《汚泥の底で煌めく一等星 後編7話 心の辻褄合わせ》 作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

今日は蟲惑こわくちゃんが私の家に遊びに来る日。どういうわけか最近の私は、蟲惑ちゃんと二人きりでいられる時間を作るために、土曜日は必ずモデルの仕事を休んでいる。
マネージャーには休む理由を聞かれるけど、モデルとしての目標を達成してどうすればいいか迷っているから、少し休みを入れたいと言って誤魔化している。
別にアイドルではないから恋人がいても問題ないはずだけど、いない方が望ましいのは間違いない。まぁ、蟲惑ちゃんは恋人であって恋人でないから、隠す必要なんてない気がするけど。
それにしても……どうして私は、そわそわしているのだろう。今日の朝からならともかく、昨日の夜、モデルの仕事が終わりに近付くだけで、胸の鼓動が早くなり続けていたのはなぜだろう。
その正体を、私は理解している。愛着は、願望。そういった、人生において不必要なもの。だからこそ、それを強く否定する。そんなものに取り憑かれたら、後で辛いだけなんだから。
私の人生の苦痛の大半は、愛という幻想に妄執していたことで生まれた。私が愛されるための要素が足りないから、お母さんたちは私を愛さないのだと勘違いをして、自分で自分自身を努力不足だと否定して……
愛などこの世界に存在しなかった。世界の創造から、その終末まで。そのことにもっと早く気付いていれば、何もない蟲惑ちゃんにまで捨てられて絶望する、なんていう回りくどい方法を取らずとも、完全に諦められただろうに。
「バカみたい……」
タワーマンションの最上階にある私の家はとても広くて、口から漏れたため息のような独り言は瞬く間に霧散して消える。
この家は両親の持ち物だったけど、二人が海外で仕事をするようになってから、私の持ち物になった。
最初の頃は私の世話をする家政婦とベビーシッターが合わさったような人がいたけど、私に無関心な人間が家の中にいるのが耐えられなくて、小学生の頃にやめてもらった。
この家はただ住む場所でしかない。ここが私にとって帰る場所であったことは、一度としてなかった。もっと言えば、私が帰る場所、帰りたいと思える場所があったことさえ一度もなかった。
でも、それに近いものを蟲惑ちゃんに感じ始めている。蟲惑ちゃんがいる場所が帰る場所。そんな風に。
それが私を壊す。感情の制御権を私から剥奪する。自分自身では操れない何かが、蟲惑ちゃんを突き放そうとする。
それはきっと、心を守るため。必ず訪れることになる、蟲惑ちゃんの心が冷める瞬間。そのときに傷付かないために。むしろその瞬間、ちゃんと世界に失望できるように。

なんて、不毛なことを考えているとインターホンが鳴った。念のためにカメラで誰が来たのかを確認すると、それは見間違えるはずがないほど記憶に残る容姿の蟲惑ちゃん。
その顔を見て、心臓が飛び跳ねたように錯覚して、それが余計に頭にくる。
適当に返事をしてから、フロントのドアを開けて、もう一度インターホンが鳴るのをいまかいまかと待つ。
誰かを心待ちにする。こんな気持ちになるために、蟲惑ちゃんに声をかけたわけじゃない。むしろ、こんな感情にさせるものは世界に存在しないと、確信するためだったはず。
なのに、どうしてこうなってしまったのか……感情が倫理的な道筋を立てることがないのはわかっているけど、それにしたって破綻している。少しくらいは、私が思った通りに心が動いてくれてもよかった。
自分自身の心理が不満で不満でたまらなくて、それが限界を越えようとしたと同時にインターホンが鳴る。
それが契機だった。心が自分の思い通りならないなら、行動で思い通りにしてやろうと。
私の心が求めるものを、無意識でくれる蠱惑ちゃんが、こうなった全ての原因。
だから、蟲惑ちゃんに酷いことをしよう。誰にでも好かれる東雲麗華としてではなく、私として接しても受け入れてくれる蟲惑ちゃんとこれ以上一緒にいたら、心が壊れてしまう。
そうなる前に、この関係を壊してしまおう。それだけで、最初の目的は果たされる。「ちょっと酷いことをしただけで私から離れる程度にしか、蟲惑ちゃんですら愛してくれないんだ」と。
だって、親なら子どもが殴ってきたり、暴言を浴びせてきたとしても、真に嫌いになったりしないはずだから。

