蟲惑ちゃんの家に来てから四時間が経った。予想していたことだけど、蟲惑ちゃんと一緒にいても退屈だった。会話も続かないし、話題にするほどのこともない。
だけど、不思議と不愉快ではなかった。モデルの仕事をしていて、楽屋や舞台裏で待つことになるのは何度も何度もあった。そういうときと、いまは同じ過ごし方をしている。
勉強をしたり、SNSの更新をしたり。やっていることは同じはずなのに、いまの方がなぜか気が楽。
その理由を探したら、蟲惑ちゃんがいること以外に見つからない。それが納得できなくて、何度も何度も蟲惑ちゃんを見てしまう。
その度に痛感させられる。こんな子と一緒にいたって面白いはずがないのに、と。
一目惚れしたなんて嘘をついたことを後悔するほどに醜い容姿。同じ空間を共にするだけで人を不愉快にさせるほど醜い姿。それだけでも致命傷なのに、いつ見ても蟲惑ちゃんは不機嫌そうな表情を浮かべている。
論理的に思考を回転させればさせるほど、この空間に居心地の良さは存在しない。その片鱗さえ。それでも私は、心地良さの萌芽を感じていて、それが何よりも気に入らない。
こんな何もないどころか、マイナスに振り切っている女の子に対して特別な感情を錯覚していることではなく、こんな感情を感じて、ましてや育もうとしている自分自身の心が気に入らない。
「……さっきから、私の方をチラチラ見てるのは何なの?」
混乱した思考に突き刺さる蟲惑ちゃんの容赦ない追及。彼女が私の視線を不愉快に感じていたことは察していたけど、触れてこないと思っていた。
それが、よりにもよってこのタイミングなんて……悪意のない無意識なんだろうけど、彼女が嫌われている理由がわかったような気がした。
「恋人の顔を見たくなるのはダメ?」
「恋人のなら見ていいと思うけど」
暗に、ですらなく直接私たちの関係は恋人でないと糾弾される。それは事実であって、事実でない。その複雑さが返答を困難なものにする。
「なら、いいじゃん」
「だから、よくない」
恋人であると主張する私と、そうでないと主張する蟲惑。普通、これだけ容姿に差があったら、恋人という関係に執着するのは蟲惑ちゃんの方だと思うんだけど、それが逆になっている。
「はいはい、蟲惑はかわいいね」
「……そういうのいいから」
こんなにも醜い蟲惑をちゃんをかわいいと形容するのはおかしな感じがする。でも、自分で予想していたよりもすんなりと言えてしまう。
だからなのか、蟲惑ちゃんの反応もさっきまでと比べたら温和だった。
蟲惑ちゃんは、私とのいまの関係を決して恋人だと認めない。その理由が、私と本当の恋人になりたいという感情が裏側にあるからだとしたら、この振る舞いはかわいい。だから、素直に言えてしまったのかもしれない。
そして再び流れる沈黙。十数分置きに発生する小競り合い以外に音のない空間。蝉の鳴き声と、音になりそうなほどの夏の熱気。そして、蟲惑ちゃんの呼吸の音。
休日に何をしているのか心配になってしまうほど、蟲惑ちゃんは何もせず、じっとしている。
部屋の角に置かれている未開封の東雲麗華が表紙を飾る例の雑誌と、私がプレゼントした東雲麗華のぬいぐるみ。
こんなに何もすることがないなら、退屈凌ぎになればと開封してもおかしくない。でも、この雑誌は開かれていない。
中身になんて一切の興味がなく、ただ東雲麗華がいればそれだけで役割を果たしていると言わんばかりに。
まぁ、実際にそうなのだろう。さっき蟲惑ちゃんはインテリアとして買ったと言っていた。
その言葉が頭の中で反響して、私の心を惑わせ続ける。雑誌をインテリアにする人なんて滅多にいない。そういう人がいるとしても、何冊も買って一度は内容を確認する。
それを蟲惑ちゃんは、お金がなくて困っているはずなのに、内容を無視して表紙の東雲麗華を見るだけで満足した。
その心理がわかるようで、わからなくて、愚かにも期待してしまう。蟲惑ちゃんが、私に告白される前に行っていた無意識の行動は、私の理想に掠っているから。
無意識の行動が私の望みに叶うのなら、もしかしたら私を裏切らないんじゃないかって。
「蟲惑は晩ごはん何にするの?」
親に捨てられた過去を忘れたかのように振る舞う自分自身の心を押さえつけようと、午後六時というこの時間にマッチした話題で気を逸らそうとする。
「……えっ!? えーと、まぁ、適当に……」
「私がご飯作ってあげよっか?」
まるで数時間ぶりに私と会話したかのように声を上げた蟲惑が、あまりにも適当な言葉を返すものだから、ほとんど反射的に面倒な提案をしてしまった。
「……料理できるんだ」
「テレビとか雑誌の企画に対応するためにね」
「体型維持のため、とかじゃないんだ」
「そういう努力しなくても、なんとかなっちゃうんだよね、私。それで、どうする?」
「……それじゃ、甘えちゃおうかな」
その答えを聞いて、私は適当に返事をして、キッチンへと向かう。
料理ができる理由を適当に答えてしまった。私が初めて料理をしたきっかけは、思い出したくもなかったから。
私が初めて料理を作ったのは確か五歳の時。お母さんたちの気を引きたくて、色々試して、その中の一つが料理だった。
その時、指を切ったりしたのか、焦がしたりしたのか、そういうことは全く覚えていない。
そんなことよりも、仕事から帰ってきたお母さんたちが、義務感だけのありがとうを言って、黙々と私が作った料理を食べている姿が、あまりにもショックで、それだけが記憶に焼け焦げている。
