目を覚ますと私は知らない場所にいた。夕暮れの日差しが差し込む白い部屋。頭に走る激しい痛みと、右腕から感じる鈍い痛み。それらの情報から、ここが病室であることを直感した。
病室にある時計を確認すると、水曜日の午後五時。どうやら私は、熱中症で倒れて、数時間気を失っていたらしい。
自分から真夏に厚着をして、熱中症で倒れて病院に運ばれるなんて、情けないというかバカらしいというか……頭が冷えて、自分で何をしているんだろうって思う。
こんな私のために、誰かが救急車を呼んでくれたみたいだし……まぁ、こんな人間でも校庭で死なれたら面倒だから仕方なくだろうけど……
自分から苦しい思いをして、その報酬がこれなんて、こんなにもどうしようもない人生、他にあるのかな。
私のこの苦痛を、努力を、麗華が見てくれることはない。だって、麗華が好きなのは私の容姿だけだから。こうして麗華と一緒にいるためなら、どんなことだってする私の必死さなんて、視界に入ってすらいない。
それが悔しくて、苦しくて……でも、やるしかなくて……恨んでいる美人を好きになって……よりにもよって、この世で最も理不尽な容姿という理に縋り付くなんて……
意識を失う前のような、勘違いではなくて、いまは本当に涙が溢れている。こんなはずじゃなかった……何もかも……
もう少しまともな顔を持っていたら、それだけで全てが普通でいられたのに……トップモデルの恋人になることよりも、家族がほしかった。顔しか愛してくれない世界で最も特別な人間よりも、ごく普通の友達がいる方が羨ましい……
そんな想いが急に胸の中に溢れてきて、感情まで溢れ返りそうになる。もう自分が何を考えているのかさえわからなくなりつつある中、ふと右腕が目に入った。
右腕の中腹あたりに刺さった点滴用の管。鈍い痛みというか、違和感がったから、刺さっていることはわかっていた。そのはずなのに……身体に針が刺さったことが許せなかった。
「な、なんでこんなことしたのっ!」
誰に向かってなのかわからない。でも、私は叫んでいた。点滴をしたら肌に針の跡が残ることくらい知っている。この傷跡を麗華が見たら何を思うか……私は麗華じゃないから、わからない。わからないから、恐怖が際限なく膨らんでいく。
麗華が好きなのは私の顔だけだから、顔の傷だけが許せないのか。それとも、顔以外の全ての見た目を含めて好きなのか。後者だとしたら、点滴の痕なんて致命傷。
この痕を見られたら麗華に失望されてしまうのはほぼ確定。仮に私の顔から下に興味がなかったとしても、容姿を守る努力を怠ったと解釈される可能性は高い。少なくとも、あんなことがあった後なのだから、私が麗華の立場ならそう解釈する。
それに、入院生活で筋肉の量が落ちて容姿が変わったなんて話も聞くから、寝てる場合じゃない。早く起きて、いつも通り学校に行って、いつも通りの生活をしないと。
このままじゃ、醜い容姿のバランスが崩れて、麗華に捨てられてしまう。
「痛っ……」
病院から抜け出すことを決意した私は、点滴の管を引き抜いて、枕元に置かれていた荷物を手に取って病室を出る。
素人の私が管を抜いたら傷が広がりそうだし、最悪腐り始めるとかもありそうだけど、この位置ならなんとか麗華に隠し通せる。むしろ、誤魔化し用のない体つきが変化する方が困る。
傷口が腐り落ちようがどうだっていい。麗華さえ、麗華さえ繋ぎ止められるのならそれで……
「毒島さん、その状態で出歩かれたら……」
廊下を歩いて病院の出口へ向かっていると、私のいた病室の担当と思われる看護師の声が背後から聞こえる。
普通、こういう時の声は演技でも心配そうにするものだと思うけど、その声はとても乾いていて。その言葉が私への心配からではなく、自分の立場への心配から来ていることがとてもわかりやすかった。
「なんてことをしてくれたの! なんでこんなことしたの! これで捨てられたら、あなたたちのせいだからっ……!」
普段の私なら、これくらいで言い返したり、声を荒げたりしない。だって、こういう扱いが普通で、慣れているから。
でも、いまは我慢することができなかった。熱暴走を起こした肉体からの疲労に加えて、麗華に捨てられるかもしれない恐怖で、感情が野放しになっていて、どうにもならなかった。
「早く病室に戻ってください」
「あなたにはわからない! もう、ほっといて……っ!」
看護師さんが引き止めるのも無視して、ふらつく体を引きずりながら病院を出る。
どうせ誰も私のことなんて心配していない。救急車を呼んでくれたのも、死なれたら面倒だから。病院の人が私を引き止めるのだって、死んだら責任問題になったりするからだ。
