〈作者まえがき〉
長らくお待たせして申し訳ございません。今回は第三話となります。アチェロとマヤの恋の行方はいかに。
陽の射さない木立の合間を、アチェロと手を取り合って歩く。アチェロの顔から涙の気配は去っているが、目の端々は変わらず赤いままだ。血の通った掌は、時折そっとこちらの手を握り返してきて、胸に満ちた不安を薄めてくれる。自分の方が遥かに年長だというのに、まるでこちらがあやされているような有様だった。
(何が悪かったんだろう)
クリノは未だに納得できないままでいた。理由のようなものはいくつか胸に浮かんでくるが、どれもはっきりとは形にならない。そもそも自分を悩ませているのが、アチェロの心を傷つけたという事実なのか、それとも彼女に拒まれたという事実なのか、それすらも判りかねている。そして、自身の蒙昧さに対する嫌悪は埃のように降り積もり、クリノの胸を苦しくさせる。
「そんなに気になさらないでください」
アチェロが弱弱しく微笑んだ。その両眉は穏やかな弧を描いていたが、気を遣わせてしまっているのは明らかだった。自分は彼女の信仰を受ける精霊だというのに。
「あんな態度を取ってしまって、本当に申し訳ありません。クリノ様は私を慰めようとしてくれただけなのに」
「いいのよ。気持ちが優れないのだったら、仕方ないわ」
アチェロの口から発せられる信頼の言葉に、また後ろめたさを煽られてしまう。彼女の棘のないひたむきな性格に惹かれ、どこか小動物然とした仕草に情を催していた節があるのも否めない。彼女はクリノの目の内に燃える欲情の炎を恐れたのだろうか。人ならぬものが自身に向ける欲求に慄いたのだろうか。そう考えるだけで、クリノのお腹の底には重苦しい何かがぐるぐると渦巻くのだった。
(レヴァンタに訊いてみたら──ううん、そんなの駄目。あの子は私なんかよりずっと人間に通じているもの、きっと軽蔑されてしまう。そもそもみんなの長である私が、閨に誘った子に泣かれただなんて知られたら?)
アチェロが手を取っていなければ、クリノは一歩たりとも歩み出すことができなかったに違いない。しかし、足を踏み出すごとに暗い考えが攪拌され、ますます心を混迷へと追い込んでいくのは皮肉なものだった。胸の隅にこびりついた不安は消え去ることなく、むしろその質量を増していくばかりだ。足の先がすうっと冷たくなって、身体に上手く血が通わなくなる。
(レヴァンタの周りにはいつもみんなが集まっている。もし、相談しているところを誰かに聴かれたら? あの子を手込めにしたなどと勘ぐられて、それが広まったりしたら──)
クリノは思わずぶるぶると首を振った。なんて醜いことを考えているのだろう。悲しみの涙を流す者の隣で、自身の評判を案じているなど、許しがたい心持ちだ。鬱々と滅入っていく気分はクリノを上の空にさせ、その視界を著しく狭めていった。漫然と動き続ける自らの脚がどこに向かっているかにさえ、彼女は気がついていなかった。
「あ……っ」
隣のアチェロがぴたりと立ち止まるので、つられてクリノも足を止めた。森を薄く覆う闇に、一筋の光が切れ目を入れているのが見える。木立の無い空間に差す太陽の光だ。いつの間にか、あの見慣れた祭壇の近くに戻ってきたのだ。
たちまち、足元の地面が抜けるような思いがクリノを襲った。アチェロの悲しみを最も喚起する場所へと、またしても彼女を連れてきてしまった。考え事をしながら足の赴くままに歩けば、慣れ親しんだ場所に行きついてしまうのは当然の理だ。アチェロも事に気が付いているようで、遠くの光をじっと見つめている。その目の中に去来する感情が、もうクリノには伺い知れなかった。
「ご、ごめんなさい、アチェロ! 私、つい……」
「いいんです。いずれにしても、ここには戻って来るつもりでしたから」
「え?」