それ以来、料理は得意でも不得意でもない。お母さんたちは美味しいとも不味いとも言わなかったから、自分の料理がどんな味なのかわからない。
あんな目でご飯を食べられるくらいだったら、不味いと酷評されて、ゴミ箱に捨てられる方がまだよかった。
そうしてくれれば、お母さんたちの気を引くという目的自体は果たせたのだから。どんな形だとしても、コミュニケーションを取ることはできたのだから。
幼い私は、必死に料理を作って、お母さんたちの心にさざ波ひとつ起こすことができなかった。あれ以上の絶望なんて、きっとこの世界にない。
※※※
料理中、蟲惑ちゃんが少しだけ邪魔してきたけど、それ以降は特に何事もなく、料理は進行し、完成を迎えた。
普段料理をしないであろう蟲惑ちゃんが、今日のために買い揃えていた食材は、実に不揃いだった。
通常、食材というものは目的を持って買う。料理とは買い出しも含めて合目的的であるはずなのに、蟲惑ちゃんのそれはまるで違った。
何を作るかが先ではなく、私、あるいは蟲惑ちゃん自身が作ることが目的だったから、食材に統一性などあるはずがなかった。
焼き魚を伴う和食も作れるし、カレーも作れるし、洋食だって作れるし、スイーツだって作れる。まるで片付けが苦手な子どものおもちゃ箱のような冷蔵庫を目にした時の衝撃は、料理を作り終えたいまも残っている。
蟲惑ちゃんが嫌われている理由に、容姿がとてつもなく醜いことがあるのは間違いないけど、それだけじゃないことは、時間を共にすればするほどわかってくる。
蟲惑ちゃんの行動は何か根本的なところで破綻している。一見容姿以外は普通なのに、毒島蟲惑という人格の浅瀬に浸かるだけで、引き摺り込まれてしまうほどに狂っている。
それは親に捨てられ、養護施設で虐げられたという経験から来ているのか、それとも生来の性質なのかまではわからないけど、蟲惑ちゃんが壊れていることだけは間違いない。
「できたよ」
「……ありがとう」
机の近くの床に座っている蟲惑ちゃんは、机の上に置かれた手作りハンバーグを見るなり、どこか不満そうな表情を浮かべる。
「ハンバーグは嫌いだった?」
「……見た目が綺麗だなと思って」
私から視線を逸らしながら、蟲惑ちゃんはそう呟く。蟲惑ちゃんが美しい人を恨んでいることはわかっているけど、まさか綺麗に整った料理までその対象だとは思わなかった。
均整など微塵もない蟲惑ちゃんにとっては、機能的な生物の肉体や、絵画の黄金比、そういったものまで、この世に存在するありとあらゆる美しいもの全てが敵なのだろう。
でも、そんな彼女が苛立つということは、私が作ったハンバーグが美しいことの何よりの証明。
お母さんたちの心を何一つ動かすことのできなかった私が作った料理……それは、味はまだわからないけど形は整っていたことを保証してくれる。
「綺麗なのは嫌い?」
「……好きになれると思う?」
「なってくれたらとは思ってるよ」
自分で作ったハンバーグを口に運びながら、まるで口説いているみたいだと思った。初めて蟲惑ちゃんに話しかけたあの路地裏では、全てが嘘だったはずなのに。
ただ利用するために声をかけた。失望するために。その最後の一手になってくれるのは、蟲惑ちゃんのような恵まれない人生を歩み、誰かに必要とされることに飢えている人しかいないと。ただそれだけだったはずなのに……
蟲惑ちゃんが私のことを本当に好きになってくれたらと、そんな風に思っている自分がいる。
そしてそれは、好きになってくれるんじゃないかという期待というよりは、願望の方が近くて……
「どう、美味しい?」
この言葉は、最初誰に向けたものだっただろう。確かにお母さんたちへ向けた言葉だったはずだけど、幼い私は言葉にできなかった。両親の姿があまりにも悍ましかったから。
自分の娘が作ってくれた料理を、まるで廃棄される寸前のコンビニ弁当と同じように食すその姿が。
「……美味しいよ、すごく」
「だったら、ぐちゃぐちゃに崩さないでよ」
「こっちの方が美味しく食べられるから」
ちゃんと綺麗になるように、視聴者ウケするように練習したハンバーグを、食べるために切り分けるのではなく、ナイフとフォークで押し潰していく蟲惑ちゃんの姿は狂気的だった。
美しいものは必ず壊さなければならない。そうすることが自分の使命であるかのように、彼女は振る舞う。
本当ならこんなことをされたらイヤなはずなのに、不思議とそういう気持ちにはならない。
もちろん、不快感がゼロというわけではないけど、それ以上に心が通っているという実感の方が大きかった。
私が作った料理なんて、無価値なものでしかなかった。親は見向きもしてくれなかったし、ファンだって東雲麗華が作る料理だから、美味しそうとか食べてみたいと言ってくれる。
美人で有名人の東雲麗華が作ったという付加価値だけが、私の料理の全てだった。
でも、蟲惑ちゃんは違う。私が作った料理を美味しいと言ってくれた。私が作った料理が綺麗だからこそ、ぐちゃぐちゃになるまで壊している。
東雲麗華であることでしか世界に影響を与えることのできない私。そんな私のしたことに、蟲惑ちゃんは反応してくれる。
「そうした方が美味しいなら、仕方ないな」
「…………受け入れてくれるとは思ってなかった」
「私も驚いてる」
蟲惑ちゃんと一緒にいると、イライラするし、不安になってくる。いまは美味しそうに食べてくれてるけど、いつまでもこうしてくれるわけじゃない。
東雲麗華でない私なんて無価値だって、そんなことわかっているのに、蟲惑ちゃんならもしかしたらって、信じたくなってしまう。