《汚泥の底で煌めく一等星 最終話 エピローグ後半》 作:神薙羅滅(Kannagi Rametsu)

麗華れいかが本当に私のことを見てくれているのかと、不安になっていた時期があった。
 麗華は間違いなく、私のことを”大切”にしてくれている。私に住む場所をくれる。食べるものをくれる。尊厳をくれる。麗華と結婚してからの六年間、私がこの部屋から一歩も外に出ることがなくても、それが揺らぐことは一度としてなかった。
 だからこそ思ってしまう。麗華は私を見てはいないんじゃないかって。でも、最近は麗華の愛を疑わなくなった。

 麗華が私の容姿に一目惚れして、告白した。それが嘘だったということは、高校を辞めてからしばらくして、なんとなく気付いた。
 あのマンションで二人でいるとき、麗華は私の容姿ではなく、私の行動に好意を示していた。
 思い返してみると、私が熱中症で倒れても、容姿を守るために厚着を続けたことだったり。麗華が作ってくれたご飯を美味しいと伝えたり。そうした行為に麗華は反応していた。
 それに似たことがいくつか重なり、鈍い私でもさすがに察した。やっぱり、私が最初考えていた通り、あの告白は嘘だったんだと。一目惚れという嘘が、後付けで本当になっただけなんだと。
 私はそのことを、特にどうとも思わなかった。だって、二人で高校をやめて、二人で暮らし始めた時、私は私のために暴力を振るってくれた麗華に一目惚れした後で、麗華は麗華で命を削る私に一目惚れした後だったから。
 ただ単に告白が先で、好きになるのが後だった。いまさら順番の違いでどうにかなるような関係ではなかった。
 問題はむしろ、私と麗華には決して癒えない過去があることの方。麗華が私と同じように、両親との不和を抱えていることに気付いたのは、麗華と結婚する時だった。
 私は親に完全に捨てられたし、友達もいないから結婚を報告する相手がいない。それを伝えた時、麗華も結婚を報告する相手がいないと言った。
 そのとき、私は麗華の過去を知った。麗華の両親は、麗華に高級マンションの最上階をプレゼントした。生活費だって使いきれないほど渡されていた。でも、親なら子どもに対して当然あるはずの愛情は、微塵もあげていなかった。
 それは親に見捨てられた私ですら、想像もしたことがなかった捨てられ方だった。実務的なものは用意するけど、ただそれだけ。お金や環境を用意してくれるだけ。
 正直なところ、完全に捨てられた私よりは、麗華の方が遥かにマシだと思ってはいるけど、麗華の心が傷ついていることは確かだった。
 結婚してから、麗華は親がくれたマンションを売って、自分で稼いだお金だけを使って、一軒家を買った。それが親に捨てられた過去との訣別であることは明らかだった。でも、そんなことで過去の傷が癒やされるのなら、誰も苦労しない。
 私が麗華に愛してもらったからといって、過去の痛みが清算されるわけでもなければ、醜い容姿による人生への負債が消えることがないのと同じように。
 麗華の心は明らかに歪んでいる。私を自宅の二階に監禁しないと、私がどこかに行ってしまうんじゃないか。そんな不安に押し潰されてしまうほどに。
 私は麗華以外を好きになったりしないし、麗華以外に好かれるはずがない。そんなこと、賢い麗華ならわかっているはずなのに……

 この境遇を辛く感じることはない。そう言えば嘘になる。でも、納得している。だって私は、醜いから。
 醜い私が人並みの幸せを望むことが、高望みであることくらいわかっている。私はちゃんとわきまえている。醜い私が自由を求めたら、麗華を失ってしまうことくらい。
 人生の全てを捧げに捧げて、そこに麗華の慈悲が合わさって、私はようやく愛が手に入る。それが醜い生き物に相応しい生き方だと、世界に定められている。

 それでも、この環境を変えようと本気になれば、変えられる。だって麗華は、自分の状態を客観的に見れているから。
 ネット環境がある瞬間を見計らって、虐待について調べた。虐待を逃れた子どもが、社会復帰するにあたって最も苦戦するのは、自分が親に傷つけられていたことを自覚することだと書かれていた。
 麗華は、自分が両親に愛されなかったことを自覚していて、高校時代の私に酷いことをしたこともわかっている。
 麗華は辛い過去を乗り越える準備ができている。だから、専門家の力を借りるか、そばにいる私がちょっと力を貸せば、それだけで麗華は、私を飼うことで安心するような人間ではなくなるだろう。
 それで? 麗華が過去を乗り越えた後の私は? どうやって生きていくの? 私のように身寄りのない人間だけが持つ、歪んだ好意。暗く澱んだ依存。そうしたものを必要としなくなった麗華は、私を必要とするだろうか?
 二十四歳にもなって、高校中退で職歴はコンビニバイトだけ。おまけに容姿は終わっている。こんな無価値な人間に価値を見出してくれるのは、親に捨てられた過去を、膿んだ傷のままにしている麗華だけ。
 前向きになった麗華は、もはや私のような人間を必要としない。私のような、身も心も醜い人間を、求めてはくれない。
 麗華は優しいし、責任感があるから、最後まで面倒を見てくれるだろうけど、それだけ。いまのように、わがままを言うこともできなくなるし、私を飼っていることに顔を暗く雲らせる麗華を見ることもできなくなる。

 私は麗華に飼われている。だけど、私は麗華に私を飼うように仕向けてもいる。麗華が私を捨てることができないように。
 親鳥が与えてくれる餌がなければ飢え死にしてしまう雛鳥のように、瞳と体を震わせることで。親に捨てられた麗華は、私に過去の自分を重ねている。だから、庇護者なしでは生きていくことのできない弱者を捨てることができない。
 私は意図的に、癒す準備ができている麗華の過去を、毎日のように抉ることで、傷口を悪化させる。何度も何度も繰り返し。
 それが、世界に愛されることのなかった、醜い私の生存戦略。弱者である醜い私が、とてつもない強者である麗華を支配する、ただ一つの方法。

 私の初恋は、私に暴力を振るっていた人間に暴力を振るう、醜い麗華。自分の大切なものに手を出され、怒りに心を支配された暴力的な麗華。
 そしていまの私が愛しているのは、私を見つめる麗華の暗く澱んだ瞳。
 醜い私の境遇に、過去の自分を重ねている麗華。私からの、我が身さえ顧みない極端に振り切った依存を確かめている瞬間の麗華。
 世界の頂点に立ちながら、世界に見捨てられた麗華だけが持つ感情。
 それを見ている間だけは、安心できる。この世界には、私よりも醜いものがあるんだって。
 こんなにも醜く、無価値な人間に縋る美人の、泥のように澱んだ瞳。その奥に煌めく、真っ暗な私への想い。
 私は、それを愛でていたい。可能な限り。麗華を私に繋ぎ止められている間くらいは。
 そのために、できることは全てやる。自分を犠牲にする必要があればそうするし、麗華を傷付ける必要があればそうする。
 私は、私が必要とするもののためなら、なんだってできるし、するから。そうすることでしか、何一つ手に入れることができない生き物だから。
 でも、麗華はそれでも愛してくれるんだよね。だって、そういう人と一緒にいないと、安心できないんだもんね?
 もしも、私がいらなくなったら、私、泣いちゃうからね。幼い麗華が、お母さんたちにしたみたいに。
 だから、ずっと一緒にいようね。私だけはちゃんと、最期まで、麗華の家族でいてあげるからね。
 愛してるよ、麗華のこと。ちゃんとね。