ぽかんと口を開けるクリノの目の前で、アチェロは歯を見せて笑った。今度はこちらを悲しませまいとする強がりの微笑みではない。確信に裏打ちされた、ひたむきな何かがあった。一つの目的に定めて前進する、迷い無き目をしていた。
「ちょうど先程からお願いしようかと思っていたんです。また二人の居る祭壇にご案内いただけないでしょうか、と……ですから、連れてきていただいてありがとうございます。私の決心が鈍る前に」
「……」
「でも、まだちょっとだけ怖いかも。もう少しだけ傍に居てもらえませんか?」
繋いだ手がするりと解ける。身体中から発せられる感情が揺らがないことを見て取って、ひとまずクリノは胸を撫で下ろした。けれど、アチェロの考えが全く分からないことに変わりはない。クリノの手は一人でに支えを求め、近くの大木の幹に置かれた。
木立の隙間からそっと覗くと、思った通り、レヴァンタとマヤは未だ祭壇に腰掛けたままだった。二人の話し声が森の甘い香りに乗って聞こえてくる。しかし、二人を取り巻く空気は、先ほどまでとはまるで趣を異にしていた。
「マヤはさ、」
「は、はい」
「確か、八月生まれだよね」
「その、通り、です……」
木の葉と共にしんしんと降り注ぐ静寂の中には、琴の音の一つも響かない。もう、今の二人は本など手にしていなかった。あのうず高く積まれていた本は再び木箱に仕舞われて、祭壇のすぐ傍で事の成り行きを見守っている。レヴァンタはどこか含みのある、吟ずるような調子で言葉を続けた。
「最初に出会ったのが去年の『夏の訪れ』。その時の君は十六歳だった。それで、次の『秋の訪れ』の時には十七歳になってた。そうだね」
「はい」
「で、今日がその一年後の『秋の訪れ』だ。つまり、君はまた一つ年を取っているわけだ。合っているでしょう?」
「はい」
「マヤは、今年で幾つになったのかな」
「……十八です」
マヤの声が熱くうわずる。小さな声に込められているのは、喜びと、はしたないくらいの期待だった。頬は熟したリンゴめいて真っ赤に染まっている。その身はゆったりとレヴァンタの肩に寄って、二の腕越しに微かな体重を預けている。
クリノの心臓が強く脈打ち、身体中に熱い血液を送った。二人の醸し出すある種の気配に、クリノは大いに覚えがあった。つい先ほどまでの彼女であったならば、むしろそれを喜びさえしただろうに、今のクリノの胸中には重々しい不安が立ち込めていた。
「周囲から大人として認められました。神殿で成人の儀式をして、葡萄酒を飲んで……もう、自分の家が持てるんです。お店でお酒を頼むこともできるし、神殿でももっと上の位を目指せます」
「他には?」
「他、には……」
それきり真っ赤になってうつむいてしまうマヤに、レヴァンタはくすりと笑いかけ、さらに身を寄せる。その両目に湛えられているのは、小さき者を包み込む慈愛だけではない。見る者の心を有無を言わさず鷲づかみにするような、妖しい輝きがあった。
大きく形のいい片手が、そっとマヤの手に載る。大人になったばかりの人の子の肩が、僅かに跳ねた。
「ねえ、マヤ。私の愛しき従者よ」
「……」
「ここ二年、君は真心をこめて私に仕えてくれたね。君の母親がそうだったように。オルキデアに小言を言われるのも厭わないで……本当に嬉しい。心からありがとうと言いたい。けれど、私達ニンフは人間と違って貨幣を持たない。私は、君の献身の重さを測る単位を持ちえない」
「そんな! 対価など要りません。私、レヴァンタ様にお傍に居られるだけで十分」
「君がそうでも、私の気が済まないよ。君と私とでは、時間の持つ価値が大きく違う。私にとってはなんて事の無い時間でも、君にとってはかけがえのない一時。私は、その差を埋める何かを君に与えたいんだ」
レヴァンタの言葉は中身こそマヤを慮ってはいたが、声音にはむせ返るような誘惑の香りを漂わせていた。マヤと重ね合わせた手の先がゆっくりと動き、すりすりと指先を擦り合わせる。手先からその感触を、マヤの小さな指に覚え込ませようとするかのように。
