恋をしたら、その人を自然と目で追ってしまう。そんなありきたりな恋愛描写を、清涼飲料水のCMで演じた。
る東雲麗華はその演技に苦労しなかった。でも、私はその演出があまりにも欺瞞に満ちているように感じて、苦しかった。こんな安直に愛が手に入るはずがないって。
でも、いまならそれが本当だとわかる。いや、それどころか、もっと良い演技の仕方があったんじゃないかとさえ思う。
授業中も、休み時間も、個室の中にいる時でさえ、私の視線は無意識に蟲惑を求めて中空を彷徨っている。
私のために、肌を億が一にも傷付けないよう真夏に厚着をする蟲惑の健気な姿を、一瞬たりとも逃したくなくて。
私に愛されるためにしていることなのに、私に見られていない時でさえ、命を削っている最愛の蟲惑の頑張りを、一秒たりともなかったことにしたくなくて。
私はモデルだから、夏に厚着をする苦しみはよくわかる。雑誌の撮影や編集には時間がかかるから、冬服の撮影は夏場に行われるしことも少なくないし、水着の撮影は真冬に行われることも珍しくない。
だから、季節と全く逆の服装がどれだけ体に負担をかけるかは実体験として知っている。でも、そうした経験でさえちゃんと安全を配慮して行われる。
エアコンの温度をモデルに合わせるとか、水着の撮影は屋内でして海の背景を合成するとか。でも、蠱惑の行動にはそんなものが欠片もない。
知識のあるなしというより、蠱惑自身が安全に関心がないんだと思う。私と同じように、自分のことを無価値だと思い込んでいるから。
その破滅的な行動が、滅びを迎える間際の天体の煌めきのようで、私の心を捕えて離さない。
いまの私は、蟲惑に声をかけて、そばにいたいと心から想っている。なのに、それができなかった。
蟲惑のことがどうでもいい今朝までだったら、普通に声をかけられた。無造作に隣に座ることだってできた。でも、いまは全てが変わってしまって、蟲惑は私の人生になくてはならない存在になってしまった。
そのせいで、どう声をかければいいのか急にわからなくなった。どうすれば隣にいられるのか、わからなくなった、
思い返してみれば、私は蟲惑に酷いことをしてきた。自分の心の傷を癒すためだけに、好きでもないのに告白をして、好きでもないのに一方的に別れ話を切り出して、どうでもいいはずなのに条件付きで復縁して。
そんな私が今更、どう蟲惑と接すればいいんだろう。どうすれば、蠱惑のそばにいることが赦されるだろう。あの告白は嘘で、あなたを利用するためだったと謝って、本当の告白をする勇気、私にはなかった。
蟲惑はあの告白が嘘だったと途中までわかっていた。でも、いまは違う。いまはあの告白が本当だったと信じてくれている。
親に捨てられた者同士だから、人を信じることがどれだけ難しいか、よくわかっているつもり。だからこそ、信じたものが壊れたらもう一度、私を同じように想ってくれるか……
いままでと同じ距離。これまでと同じ関係。それを続けていけばいいはずなのに、それができない。もっと特別な関係を望んでしまうし、一歩踏み出すことが恐ろしい。
こんなに好きになってくれる人に、私はなんてことをしてしまったんだろう……
そんな後悔と、初恋に戸惑っている間に、今日の授業は全て終わっていて、放課後を迎えていた。
毎週土曜日、一緒に過ごすことが決まり事のようになっていて、その約束を先週できていない。だから、誘う機会を探っていたんだけど、気付くと学校自体が終わっていた。
自分でも何がどうしてこんなことになっているのかわからない。昨日までどうでもよかったはずの蟲惑が、いまはこの世界のどんなものよりも輝いている。
モデルの授賞式で歩いた煌びやかなランウェイから見下ろす景色よりも、真夏の美しい夕陽よりも、蟲惑をただ見つめていたい。
この世のどんなものよりも醜い蟲惑が、世界一美しい私には、何よりも綺麗。
そこまで彼女のことを特別に想っているのに、教室のどこにも蟲惑の姿が見当たらない。
東雲麗華としてのファンサービスでクラスメイトの相手をしていたら、いつの間にか見失っていた。
明日の約束がまだなんだから、直接声をかけてくれたらいいのに。そう思うけど、いつまでも声をかけれられなかったのは私も同じだから、人のことは言えない。
というか、先週のことを思えば、蠱惑から私に声をかけるのは無理がある。声をかけるのは私の義務だ。
蟲惑のメールアドレスは知っているから、それで伝えればいいんだろうけど、そういう気持ちにはなれない。
直接はどう話せばいいかわからないけど、メールなんていう間接的な伝え方は何かがすごく違う。これまで全く好きでもないのに蟲惑の恋人だったから、本当に好きになったいま、この瞬間は、ちゃんと蠱惑と向き合っていたいから。
こうなったら、蟲惑の家まで押しかけることを視野に入れながら、いつも蠱惑が座っている席から校庭を眺めると、学校から家に帰ろうとしている人波が目に入る。
蠱惑はバイトを辞めさせられたと聞いたから、まだ学校にいるかもしれない。
「ねえ、蠱惑ちゃんが帰ったかどうかわかる?」
それを確かめるために、教室に残って友達同士で話をしている二人組のクラスメイトに声をかける。
「蠱惑さん……ですか? あの、悪いことは言わないので、あの子には近付かない方が……」
「そうかもしれないけど、誰かがちゃんと言ってあげないとまた倒れちゃうでしょ? ファッションリーダーである東雲麗華のアドバイスなら聞いてくれるかもしれないと思って」
東雲麗華らしい優しい理由をつけて、蠱惑の居場所を探る。すると、二人は目を合わせる。