玄関を開けて、蟲惑ちゃんの姿が目に入る。どこまでも醜い容姿。それがいまはどこか心地よくて、だからこそ”どこか”であるいまの内に、否定しなければならない。
私は理由を探し始める。蟲惑ちゃんを否定する理由を。本来は嫌いになる理由があって、それで怒るという順番だけど、私は嫌われるために怒る理由を探している。
やっぱり、私と蟲惑ちゃんは根っこのところが似ているのかもしれない。蟲惑ちゃんが食材を買った時のように、私もまた、目的と手段の順番が逆になっている。
蟲惑ちゃんを眺め続けてようやく怒る理由を見つけた。蟲惑ちゃんの左目についた青あざ。
それは、モデルという容姿を扱う仕事をしていなければ気付かないほど目立たない傷。それが理由として相応しいように思えた。
蟲惑ちゃんの容姿に一目惚れしたという、あまりにも無理がある設定をある程度正当化しつつ、容姿で世界の頂点を取っている東雲麗華しののめれいからしい発言だと思うから。
「どうしたの、いきなり? 流石に恥ずかしいんだけど……」
蟲惑ちゃんの左髪を払い除けて、そこにある傷跡に視線を合わせる。それから一呼吸置いて、言葉を続ける。
「その怪我、どうしたの?」
「これ? 昨日体育の授業でよそ見してたらボールが当たっちゃって……心配してくれてるの?」
ありがちな理由でできた、大したことのない傷。こんなしょうもないものを非難し、糾弾すれば、いくら私以外に何もなかったとしても、嫌いになるに決まっている。
どうせ、この世界にある思い入れとか、愛とか、依存なんて、その程度で壊れてしまうものだから。なんて……なんて希望のない世界なんだろう。
「あの、麗華、どうしちゃったの? 急に黙り込んで……」
「……私たち、別れよう」
自分で別れを口にしておきながら、どうしてだろう少し……いや、とても強く胸が痛む。
私は蟲惑ちゃんを好きになり始めている。万人に好かれる偶像である東雲麗華を演じなくても受け入れてくれる、私と等身大で向き合ってくれる蟲惑ちゃんのことが。
だからこそ、いま切り捨てないといけない。お母さんたちを早期に切り捨てることができなかったせいで、私の人生は親と結ぶはずだった絆を追い求めるだけの地獄と化した。
いまならそれを変えられる。蟲惑ちゃんを切り捨て、蟲惑ちゃんからも切り捨てられることで、ようやく私の人生は始まる。親の束縛から解放された、東雲麗華である必要のない、私の人生が。
「……えっ、な、何言って……」
「それじゃ」
別れに情けは必要ない。そんなものを残してしまえば、後で痛みになるだけ。蟲惑ちゃんを嫌いになった理由は、私の中にあるだけでいい。
「ちょっ、ちょっと待って! わ、私、何か悪いことしちゃった? それなら謝るから……」
そう思って、無慈悲に玄関を閉めようとしたら、硬い何かが挟まって閉めることができない。
何が挟まっているのか確認してみると、それは蟲惑ちゃんの右脚だった。勢いよく扉を閉めたから、きっと怪我をしただろう。
そうなることをわかっていても、私が玄関を閉めるのを阻止したかった。でも、この程度の執着で私の心は乱れない。私だって、お母さんたちの気を引こうとして、これくらいのことはしたことがあるから。
「私、あなたの顔が好きだって言ったよね? 顔しか好きじゃないって、ちゃんと先週、伝えたよね?」
だから、あなたにはもっと深い絶望をあげる。これであなたは私から脱落する。ついていけないって。やってられないって。
「あなたには顔しか価値がないのに、それを守るために全力を尽くせないような人とは付き合えない。失望した。だから、さようなら」
顔に青あざができただけで別れを切り出してくる恋人なんて、付き合いきれないに決まっている。仮に今日、蟲惑ちゃんが私に縋り付いてきてたとして、それに私が絆されたとしても、次、蟲惑ちゃんが顔に擦り傷程度だとしても、顔を傷付けたら私は激昂する。
だって東雲麗華が好きなのは、蟲惑ちゃんの顔だけなのだから。