「私の自惚れでなければね。君にとっての酬い足り得ることを、私は知っていると思う。君のお母上も、お祖母様も、そうだったから」
「……はい、そう聞き及んでいます。もう片方の母様や、お祖母様には内緒だけど……」
「君はどうかな。私の贈り物を受け取る準備が出来ている? 決して無理強いはしない。けれど、受け容れてくれたなら──絶対に後悔はさせないって、保証するから」
その一言は、マヤから多くの余裕を奪ってしまったようだ。眩暈したように頭をふらりと動かすと、神官は自らの主たる精霊の手を捧げ持ち、その指先に小さくキスをした。心臓が破れてしまうのではと思われるほどに早まった呼吸を無理矢理整え、潤んだ視線をレヴァンタに向けた。
「最初にお会いした時から、ずっとお慕い申し上げておりました。貴女様のような素晴らしい方が、私のご主人様だなんて、とても信じられない事です」
「ありがとう。私もマヤのことが好きだよ」
「ああ……っ! 私、何度も何度も、自分の運命に感謝いたしました。過酷なお勉強の日々も、まるで苦になりませんでした」
「うん」
「レヴァンタ様。マヤは、マヤの麗しいお人に──貴女様に、この操を捧げとうございます。私のお願い、聞き入れてくれますか?」
「ああ、君の願いは叶うとも。君の操、確かにこのレヴァンタが貰い受けよう──君が心からそう望むのであれば……」
レヴァンタがマヤの顎に指を添え、その唇に祝福を見舞おうとしたその時、傍らの茂みが大きくがさりと揺れた。レヴァンタもマヤも共に言葉を止め、草むらへと顔を向ける。二人の表情はまるで対照を成していた。マヤは他人の乱入を恐れて腰が引けていたが、レヴァンタの瞳は乱れ一つ無く、鏡のように静かだった。
クリノの方から見れば、最初は猪か何かが迷い込んだのかと思った。早く次の展開を見て、このはらはらする心地を何とかしたいというのに、余計なことはよしてほしいと願った。けれど、すぐに気が付いた。共に成り行きを見守っていたはずのアチェロが、隣に居ない。
「僭越ながら申し上げます。そちらの儀、少々お待ちいただきたく」
はたして、闖入者はアチェロであった。彼女は辺りに咲く花や草をなるべく踏み荒らさぬよう、丁寧な足取りで二人の前に歩み出た。俯きがちの猫背で、手の先は衣の端を寄る辺なく握りしめている。それでも、両目はまっすぐにマヤとレヴァンタとを見据えていた。
マヤは言葉を発さなかった。ただ、その顔から浮かれた期待はすっかり消え失せて、霜でも降りたように真っ白になっていた。青天の霹靂に遭った顔だった。心の内で燻っていた唯一の気掛かりに、いきなり直面した顔だった。
「ごめんなさい。本当は岸に戻ってから話がしたかった。でも、このままだと手遅れになりそうだから」
「な。何を」
「マヤ。私は、あなたがその人のものになることを受け容れられません。ただの一時だとしても、そんなことを認めるのは厭だと思う」
「えっ……」
「出て行けって言っても無駄だよ。マヤが何と言ったって、もう決めたことなんだから」
アチェロは乱心を起こしたわけではない。一つの事をただ心に決めて、それを実行したのだった。クリノがうろたえている間に、この幼き人間の胸の中には、長く伸びる氷柱の如き決意が形作られていた。アチェロの両目から伺えるその透明な輝きは、クリノのどこか深い部分を打ち据えた。
レヴァンタは動かない。魔法でアチェロを追い出すことも、マヤの手を取って姿を隠すこともしない。ただじっと手を組み、事を静観している。揺らぎも瞬きもしないその両目からは、やはり彼女の意図は伺えない。
「私はマヤが好き……マヤだって知ってるでしょう? いい加減、目を逸らすのはやめてほしい」
「どうして今そんなことを言うの。今じゃなきゃ駄目な話なの?」
「駄目。今この時以外のいつにだって、する話じゃない」