「……蠱惑ちゃんになにかあったの?」
「えーと……私たちが言ったって言わないでね。学校にあんまり来てない麗華さんは知らないかもしれないけど、吹木さんたちってちょっと凶暴なところがあって……お昼休みに蠱惑さんの名前を出してたし、さっきも蠱惑さんを探しているみたいだったから……」
そこまで聞いた刹那、私の体は勝手に走り出していた。東雲麗華であれば、ありがとうくらい言っていた。でも、いまは東雲麗華らしく振る舞うことよりも、遥かに大切なことがあった。
モデルとして生きていたら、過激なファンによる被害を見聞きしたことは一度や二度じゃない。そういうとき、標的にされるのは本人だけとは限らない。親しい人……たまたま近くに居ただけの友達や恋人が狙われることだってある。
今回のはそれだ。昨日、吹木さんの前で私が蠱惑の名前を出した時、何か違和感があって、あの時は蠱惑のことを好きになりたくないと思っていたから無視していたけど、こんなことになるのなら、ちゃんと対処していればよかった。
どうやったのかわからないけど、吹木さんは私と蠱惑の接点を見つけて、蠱惑を妬み、暴力を振るうことに決めたんだ……
学校中を走り回って、蟲惑を探す。もしかしたら校外に連れ出されているかもしれないけど、そうなったらどうにもならないから、その可能性は考えない。
屋上。校舎の裏。体育館。怪しい場所は大体探したけど、どこにもいない。きっとそういうわかりやすい場所は、こういうことに慣れている人は使わない。
だけど、この学校に慣れていない私には、これ以上怪しい場所の候補が思いつかない。それでも、好きになった人を助けたい一心で考える。
そうした真剣さが身を結んだのか、ふと体育館の裏にある倉庫が目に入った。その中に向かう四人分の足跡。
やっと見つけた。無事でいて。初めて心の内から湧いてくる温かい感情に突き動かされながら、倉庫の扉を開ける。
そこには……吹木さんたちに取り囲まれて、暴行を加えられている蠱惑がいた。
いまのいままであった蠱惑への綺麗な感情は瞬く間に消え失せて、それと同じだけの激情が心を塗り潰す。
こんなことをしたら東雲麗華としての人生が終わる。そんな理性からの忠告を自覚しながらも、私は大切なものを守りたいという生物としての本能に従っていた。
「麗華様!? ど、どうしてここに……」
錯乱しているのか、吹木さんは私を様付けで呼ぶ。それが余計に私の嫌悪感を煽る……冷静に、だけど感情に任せて、三人まとめて殴り飛ばしてしまう。
蠱惑に別れを切り出した時は、あんなに後悔したのに、いまは全くない。モデルの私が一般人に暴力を振るうなんて、恋人を振るよりも遥かに危険な橋であるはずなのに。
後悔どころか、むしろ安心していた。私はずっと恐ろしかった。親に愛されなかった私が、誰にも優しくされなかった私が、好きな人に優しくしたらその人に嫉妬してしまうんじゃないかって。
私は愛されなかったのに、あなたは私に愛されているなんてずるいって。理性ではどうにもならないくらい、そう思ってしまうんじゃないかって。
でも、そんなことはなかった。私はちゃんと、蠱惑を愛することができた。人に愛されることよりも、人を愛することができることが、何よりも嬉しかった。
「蠱惑、大丈夫?」
「……えっ、ま、まぁ」
「怪我、見せて」
蠱惑に近付いて、怪我の具合を確かめようと顔を見つめると、視線を逸らされてしまう。
蠱惑は顔を傷付けないというあの約束のことを気にしているみたいだった。本当はあんなのどうだっていいのに。あの約束を守っても守らなくても、私にとってはどうでもいいことだった。
そんなどうでもいいことのためにここまで真剣になって、こんなにぼろぼろになってもまだ約束を守ろうとしてくれている。
それが言葉にならないほど色鮮やかな気持ちにさせる。嬉しくて、幸せで、申し訳ない。こんなに私のことを大切に想ってくれる蠱惑を利用しようとしていた過去の自分の行いに。
そして、こんなにも純粋に狂うことができる蠱惑に危害を加えるこの世界を、どうしても許すことができなかった。
「蠱惑の利き手って右だよね?」
「あっ、うん、そうだけど」
「わかった。ありがとう、もう休んでていいからね」
蠱惑はたくさん殴られて、蹴られて、あちこち怪我をしている。中でも特に酷いのは顔と右腕、それとお腹の辺り。
右腕はやりすぎたんだろうけど、顔とお腹は隠れるから構わないと考えて意図的に激しく暴行を加えている。
その歪んだ狡猾さは、この世界のどんなものよりも醜い。蠱惑の目で見てわかるわかりやすい醜さなんか、比べることさえ厭われるほどに。
私がここで蠱惑がされたこと以上を、吹木さんたちにやり返したところで、別に何も変わりはしない。蠱惑の容姿が醜いことも。蠱惑の心が歪んでいて、人に好かれないことも。
だとしても、この出来事を無かったことにして終わり。そんな結末、納得できるわけがない。
蠱惑はきっとこういうことに慣れている。それくらい、ずっと一緒にいたからわかる。でも、私は慣れていない。初めてできたこの世界でたった一人の、私を必要としてくれる人を傷付けられることに。
そんなことに慣れるつもり、私はないし、大切な人がこんな理不尽にやられっぱなしになることに納得しなきゃいけない状況にさせるつもりもない。
だって、それくらいしないと、これまで私が蠱惑にしてきた不実さを償えないから。
蠱惑が私以外の何者にも好かれないというのなら、私が世界の全てから守ろう。