《汚泥の底で煌めく一等星 後編8話 一目惚れの感触》 作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

蟲惑こわくちゃんに条件付きの三行半を突きつけてから五日が経った。この五日間はモデルの仕事が忙しくて、学校に行く暇さえなく、蟲惑ちゃんがどうなったのかを知らない。
それを確かめるために、私は学校に向かっている、
私たちは恋人同士とはいえ、何か強い結びつきがあるわけじゃないから、連絡を取り合うことはなかった。次のデートの約束も、その日のうちにしてしまうから、私が蟲惑ちゃんに教えたプライベート用の電話番号が使われたことはこれまでに一度もない。
結局のところ、私と蟲惑ちゃんの関係はその程度。どうしてあの時、彼女に手を差し伸べてしまったのか、いまでもよくわからない。
私を求めて泣き叫ぶ蟲惑ちゃんをあのまま放置していれば、あまりにも無慈悲な私に、蟲惑ちゃんは完全に失望していたはず。それで当初の目的は果たせた。世界に期待することをやめられた。
自分でも納得できない一貫性のなさが原因で、私はまだ希望に囚われている。蟲惑ちゃんであれば、私のことを無条件に受け入れてくれるんじゃないかって。自分の子どもであるというだけで全てを受け入れてくれる親のように。

芸能活動に支障をきたすとしても、人との繋がりがある普通の高校を選んだ理由を果たすために、教室に足を踏み入れる。
ここ数週間、教室に入って真っ先に私の視線が自然と吸い寄せられる窓際の席。そこにはいつもいるはずの蟲惑ちゃんがいなかった。
根本的なところが間違っているのに、妙なところで真面目な蟲惑ちゃんが学校を休んでいるのはとても珍しくて、すぐにわかった。
「ねえ吹木さん、蟲惑ちゃんが学校を休んでいる理由ってわかる?」
席に鞄を置いて、右隣にいる知り合いに声をかける。
「……どうしてあんな子のことが気になるんですか?」
モデルの世界で生き抜いてきた東雲麗華としての直感が、吹木さんが私と蟲惑ちゃんの間に何か接点があるのではないかと、微かな疑いを持ったことを知覚する。
まぁ、どれだけ調べたところで出てくる事実は、私が蟲惑ちゃんの手を掴んで歩いている光景や、お互いの家に遊びに行っている姿まで。
それなりに清廉潔白なイメージで売り出している東雲麗華しののめれいか像にダメージはあるかもしれないけど、不祥事というほどではない。
そのはずなのに、必要以上に不安になってしまうのは何故だろう。吹木さんは東雲麗華のファンだと知っているから? 隣の席という妙な距離感の近さが不安を煽っている?
正体を掴めないのなら考えても仕方ないか……
「あの子だけ私に一度も話しかけてくることなかったから、印象に残ってて」
「そういうことですか。まぁ、私も、というか学校中の印象に残ってると思いますけど……」
吹木さんの妙な含みのある言い回しで、私が休んでいたこの三日間の間に、蟲惑ちゃんが何か事件を起こしたのだと確信した。
確かに彼女の容姿は印象に残るけど、学校中はかなり過剰な表現。単に美しいだけではそれほど強い印象を人に与えることはない。私が多くの人に記憶されているのは、トップモデルである東雲麗華だから。
単に醜いだけの蟲惑ちゃんの容姿は、人生を破壊するのに充分な威力は持つけど、無関係の人間の記憶に焼き付くほどの影響力はない。良くも悪くも、容姿の影響力なんて、その程度。
「蟲惑ちゃんが何かしたの?」
「学校に来てなかった麗華さんが知らないのは無理もないですけど……あの子、月曜日からずっと冬服を着てたうえに、授業中もずっとヘルメットを被ってて、正直気持ち悪かったんです」
冬服にヘルメット……たったそれだけの情報で、蠱惑ちゃんが何をしようとして、そして何が起きたのか、予想がついた。そして、何が動機で蟲惑ちゃんがそんな奇行に及んだのかも。
「疑う気持ちはわかるんですけど、本当なんです!」
「……ええと、疑ってるんじゃないの。吹木さんが嘘をいうような人じゃないことはわかってるよ。そんな人がいるんだってびっくりしちゃって、言葉が出なかっただけ」
「確かに、言葉にならないですよね。こんなに暑いのに、そんなことしてるから、バイトも辞めさせられたみたいですし、昨日体育の授業中に熱中症で倒れて、救急車を呼ぶことになって、大騒ぎになって、本当に迷惑でした」
「それは災難だったね」
冷静であることを自分に言い聞かせて、なんとか相槌を返す。蟲惑ちゃんがおかしな言動をするのは、一緒に過ごしていたからこそ納得感がある。
だけど、蟲惑ちゃんは自分のしていることが他人にどう見られるかをある程度わかっていて、異常な行動をしているような印象がある。
だから、こんな季節にそんな格好をしていたら倒れてしまうことくらいわかっていたはず。それでも、厚着を続けた。私が見ていないところでも。私が容姿にしか興味がないと言い切ったから。自分の容姿を守るためだけに。
普通に考えたらあり得ない恋の理由を本気にして、私をなんとしてでも繋ぎ止めるために、私の知らないところで一人、命をかけていた。

