《汚泥の底で煌めく一等星 後編5話 求められるもの》 作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

恋人の家に遊びにいく。それは当たり前の行為のはずなのに、心がささくれ立ってしまう。
蟲惑こわくちゃんの家に向かう足取りが、期待からではなく苛立ちで加速していく。
蟲惑ちゃんのことが特別嫌いなわけでも、好きなわけでもない。ただ、二人でデートしたあの日以来、ふとした瞬間にあの子の姿が瞼の裏に浮かんでしまう。それが私を不快な気持ちにさせる。
彼女の容姿が醜く、あの悍ましい姿が脳裏に焼き付いて離れない。そんな理由ならどれだけよかっただろう。
親でもない、ましてや好きでもない女の子に、私の心は期待してしまっている。蟲惑ちゃんこそ、心が探して求めていた愛をくれる人じゃないか。そんな愚かなことを。
何を話しても、何をしてあげても、私にキツく当たってくるだけの女の子に、私は何を考えているのかと思う。
彼女はただ、恵まれない自分の境遇を呪って、その八つ当たりをしているだけ。そんなことはわかっている。わかっているはずなのに、彼女に何かを感じ取ってしまう。
それは、私と蟲惑ちゃんは親に捨てられているという、同族意識なのかもしれない。あるいは、もっと奥深くの、言葉にはならない領域がそう感じているのかもしれない。
とにかく、そういう自分が許せない。この世界のどこにも存在しないものに期待している愚かな自分が。
わざわざモデルの仕事に休みを取ってまで、蟲惑ちゃんと過ごそうとしている自分自身の心理が。
端的に言って時間の無駄。私にとって無駄なだけならともかく、蟲惑ちゃんにとっても、私との時間は苦痛になっている。お互いにとって、一緒に過ごすことは負の側面しか持っていない。
にもか関わらず、この恋人のごっこは続いている。

真夏の土曜日。太陽は空の頂点で光り輝き、辺りを肌が焼けるほどの熱気で包み込んでいる。
日焼け止めを塗っていても肌が焦げていくのがわかるから、日傘を差して日光をガードする。
こういう時、蟲惑ちゃんが少し羨ましい。容姿に気を使わなくて済むだけで、可処分時間がかなり増える。
なまじ私のように容姿がいいと、そこに依存する人生設計になりがちで、捨てることができない。
周囲も私の容姿に惹かれて寄ってくる。そのくらいしか私には価値がないから。
「ここか……」
地図アプリの案内に従っていると、案内が終わる。そして目の前に現れたのは、何十年もの間一切の補修をされていないようなボロボロの二階建てのアパート。
これだけ醜くても、このアパートは求めてくれる人がいる。少なくとも、家賃が安いという理由で蟲惑ちゃんからの需要がある。
でも、私は違う。私から美しさを取れば何も残らない。求めてくれる人なんていやしない。だから、美しくあり続けるしかない。
私を求めてくれる人はいなくとも、東雲麗華しののめれいかなら求めてくれる人がいるから。
世界で最も憧れや妬みの対象の東雲麗華の中身が、こんなボロアパートに嫉妬しているなんて、想像したファンが一人だっているだろうか。

いまにも崩れそうな外気にさらされている階段を登り、チャイムを鳴らす。その刹那、間髪置かずに玄関の扉が開かれた。
「い、いらっしゃい」
チャイムを鳴らしてから扉が開くまでの間といい、頬の緊張といい、まるで蟲惑ちゃんは私が来るのを待ち焦がれていたように見えてしまう。それが私を期待させて、不快な気持ちにさせる。
「お邪魔します」
蟲惑ちゃんが住んでいる家は、一人暮らしであることを考えればそれなりの広さだと思う。だけど、実際の面積以上に広く感じるのは、この空間には何も存在していないからだろう。
居間の中央に置かれている床に座って使うことを想定された背の低い机と、キッチンに置かれている冷蔵庫。そのくらいしかこの家にはない。
生きるための最低限。それ以外を完全に削ぎ落とした殺風景な部屋。ただ漠然と、美人への恨みだけを頼りに生きる蠱惑ちゃんを反映した部屋。
「蟲惑はこういう家に住んでるんだ」
蟲惑ちゃんのことだから嫌味だと捉えているんだろうけど、そうじゃない。私としてはこういう部屋は好印象。
蟲惑ちゃんは本当に、本当に何もないんだとわかるから。こんなにも何もない子が、私のような美人を目の前にして、いつまでも冷静でいられるはずがない。
だから、こんな子にさえ愛してもらえなかったら、きっぱりと諦めることができる。
「良い家でしょ」
「うん、そう思う」
「……麗華が何飲むかわからなかったから、とりあえず健康に良さそうな麦茶は用意してあるけど」
きっと蟲惑ちゃん自身さえ無自覚な沈黙の後、歓迎の意思を示してくれる。
私のために飲み物を用意している。そんなことをしてくれることが意外だった。東雲麗華にそこまでしてくれる人はいたけど、私にそこまでする価値はないから。
「私の体型に気を使ってくれてる?」
だからカマをかける。この気遣いが私に向けられたものなのか、東雲麗華に向けられたものなのかを。
「まぁ、多少は」
その返答を耳にして、音にならないため息が喉の奥で熱を持つ。
蟲惑ちゃんは美人を憎悪している。この世の絶対悪であるかのように。そんな蟲惑ちゃんでさえ、私ではなく東雲麗華に価値を見出している。
親に捨てられて、誰の頭の中にも永住することができない私。そんな私が生み出した、たくさんの人の頭の中に寄生するための形態が、東雲麗華。だから私と東雲麗華は同じじゃない。
そんなことを考えていると、蟲惑ちゃんは冷蔵庫からペットボトルに入った麦茶を取り出して、コップに注いでいく。
「蟲惑が淹れてくれたやつじゃないんだ」
こういう時、手作りだったら自分のためにしてくれたという実感があっただろうと想像してしまうのはなぜなのだろう。
手作りと既製品に、本質的な差異はないはずなのに。私の心は手作りであることを望んでいる。
「私がそういうタイプに見える?」
「うーん……あんまり」
「正直なことで」
「次来るときは、蟲惑が淹れた麦茶をお願いね」
手作りであったとしても、それは東雲麗華のためであって私のためではない。それでも、次があるのなら、手作りがいい。
いくら美人でも私が言えば誰もお願いなんて聞いてくれない。だから私は、美の強制力を持つ東雲麗華らしくおねだりをする。
「……うん、用意しとく」
蟲惑ちゃんと一緒にいるのは世界に失望するため。その計画は順調に進んでいる。そのはずなのに、時々不安になってしまう。
もしかしたら蟲惑ちゃんなら、東雲麗華でなくても、親にさえ捨てられた私のことを見てくれるんじゃないかって。
それは、私が東雲麗華らしい振る舞いをすると、決まって蟲惑ちゃんは機嫌を悪くする。そして、私が私らしい振る舞いをしたときは、機嫌の良し悪しは別にして、蟲惑ちゃんは自分を見せてくれるから。