「神殿に告げ口するのなら、すればいいじゃない。それなら私はもうこの島に来ることも無ければ、レヴァンタ様に会うこともない。それで終わりよ」
「そんなことするわけないでしょう? 神殿のルールなんて最初から関係ないし、マヤの努力を無になんてできない」
「じゃあ、何! どうすればいいの!」
「マヤの答えが欲しい。私の気持ちに対しての、マヤの気持ちが」
マヤがちらりとレヴァンタを見る。親鳥に助けを求める小鳥の目だ。レヴァンタは従者のこの求めに沈黙でもって答えた。誰にでもためらいなく手を差し伸べるはずのレヴァンタがそうしたことに、クリノはますます驚くばかりだった。
「私、マヤほど頭は良くないけど、はぐらかされてることくらい解るよ。何にだってすぐに答えを出せるマヤなのに、私とのことはずっと先送りにしてるよね」
「……」
「今日まで貴女のこと追いかけてきた意味も、花祭りの日の贈り物の意味も、分からないわけないでしょう。マヤはとっても賢いもの」
「……」
「どうしてこっちを見ないの。そんなにレヴァンタ様に嫌われるのが怖い? オルキデア先生の間違いに真っ向から反論して見せた、あの勇気はどこに行ったの?」
アチェロの強気な態度が、クリノを混乱へと誘う。クリノの目で見る限り、二人の神官の関係は思っていたものとはまるで違った様相だ。聴いた話では、マヤこそがアチェロの先を行く導き手であると思っていたのに、目の前にあるのはまるで逆の現実である。アチェロの言葉には悲しみも怒気も含まれておらず、ただ諭すような静けさがある。その静けさを前に、マヤは利発に言い返すこともなく、首を縮こまらせて黙り込むのみだ。
「ずっとそうしてるつもり」
「呆れてるだけよ。あんなに応援してくれてたのに、こんな土壇場で裏切るなんて」
「裏切る──うん、そうだね。あたし、結局マヤを二度も裏切っちゃった。一度目の裏切りを謝る意味でも話をしたかったんだけど、そんなにうまくは行かなかったみたい」
「何、それ。どういう意味」
マヤが怪訝そうに顔を上げると。アチェロは先程までの態度を少し収めて、後ろめたげに顔を反らした。僅かな間に小さく風が吹きこんで、辺りの木々をかさかさと鳴らす。葉擦れの音に紛れるくらい小さな声で、アチェロはぼそりと呟いた。
「私、キスしてきた」
「は?」
「初めての、キスをしたんだ。だから、その、さっき……森の向こうで、たった今知り合ったひとと……」
ほんの一瞬で、マヤの表情がいくつもの変化を遂げた。川辺の綺麗な石のごとく滑らかな顔に、複雑に入り組んだ影が去来し、素早く形を変える。その身は半ば転げ落ちるように祭壇から飛び降り、そのまま前のめりにアチェロへと詰め寄った。まるでそれが生涯の一大事であるかのように──むんずと肩を掴まれたアチェロも、その気迫には呑まれざるを得ない。
「どういうこと?」
「い、言った通りだよ。さっき、初めてのキス、済ませてきた。マヤがあげたい人のためにとっといたもの、あたしは、そうじゃない人にあげちゃった……」
「誰に!」
「言わない。でも、とっても素敵なひとだよ。私の悩みを聞いてくれたし、いっぱい元気づけてくれた。私、ついさっきまでそこで泣いてたんだよ。見つけてくれたのは、その人……」
マヤは両手で胸の真ん中を押さえ、ぎゅぅと身を縮こまらせた。身体中を襲う絶え間ない寒さに耐えているようにも見えた。その身の中に大きな悲しみと困惑、それに苛立ちが巻き起こっているのが、クリノにはよくわかった。しかし、彼女がなぜそんな気持ちになっているのかを理解することはできない。
誰とキスを交わしたのか、誰に「初めて」を捧げるのか──二人の人間達がどうしてそんなことで争っているのかが、結局のところ、クリノにはまるで判っていないのだった。ニンフにとって情事とは食事のように行うものだ。食事の時間を誰と共にするか、どこで過ごすかなどについて、いちいち真剣に争っていては立ち行かないではないか?