蟲惑ちゃんの行動に驚いたのも、言葉が出なかったのも、偽りのない本心だった。そりゃ、驚くに決まっている。だって、東雲麗華でない私は無価値だから。
東雲麗華ではない私のことを見てくれる人なんて誰一人いなかった。東雲麗華になってさえ、お母さんたちは私のことを見てくれなかった。
根本的に無価値な私のために、そこまでしてくれる人がこの世界に存在するなんて思っていなかったから……言葉にならなかった。
実際にその光景を見たわけじゃないけど、そこまでしてくれたと知ったら、無感情ではいられない。
それでも、私は自分に言い聞かせてしまう。どうせ、いまこの瞬間だけの熱意だって。蟲惑ちゃんが私に執着してくれているのは、一過性の感情で、未来永劫持続するような類のものじゃないって。
親に捨てられたという過去が、人を信じさせてくれない。世界の誰よりも無条件に信じることができるはずの二人に、一切の信頼がないことの負債があまりにも巨大過ぎて、どれだけ足掻いても普通に手が届かない。
蟲惑ちゃんがどれだけ尽くしてくれても、素直に愛を返すことができない。
愛や信頼を知らない私には、愛や信頼を与えることができない。この世界で楽しく幸せに生きるために必要なものが、最初から全て欠乏していた私には、諦めること以外になかったのに、蟲惑ちゃんがそうさせてくれない。
私が想像していた以上に、彼女は何もなく、そして狂っていたせいで……世界に完全に失望するどころか、希望を見出してしまいそうになっている……

※※※

何故か私は、二日連続で学校に来ている。それが本来普通のことなんだろうけど、私にとっては異常なことだった。
言うまでもなく、世界の頂点に立っている東雲麗華に高校生なんて身分は必要ない。そんなものがなくたって生きていける。
でも、私は違う。高校生という身分が不要であるという点においては東雲麗華と同じだけど、この学校には蟲惑ちゃんがいる。
東雲麗華の人生において蟲惑ちゃんという存在は邪魔ですらある。でも、私には彼女の存在が必要だった。
少なくとも、彼女が私に向けてくれている感情の終着点を見届けるまでは。命に危険が生じるほどに私のことを想ってくれた蟲惑ちゃんの心がどうなっているのか……それが私の人生に答えをくれるから。
世界には失望だけが溢れているのか。それとも希望が底には眠っているのか。
でも、いつも私より先に教室にいる蟲惑ちゃんは、昨日と同じように席にいない。
熱中症という名前のせいで軽く考えてしまいそうになるけど、普通に死んであり後遺症が出ることもあるのだから、二日程度では学校に来れないのも無理はない。
だから、今週学校に来ることが無意味になる可能性が極めて高いことだなんてわかっていた。それでも、私はいても立ってもいられずに来てしまった。

そんな言葉を振り払っていると、背後で物音がして、そこを振り向くと……蟲惑ちゃんがいた。
顔はヘルメットに隠れて見えないけど、こんな異常なことを迷いなく実行に移せる人を、私は蟲惑ちゃんしか知らない。
肌を全て隠す学校指定の冬服に、高速で体が投げ出された時に頭部を守るために設計されたヘルメットを被った異様な姿。
私を繋ぎ止めるためにそうしているはずなのに、私の存在など見向きもせず、蟲惑はよりにもよって真夏の日差しが差し込む窓際の席につく。
私は冷静であるように努めて、周囲を取り囲む東雲麗華のファンであるクラスメートとの会話を合わせながら、頭の中は蟲惑のことでいっぱいだった。
普通、真夏に厚着をして熱中症で倒れたらやめる。いや、普通ならそもそもそういう行動を取らないんだけど、そういう話じゃなくて……
世の中、狂っている人はいる。芸能活動中におかしな人と出会うことは一度や二度じゃない。何か道を究めている人は全員、どこか狂っている。それでも、狂い切っている人はいなかった。
狂気に振り切っていたら社会生活を営むことなんてできないから。いくら芸能界が実力勝負の世界とはいえ、外れ値に限度はある。
やっと理解した。どうして私は、蟲惑をターゲットに選んだのか。蟲惑の醜さが孤独を連想させたからだと思っていたけど、そんなありきたりな理由じゃなかった。
蟲惑はあまりにも狂気に振り切っていて、だから周囲の人間に引かれ、私の心は惹きつけられている。
一目惚れなんて信じていなかった。親になっても、自分の子どもに一目惚れしない人だっているのだから、そんなものがあるわけないと。
でも、自分が当事者になったら信じるしかない。一目惚れはあるんだって。熱中症になって倒れて、救急車で運ばれて、それでも容姿を守るためだけに厚着を続ける。
普段から容姿に拘っていたならまだしも、容姿を目の敵にしていた蟲惑が、ここまで容姿を守ろうとしている。
そんな埒外の行動を見せつけられたら……ときめかずにいられるわけがない。
最初は適当についた嘘だったはずの一目惚れが、後追いで真実になるなんて、想像すらしていなかった。
蠱惑が好き。蠱惑を独り占めにしたい。蠱惑の姿を誰にも見せたくない。そんなありきたりで、特別な感情が、鼓動を際限なく加速させていく。
この感情が恋であることを自覚するのに、始業のチャイムが鳴るのを待つ必要はなかった。