バイトを終えて、一人きりの家に戻っても、私は放課後に起きた出来事が一体何だったのか、そもそも現実だったのか……何一つわからないままだった。
ただ一つ確かなのは、私が身に付けている制服のポケットには、麗華さんの携帯電話の番号が書かれている小さな紙が残っているということ。
それをテーブルの上に叩きつける。だけど、紙を勢いよく投げたところで、ふわふわと可愛らしく舞うだけで、それが余計に私を苛立たせる。
こんなもの、バイト中にバラバラに破いて捨ててしまうべきだった。この紙を捨てずに持ち歩いているだけで、私は美人が得をする世界に加担していることになるから。
これを持ち歩くということは、麗華さんの思い通りになるということ。麗華さんは本能的か、あるいは経験則でわかっている。連絡先を渡してしまえば、絶対に相手から連絡してくることを。
そりゃそうだ。だって、あんなに美人なんだから。綺麗な人に付き合いたいと言われたら、人間が抗えるはずない。
だからこそ、私が抗わないといけない。私が抵抗しなければ、麗華さんの人生は何もかも彼女の思い通りになってしまう。そんな理不尽を許していいはずがない。
いくら世界一の美しさの持ち主だからといって、人の心を自在に支配できるわけじゃない。それを思い知らせなければならない。生まれながらに勝ち組である麗華さんに。
そう強く思っているのに、捨てられなかった。美人だから。有名人だから。そんなわかりやすい理由を盾にして、捨てずにいる。
私は……認めたくないけど、麗華さんと付き合いたいと思ってしまっている。悔しいけど、私だって美人に告白されたら、そりゃ嬉しいに決まっている。「麗華さんがどうして私に?」なんて疑問が吹き飛んでしまうくらいには。
でも、ここで折れてしまっては、学校にいる流行りに興味がない人や、現実に興味のないフリをしているオタクと同じになってしまう。あんな人たちと同じになりたくない。
だから私は、紙を手に取って、文字が読めないほどに、そして修復が不可能なほどバラバラに破ろうと力を込める。
だけど、紙が音を立てて破片へと姿を変えることは一向にない。有らん限りの力を込めているはずなのに、力が入らない。
麗華さんの告白が誰かから強要されたものでないことはわかる。信じられる。でも、真剣なものでないこともまた、同時にわかる。奇跡が起きたとしても、冷やかしの延長でしかないことくらい、わかっている。
それでも、こんな私には最後のチャンスかもしれない。家族もいない。友達もいない。夢もない。そんな私が普通へと這い上がる最後の。
だから、簡単に捨てることができない。吹けば飛ぶような紙一枚、自分の意志で破り捨てることができない。
いま、私の両手は麗華さんの言いなりになっている。この両手は私の意志ではなく、麗華さんのわがままに突き動かされている。
私はずっと怖かった。美人と関わることが。だって、何度も目にしてきたから。美が持つ魔力に取り込まれ、自分の意志を失い、操り人形となる人たちを。
私は、そういう愚かな人と同じになりたくない。だけど、わかってもいた。綺麗な人を目の前にしたら、誓いもプライドも無意味だって。
つまり私は、こっちから連絡を取る気がないのにこの紙を捨てることはできないし、次麗華さんに会った時に告白の返事を求められたら、付き合うつもりなんてないのに、付き合いたいと返事をすることになる。
そして、麗華さんに告白されたせいで、付き合うかどうかに関わらず、インテリアと化している、封すら切られていないこのファッション誌は家宝と化す。
最悪だ……全部全部、麗華さんの……美人の思い通りになる。私の取り分を指差すだけで、美人はそれを持ち去っていく。そして今度は、私にあげると言えば、私はそれを求めていないのに、有無を言わせず受け取らせ、それを愛でることを強制される。
これまでは食べ物やおもちゃや住む場所だったり、物だったから耐えられた。でも、心まで思いのままにされるなんてのは……あまりにも、あまりにも暴力で……
だけど、それに抗うことができないこともぬるま湯のような温度感で実感している。結局、醜い私はいつも支配される側。美人のわがままに振り回されるだけの人生……
何もかも私の思い通りにならず、美人と、彼女たちに支配される人々に振り回される人生にうんざりして、衝動的にテーブルを投げる。
宙に舞う太陽のように眩しい麗華さんが載った雑誌と、彼女の電話番号が書かれたメモの切れ端。
そう、この世界で醜い私の思い通りになることなんて一つとしてない。だから、諦めるしかない。美人が欲しいと言えば、私はそれを大人しく差し出すしかない。晩ご飯のおかずも、ゲーム機の順番も、眠るのに快適な風通しのいい場所も。ただの戯れだってわかりきっている偽物の告白に対して、心まで……
だから、考え方を変えるしかない。流れに逆らうことで抗うことができないのなら、利用するしかない。
私のこれまでの人生は、美人に抵抗して、それを周囲に否定されて、押し潰される。それの繰り返し。逆らったって埒が開かない。
でも、今回は違う。紛いなりにも付き合う以上、私にだって選択の余地がある。醜い私と、ありえないほど美少女の麗華さんでは対等な関係を結ぶことはできない。それでも、麗華さんの恋人になれば、いい思いができるはず。