しかし、現に争いは起こっていた。そして、先程の「事故」の原因となったのが、恐らくはこの辺りの認識の齟齬であることにも、クリノは半ば気付き始めていた。
「そう、良かったじゃない。好い人に会えたのね。その人と幸せにやってれば?」
「嘘つき。そうやってすぐ見栄を張るよね、マヤは」
「ひっ叩くわよ。いいじゃない、新しい恋を見つけたんでしょう? 話がきちっと割り切れて結構なことだわ」
「本当に割り切れたら、わざわざこんなところに来ないよ」
アチェロの調子が戻ってきた。身体の底から湧き上がる感情が、発せられる主張に勢いを与える。降り注ぐ言葉の雨粒を受けて、マヤはただじっと立ってる。
「『後悔してる』って言ってるのが解らないの? 甘い一時を貪って、初めて我に返った時、私全身が引き裂かれそうだった……! 自分の心を裏切ったことにも、あんな素晴らしい人を自分の過ちに付き合わせたことにも……だから、ここに来て、マヤに会いたくなった。謝りたくなって」
「バカらしいわ」
マヤの吐き捨てた刃の鋭さたるや、耳にしたアチェロとクリノとを瞠目させて余りあった。先ほどから見るに、マヤは元々だいいぶきつい物言いをするたちのようだった。慣れているのか、アチェロの方も怯みはしない。ただ、その人なつっこそうな丸目には、剣呑な苛立ちが滲み出しつつあった。
「よくもさっきまで大口を叩いていたものね、この愚図。後先考えずに身を委ねるのは、謙虚さではなく優柔不断さの表れだって、私いつも言っているわよね」
「そんな言い方!」
「今だってそうよ──そういうところ、いつまで経っても嫌いだわ。逃げているのはあなたも同じよ」
「自分がそうなのは認めるんだ」
「揚げ足取らない!」
マヤの足が地面を大きく踏みつけたので、アチェロの背がびくりと震えた。どうもマヤが激高した時に見せる癖であるらしい。他人の怒り狂う様を見る機会は、クリノには滅多に無い。ニンフ種という精霊は、その穏やかな性質からほとんど怒ることが無い。クリノ自身にしてもそれはそうだった。
「あなたはね、自分の愚かしさから逃げ出しているのよ。自分の目の昏さに気が付いて、右も左も何だかよく解らないものだから、手当たり次第に滅茶苦茶な行動を取っているにすぎないわ。おまけにこの島のニンフ様にまで迷惑掛けて……」
「なんで相手がニンフ様だってわかるの?」
「馬鹿言わないで。あなた、一緒に来た人達には微塵もそういう興味ないじゃないの。だったら、残りはもうこの島に住む方々しいかいないでしょ」
「そりゃ、あたしが興味あるのは──」
「うるさい。どの口が言うの。行き当たりばったりも大概にしなさいよ、文句あるわけ!」
「あるに決まってるでしょ!」
おろおろと成り行きを見守るクリノを余所に、ついにとても聞くに堪えない言葉の応酬が始まった。罵り文句の多くがクリノにとっては露も知らないような言葉ばかりだったので、その内クリノは二人の言葉を聞き取るのをやめた。
神秘と静寂の島にはとても似つかわしくない怒声が、辺りに響き渡り続ける。雷鳴の鳴り響く嵐の日だって、ここまで騒がしくはないだろう。その内、近くで働いている神官やニンフに気づかれるのも時間の問題だ──しかし、その音はある時を境にピタリと止んでしまった。
二人の神官が喧嘩を止めたわけではない。二人は依然怒りを露わに互いを睨み付け、せわしなく口を動かしている。しかし、二人の口から発せられるべき声が全く聞こえないのだ。ぱくぱくと開閉する口の様子は、空気を欲して水面に口を出す魚の群れを思わせる。やがてアチェロ達自身も異変に気が付いて、その傍目には極めて滑稽な営みを止めた。
「言い合いはその辺りにしておこう」
ここに及んで、ついにレヴァンタが言葉を発した。一見、彼女はいつも通りだ。気怠げな片膝立ちで祭壇に座り込み、表情も声も柔らかく、慈しみと知性に満ちている。しかしその切れ長の目は、海の底にぽっかりと現れた洞窟のように深い輝きを放っていた。
「曲がりなりにも、ここは人の手の及ばぬ神秘の森だ。この森の鳥や獣は人を知らない。あんまり騒がしくすると、彼らに悪い影響を与えかねないからね」
