここで素直に好きだとか、付き合いという言葉が出ないところは好印象。自分の本心は東雲麗華を拒絶することにあって、東雲麗華の恋人になることは本能的な反応であることを自覚し、それに抗おうといまも強がっている。
たとえそれが無意味だとしても、そうすることが自分の証明であるかのように。
「ほんと! 嬉しい! モデルの仕事でずっと忙しくて、彼女は初めてだから、嬉しい!」
蟲惑ちゃんは私の彼女。私の恋人。そう自分自身に言い聞かせているようだった。
蟲惑ちゃんを恋人として扱うことは簡単。模範解答があるから、それに倣えばいい。そうするだけで、きっと好きにさせることくらいできる。
でも、それ以上はできない。私には、教科書以上の愛がわからない。親に捨てられた私にわかるはずがない。
それは蟲惑ちゃんだってきっと同じ。いや、彼女に至っては、教科書通りの愛や好意さえ知らないだろう。
「でも、恋人同士って何をしたらいんだろう……やっぱり、デートかな!」
「えっ、あの……」
「ねえ、ねえ、蟲惑ちゃんはいつならデートできる?」
「いつって、そんないきなり言われても……」
蟲惑ちゃんの想いなんて無視して、勝手に恋人にされて、勝手に失望される。そんな私のわがままにこれから付き合わされる蟲惑ちゃんは、さすがに可哀想だと思う。
だから、理想の恋人にはなれないけど、模範解答の恋人ではいてあげようと思う。下に見ているわけではなく、単なる客観的事実として、蟲惑ちゃんにとって私が最初で最後の彼女だろうから。
私はアイドルではないけど、モデルとして、夢を見させるくらいのことはしてあげてもいい。
私が世界に失望するために蟲惑ちゃんを利用する。私の恋人になるのは、その分の報酬。
「それじゃ、今週の土曜日、朝十時に駅前で待ち合わせね」
自分でも驚くほど一方的に、デートの予定を決めて、一方的に押しつける。
こんなやり方でも蟲惑ちゃんは来てくれるし、こういうやり方でないときっと来てくれない。そんな気がする。
そう思うのは、単に私が歪んでいるだけなのかもしれない。口約束なんていう善意で成り立っているものよりも、蟲惑ちゃんが抱く敵意の方が信じられる。
※※※
仕事がつまらないわけじゃない。私にだけスポットライトが当たるトップモデルでいる間だけは、私自身に価値があると錯覚できるから。
でも、その幻覚は舞台を降りればすぐに覚めて、恐れに変わる。注目も、喝采も、いつか尽き果ててしまうと。
どこかで私は人を、世界を信じることができない。常に付き纏う寄る方なさ。そんなものを抱えながら、電車に揺られて、蟲惑ちゃんとの待ち合わせ場所に向かう。
「恋人、か」
電車のドアにもたれかかりながら、小さくつぶやくように言葉が漏れる。
お互いにその気がないことはわかっている。私と蟲惑ちゃんを繋げているのは単なる利害関係。私はちゃんと世界に失望するため。親に愛されなかった私が、愛なんて手に入らないと諦めるため。蟲惑ちゃんは美人といられて、美人に必要とされて嬉しい。
この恋人関係に情はない。でも、それが納得感をくれる。ありえないほどの美人に生まれたというだけで、本質的には無価値な私にとって、信じられるのは利害関係くらい。
私が所属しているだけで事務所が儲かるとか、私とセットにするとそのコラボ相手が人や物であるかに関わらず人気になるとか。そういう関係は、愛を信じることのできない私にだって理解できる。
そんなものの延長を、恋人と詐称していること自体が私にお似合いだと思う。どれだけ東雲麗華が人気者で、世界の中心だとしても、東雲麗華の内側である私は、空っぽだから。
待ち合わせにしている駅の改札を抜け、その目の前にある噴水の近くに蟲惑ちゃんはいた。
私とは逆ベクトルで目立つ容姿。私と並んで歩けば、これ以上ないほどに世界の理不尽が戯画化される。でも、世界の本当の醜さは、失望は、そこにはない。でも、誰もそれを理解してはいない。
「ごめん、待った?」
恋人同士の待ち合わせでよくある台詞。相手への気遣い、即ち愛があることを示せる便利なワード使う。
「私が早く着きすぎただけだから気にしないで」
そう言って私の方を振り向いた蟲惑ちゃんの顔は、ぐちゃぐちゃだった。
最初から文字通りぐちゃぐちゃだったと言われれば、まさしくその通りでしかないけど、そういうことではない。
急拵えした気丈な感情が顔に出てしまっている。私にはその気持ちの正体が、少しわかる。私が来てくれるかどうか、それを信じられなかったんだろう。
噂が真実なら、蟲惑ちゃんは誰にも約束を守られたことがない。クラスメイトの誰かが、何の感情も伴わずあっさりと、去年の文化祭の買い出しで蟲惑ちゃんにだけ別の待ち合わせ場所を伝えたと言い放っていたのを耳にしたことがある。
それが酷いことだとまでは思わない。誰だって、醜い容姿の人と一緒に過ごしたくはないから。
それでも、この表情を見ると思ってしまう。紙の上だけの恋人が、待ち合わせに時間通りに来ただけでここまで感情を爆発させる人に、そこまでする必要はあったのかと。
「それじゃ、行こっか」
「ちょっ、手、掴まないで」
「手を繋いでるの。デートなんだから、手は繋ぎたいよ」
デートの模範解答通りの行動と場所へ向かって歩き出しながら、手を繋いだこの行為を、手を掴むと表現されたことに感心している。
手を繋ぐという行為の本質は、きっと心が通っていること。子どもが親と手を繋ぎたがるのは、そこに愛があることを確信して、確かめたいから。
そういう意味で、いま行われていているこれは、手を掴む行為でしかない。
私と蟲惑ちゃんの間に愛はない。私が蟲惑ちゃんの手を掴んだのは、蟲惑ちゃんの表情に過去を見たから。
私がいま手を繋いでいるとしたら、それは親に見向きもされず泣き崩れていた過去の私にであって、私が来てくれるかどうかという不安に震えていた蟲惑ちゃんにではない。