こんな醜い私のことを心から心配してくれる人なんていない。麗華でさえも。だとしても……どうせ世界中が同じなら、麗華のために生きていたい。
私の顔に傷がつくまでの短い間だったけど、麗華は私に夢のような時間をくれたから。私の醜い容姿も、歪んだ心も全て抱きしめてくれた。あの幸せな時間に手を伸ばしながら死んでいく方がいい。
※※※
病院から無理に抜け出して、家に戻った私は、冬服を脱ぎ捨て、エアコンをつけて、気絶するように眠った。
それから目を覚まして木曜日になっても、昨日の無理が祟ったのか立ち上がることもできず、体つきが変化してしまう恐怖に苛まれながら、布団の中で眠り続けた。
熱中症なんていう名前のせいで、あんまり危機感がないけど、自分の身になってみると体が熱によって完全に崩壊する病気なのだと実感する。
溶けたアイスをもう一度凍らせても元に戻らないように、熱で溶けた私の体も元には戻っていない。
昨日のことで体が壊れてしまった。二度と治らないのか、治るのに時間がかかるだけなのかはわからないけど、すぐ元に戻らないことは確か。
それでも、明日は学校に行かないと。そうしないと容姿が変わってしまう。明日も冬服を着て、少しでも肌が焼けるのを防ぎ、ヘルメットを被って不注意による顔への傷を守る。
こうすることが本当に容姿を維持することに繋がっているとは、自分でも思えない。でも、だとしても、私はこうすること以外に知らない。
醜く、知恵もない私にできることなんて、正しいとか間違っているとかを度外視して、一心不乱に命をかけて、一直線にひた走ることだけ。
それくらいしても、人並み未満にしか至れないってわかってるから……ちゃんと最後までやりきりたい。
※※※
私が倒れてから二日が経った金曜日。私の体は悲鳴を上げたままの、本調子からは程遠い状態。それでも、私は容姿を守るために全力を尽くす。
暑いのは耐えられる。身体が熱を持ち、細胞が壊れるのも許容できる。だけど、麗華に失望さることだけは耐えられない。麗華を失ったら、心が壊れてしまう。
世界に失望し、絶望し、見下していた過去の私は、何もないことに耐えられた。だけど、もうそんな歪んだ強さはない。
トップモデルという社会的地位を持っている、ありえないほどの美人に心まで抱きしめられた私には、もはや持たざる者の強さなく、一度得たもの失う恐怖だけが木霊する弱者へと成り果てた。
冬服に分厚いヘルメットを被り、真夏の日差しの下へ繰り出す。それは暑いなんて言葉では到底言い表すことができないほどの苦痛。痛みさえ伴うほどの熱が、身につけた衣類の下で渦巻いている。
本能と理性が、こんなことはやめた方がいいと叫んでいる。そして、私の心もそうすることを望んでいる。だけど、麗華に依存している私が、そうすることを許さない。
体が壊れようと、心が折れようと、私はこれを続ける。引くことなんて知らず、アクセルを踏み込み続ける。こうすることを麗華が望んでいるのかさえわからないままで。
普段の何倍も、何十倍も長く、永く感じた通学路を超えて、教室に辿り着くと麗華がいた。
学校では他人同士。そんな約束があるわけじゃない。でも、自然と私たちは他人同士として振る舞っている。
それは今日も変わらない。私の異常な姿を見つけた麗華と、ヘルメット越しにほんの一瞬だけ目が合った気がして、それっきり。
相変わらず麗華の周りには、多少落ち着いたとはいえまだまだ人だかりができていて、私が介入する余地なんてない。
席について、一時限目の教科書を出して、机に顔をうつ伏せにして押し付ける。ヘルメットを被ったままだから、その内側に額が当たって痛い。
でも、この肉体的な痛みで誤魔化していないと、耐えられそうになかった。麗華との間にある距離に。
手を伸ばせば届く距離にいるはずの麗華が、とてもとても遠い。恋人でも、友達でさえないクラスメイトたちでさえ、勇気を出せば話しかけられる場所にいる麗華に、声をかけることさえできない。
それは勇気が出ないから。みんなの前で麗華に声をかけて、麗華に拒絶されることが恐ろしいから。
二人きりであれば許されることを、学校ですることは許されない関係のままであることが、悲しくて、苦しい。
ここまでしても埋まらない麗華との距離が、心を摩耗させる。
だから、うつ伏せの顔を少し傾けて、麗華の方を見る。ヘルメットを被っていてよかったと思う。そうじゃなければ、麗華に泣いていることがバレてしまうから。
麗華のことが必要で必要でたまらない私を、麗華に見せたくなかった。私がトップモデルの麗華ではなく、どれだけ麗華その人を必要としていたとしても、麗華はそんなことを見てくれはしないとわかっているから。