呪文を唱えることもなく、またそのようなそぶりも見せなかったが、彼女が何らかの魔力を行使したのは明らかだった。人間達の発する音はすっかりと絶たれ、周囲に全く伝わらなくなっていた。レヴァンタは色っぽい仕草で小さく人差し指を立てると、自分の口に封をする動作をした。レヴァンタの薄く細い唇がふにりと潰れるのが見えて、クリノは不覚にも腹の奥をつんと疼かせた。
「気持ちに任せて思ってもいないことを口走ってしまうのは、人間の悪い習慣だね。可愛らしいところでもあるけれど、今はちょっとまずいかな──マヤ」
マヤの呼吸がひ、と止まった。つい先程まで物言わぬ古木のようにその場にあったレヴァンタは、ほんの少しの間で場の中心に立ってしまった。今や、この場はすっかりレヴァンタのものだ。彼女を崇拝してやまないマヤなればこそ、ここに居る緊張は耐えがたいほどに大きいことだろう。
「残念ながら、今は喧嘩なんかに割いている時間はないと思うね。決断しなければならないのは君の方だよ」
レヴァンタの声音の暖かみは何ら変わらない。しかし、彼女の発する言葉の中には、何かしらの冷たい真理が含まれてもいた。マヤもそれを察したようで、きゅっと口を引き結んで俯いてしまう。アチェロがあたふたとした様子で何かを言っているようだが、生憎レヴァンタの術で聞こえはしなかった。
「君の想い人は、もうとっくにそれを済ませてる。だからこうして私達の前に姿を現したんだ。君の願いを踏みにじることを承知の上でね」
「れ、レヴァンタ様、私」
「君の献身を疑うようなことは決してしないよ。けれど、私や君、ともすればアチェロの意思すらもまったく関係なく、君は今決めなければならないんだ。少なくとも君の視点にとって、これが起こるのは時間の問題だったはずだ」
マヤの衣に大きく皺が出来るのが見えた。俯いたままのマヤが、自身の衣の裾を強く強く握ったのだった。
「君が私に傾倒すればするほど、アチェロの心は淀みを募らせていた。君にはそれが解っていたはずだ……そして、アチェロはたった今、その淀みと自ら訣別することを選んだのだ。後は君の言葉があればそれは成る」
「でも……でもっ……」
「これ以上彼女に甘えてはいけないよ。もう大人なんだろう? 私の誇らしき神官様はさ」
マヤはしばらくの間、傍らのアチェロを見つめた。しかし、やがて大きな溜め息と共に首を振ると、力の無い笑みを浮かべた。その笑いが、あるいはマヤ自身にとっての何かしらの区切りだったのだろうか。彼女から発せられる感情がだいぶ柔らかく、穏やかになったことを、クリノは敏感に察知していた。
「一つだけ、知恵をお借りしても?」
「何なりと」
今まさに褥を共にするところだった主と従は、しばしの間見詰め合った。二人がクリノに解らない話をしている時の「あの」雰囲気が、ほんの少しだけ発せられたように思う。けれど、二人のみを囲う見えない仕切りは、やはりマヤの笑顔によって取り払われた。貴い人の前でちょっとした粗相をした、といったような感じで、マヤはばつが悪そうに笑った。
「いえ、やっぱりよしておきます。よくよく考えればこれは不適切な質問でしたわ」
「そうかい。大丈夫かな?」
「大丈夫です。レヴァンタ様にお言葉を頂いた時点で、答えはもう出ていたのですから」
マヤが手で髪を一払いした時、クリノはまたしても大きくたじろいた。レヴァンタに誘惑されている時、アチェロと言い争っている時、マヤはまるで違う人物になったかのような有様だった。しかし、今クリノの目の前に姿を現したのは、クリノが二年前より知る賢き友人、マヤ本人に他ならなかった。
なびく髪には瑞々しい自信が満ち、口元は聡明に引き結ばれている。傍らのアチェロが僅かに頬を染めた。彼女が好きになったのは、きっとこんな彼女だったに違いなかった。
「私がこの島に来たのはね。レヴァンタ様にお会いしたいっていう気持ちもいっぱいあったけれど、実はもう一つ理由があるの」
「何、それは……」
アチェロが震える声で呟いた。レヴァンタの術は既に解かれていて、二人はいつものように顔を合わせて話すことが出来ていた。
「引っ込みがつかなかったのよ。あなたの前で、精霊島に行けるくらい、だなんてあんなにも言ってしまって……しかもあなた自身までが後ろをついてくるものだから、良いところを見せ続けるしかなかったってわけ」