蟲惑ちゃんが玄関に挟んだ右脚を何度も蹴って弾き飛ばし、無理矢理玄関を閉める。
私から家に誘っておいてこの仕打ち。こんなことをされて相手を嫌いにならない人がいるはずない。残ったとしてもそれは、寄る方なさからの依存だけ。
依存なんてものが長続きしないことは私が一番よく知っている。親の庇護なしには生きることができない私は、愛のない親に依存するしかなかった。
そんな関係が長続きするはずもなく、いまは経済的な依存さえ喪失して、未成年だからどうしようもない瞬間以外は、繋がりが断絶している。
この実感を伴った推測通り、玄関を閉めてから何の物音もしない。私に少しでも感情が残っているなら、こうはならない。
蟲惑ちゃんは私に失望した。その実感がゆっくりと心の奥で熱を帯び始め、それが蟲惑ちゃんの喪失を明るく塗り変えていく。
あんなにも醜くて、性格も悪くて、気も利かなくて、いいところなんて何一つない、空っぽの女の子にさえ見捨てられたんだから。愛を諦める以外の選択肢は残されていない!
その確信が得られた。もうあなたに伝えることはできないけど、ありが……
「いやーーっっ!!! ま、待って! れ、麗華! ご、ごめんなさい! もう二度としないからっ!!!」
玄関を背もたれにしていたから、思わず全身が飛び跳ねてしまった。一瞬、何が起きたのかさえ分からなかった。
鋼鉄の扉越しにでも聞こえてくる蟲惑ちゃんの声と、扉を叩きつける轟音。喉が張り裂けることさえ厭わない、両手が砕けることさえ視野にない、異常な行動。
「私が悪かったから! 麗華が言ったことを本気にしなかった私が悪かったからっ!!!  開けてなんて言わないから、話だけでも聞いてよっ!!!」
蟲惑ちゃんの姿を見ることはできないけど、これまで私が見たことがない醜態を晒しているんだろう。私に手を差し伸べてもらいたいがために。
……せっかく、諦められそうだったのに……この世界には私を満たしてくれる愛なんて最初からなかったんだって。
でも、ここまでされたら期待しちゃう……期待したくなっちゃう。私だって本当は、諦めるよりも、失望するよりも、希望を追いかけていたい。
だけど、期待して裏切られるのは疲れちゃったんだよ。蟲惑ちゃんだってそうでしょ? だったら、この気持ちをわかってくれるでしょ?
そのはずなのに、どうして蟲惑ちゃんは手を伸ばし続けられるんだろう。そんなことをしたって、どこにも届かないと、お互い誰よりもわからされているはずなのに。
所詮私たちは、最も私たちを愛してくれるはずの親にさえ見向きもされなかった、世界に居場所のない生き物。どこまで行っても、その呪いが解けることはない。
世界の底辺を彷徨っても、世界の頂点に立っても。あなたと私にかけられた呪いが解けることはない。
それでもあなたは、手を伸ばし続けている。他でもない私に向かって。希望を求めて……

「誰だって失敗はあるよね。わかるよ。その容姿だから、一目惚れを本気にしなかったのも、同情の余地があると思う。だから、今回は許す。でも、いまの蟲惑は好みの容姿じゃないから、今日は帰って」
どうして私は玄関を開けてしまったのだろう。そこには蟲惑ちゃんがいるとわかっているのに。私に掴んでもらおうと、手を伸ばしている蟲惑ちゃんがいるとわかっているのに。
別に期待なんてしていない。蟲惑ちゃんには私しかいないから、必死に縋り付くのは当たり前。ただの生存本能。そんなもの、普段の私なら相手にしない。
でも、蟲惑ちゃんはあまりにも私だから、蟲惑ちゃんにではなく、あまりにも報われなかった幼い私に手を差し伸べたくて、いまこうしている。
蟲惑ちゃんの瞳にはいま、私しか写っていないのかもしれないけど、私はあなたなんて見てはいない。私はあなたに幼い私を見ている。ただそれだけのはずなのに……それ以上の何かを、感じている私がいるような気がした。