ただの醜い私ではなく、麗華さんの恋人の醜い一般人の方が、社会的地位は確実に上。そして何かの間違いで麗華さんとの恋愛がうまくいって結婚できたら、人生を逆転できる。
いまはまだ、全く考えの読めない麗華さんの思い通りになるしかないけど、上手に恋人を演じて、本当に麗華さんに私のことを愛させ、主従を逆転させることができれば、美人を支配する側に回ることだってできる。
私は麗華さんに直接何かを奪われたわけじゃない。でも、麗華さんが所属する美人という種族からは散々虐げられ、奪われ続けてきた。
世界に美人が存在せず、醜い人だけだったら、私は醜いとは見なされることはなかった。だから、麗華さんにだって罪の一端はある。
決めた。麗華さんの告白を断ることができないのなら、いっそ積極的に付き合ってしまおう、と。麗華さんが本当に、私に一目惚れしたとは到底思えない。絶対嘘だ。世界中で肯定され続ける人間の考えなんて全くわからないけど、それだけは確かだし、それはそれでいい。
私は麗華さんに近付くことで、取り戻したい。これまで美人に奪われてきたたくさんのものたちを。おもちゃとか、夕ご飯とかそんな形ある物ではなくて、人として生きる尊厳を。居場所を。
麗華さんと付き合えば、醜い私でもおこぼれがある。それをかき集めれば、マイナスをゼロに近づけることくらいならできるだろう。
好きでもない相手と、打算だけで付き合うなんて、容姿だけじゃなくて心まで醜いと言われてしまいそう。
でも、それで構わない。だって、得ばかりしている麗華さんからほんの少し奪ったって、それは本来私のような人たちの持ち物だったんだから。理不尽に奪われたものを取り戻すことが悪いことだとは思わない。たとえそれが、八つ当たりのようなものだとしても。
※※※
麗華さんの告白を受ける。そう決めたあの夜から、妙にソワソワした気持ちが胸の辺りで淀めいている。
それは国語の教科書や、バイト中に流れている流行りの歌で語られる恋のそれとは明らかに違う。どんな形であれ、麗華さんを利用しようとする自分のいままで自覚していなかった醜さへの嫌悪感。
そして、麗華さんが約束通りもう一度会ってくれるかどうかという不安。そうしたものが混沌と渦巻いていて、それがずっと解消されずにいる。
麗華さんは私に告白した次の日、学校に現れなかった。まるで麗華さんに会いたいみたいで気に入らなかったけど、わざわざあの路地裏を通ってバイト先まで向かったけど、彼女は姿を現さなかった。
その次の日も、次の日も。そうしているうちに週末になり、学校は休日になり、人生で最も心中穏やかでないバイトで埋まった休日を過ごし、月曜日が来て……火曜日になって麗華さんはようやく学校に姿を現した。
彼女の周りには前回ほどではないにしても、相変わらず人だかりができていて、その姿を捉えることはできない。世界はあの日、私と麗華さんとの間に起きた出来事がまるでなかったことのようにして回っている。
告白された以上、麗華さんに最も近い場所にいる権利は私にあるはず。少なくとも、そう主張する権利くらいあってしかるべき。だけど、そうしようとは思わない。
麗華さんを利用して人生を変えようとは思っているけど、美人への復讐とか、人生を滅茶苦茶にしてやろうとまでは考えていない。というより、そこまでの度胸はない。
私が麗華さんに告白されたと言ったところで、誰も信じないし、信じたとして、モデルとして働く麗華さんの迷惑になる。そして、麗華さんには圧倒的な人気があるから、妬まれて私が嫌がらせされるようになるのは目に見えている。
だから私は、この前とは違った種類の不愉快さを胸に、麗華さんの周囲を見つめることになっている。
果たして麗華さんは、私に告白したことを覚えているだろうか。うっすらと聞こえてくる話では、あの日からずっと学校を休んでいたのはモデルの仕事をしていたからとのこと。
学校に通えないほど忙しかった人間が、私に告白したことを覚えていられるだろうか。コンビニバイトくらいの仕事なら覚えていられるだろうけど、トップモデルという煌びやかな仕事をしていたら、こんな醜い人間のことなんて忘れてしまうだろう。
面白くない。なんで麗華さんのことで、こんな風に心を乱されなければならないんだろう。普通、トップモデルに告白されたら嬉しいに決まっている。そのはずなのに、イライラだけが心の成層圏を超えてひたすらに積み上がっていく。
だからいっそのこと、このまま何もなければいいんじゃないかとさえ思う。あの日の出来事は全部悪夢だったことになってしまえば、と。
そう思いながら膝に視線を移すと、机の中に小さな紙の切れ端が入っていることに気付いた。なんとなく悪い予感がしながらその紙を手に取ると、「あの路地裏で放課後待ってるから」と書かれていた。
いつこんな物を入れたのかはわからない。でも、麗華さんはあの告白のことをちゃんと覚えてくれていて……純粋な愛の告白でないことは確かだけど、これまで出会ってきた、私のことを同じ人間だとさえ見てくれない美人とその取り巻きとは違うことがわかって……悔しいけど、こんなことで麗華さんのことを少し好きになり始めている自分がいた。