マヤが控えめに目配せすると、レヴァンタは委細承知というように微笑みで応えた。
「成人の贈り物は違う物にしようか。君らには幾分かのまとまった時間が、それもすぐに必要のようだ。だから、今からそれをあげるとしよう──」
レヴァンタが傍らの竪琴を取り、弦をひとたび爪弾くと、たちまち辺りに清澄な気が満ちた。祭壇に差し込む陽の光さえも、僅かにその色を変えたようだ。レヴァンタは若き人の子に向けて小さく片目をつぶった。
「これでしばらくの間、神官達は君らを思い出さない。この広場に立ち入ることもない。僅かな時間ではあるけれど、二人で存分に過ごすがいいよ」
「有難き幸せです」
「ええとっ、ど、どうも」
「そんなに畏まらないでいいよ、アチェロ。奪われたなどとは思っていないさ。けれど、身一つで精霊の領域に突っ込んでいくのはちょっとよした方がいいな」
「はいっ」
「ドリアードやセイレーンといった悪精でなくとも、精霊の考えの尺度は人間と異なる。あまり軽率に振舞うと君の身が危ないよ。今後は気をつけるように」
竦むアチェロを親し気に諭すと、レヴァンタは神妙な面持ちでマヤに向き直る。いつも鷹揚で自信たっぷりな彼女とは少しイメージを異にする、自省の陰りの差した顔だった。
「ごめんね、マヤ。君に想い人が居るということ、本当は気が付いていた。私を一心に慕ってくれる君のこと、なかなか手放せなかった」
「……」
「でもね。きっとこの気持ちさえも、精霊が人間に向けるありきたりな気持ちの域を出ないんだと思う。残酷な言い方をすれば、それは君たち人間が子猫に向けるようなものだ。だから、これでいいんだよ」
「わ、私──それでも……」
「ああ、駄目だよそれ以上は! せっかくの仲直りのチャンスなのに、またこじれちゃうぜ」
レヴァンタは竪琴を脇に抱えると、羽毛のごとく軽やかに地に降り立った。そして、アチェロにもう一度涼やかな一瞥をくれると、また小さく微笑んだ。
「まだ、何か……」
「いや、君がマヤの自慢する通りの素晴らしい子で良かったと思ってね。くれぐれもよろしく頼むよ」
「えっ」
「れ、レヴァンタ様! 今はおやめください!」
ひらりと手を振ると、悠々とした足取りでその場を去っていくレヴァンタ。後に残ったのは、先程まで怒りと共に口論していた二人のみだ。けれど、今やアチェロとマヤの手はしっかりと握り合わされていた。彼女達にもう助けの必要が無いことは、誰の目にも明らかだった。これからの二人の行く道は、二人で決めていくのだろう。
進むべき道を見ていないのは、ただ一人クリノだけだった。一連の事が済むまでの間、彼女はただ近くの木にしがみつき、成り行きを見守るのみだった。広場に出て行って二人に祝福の言葉を与えることさえ忘れていた。一つの事実に打ちのめされる余り、すっかり脚が竦んでいたのだ。
(私、アチェロと同じなんかじゃなかったんだ──)
元々、アチェロはレヴァンタに嫉妬してなどいなかった。ただマヤが自らの元から喪われることを嘆き、しかしその嘆きを力に変えて歩み出すことができたのだ。たとえ傍目には褒められた行動では無いとしても、彼女は後悔とは無縁だ。それは、マヤのことを好き、求める心に一点の曇りも無いからだ。
自分はどうか……クリノとしては、レヴァンタがマヤと肌を交わすこと自体には何の異議も無かった。アチェロとのことが無ければ、自らその場に仲間入りして行為を盛り上げさえしたはずだ。彼女の心が何よりもざわついたのは、マヤがレヴァンタに誘惑された時でも、アチェロとマヤが言い争い始めた時でもない。レヴァンタが二人の仲裁に入り、場を動かし始めたまさにその時だった。
あの時、クリノがちりちりと胸の底を焼く焦りを感じていたのは、マヤに対してではなかった。行き場を見失っていた二人の人間を、長命種に相応しい威厳をもって導いてみせたレヴァンタをこそ、クリノは狂おしいまでに意識していた。
「今、あの場に立っているのが自分だったなら。二人に道を示し、頭を下げられ、感謝されるのが自分だったなら」
確かにクリノはそう思っていた。そして、その余りにもおこがましい気持ちこそが、彼女がレヴァンタと居る時に感じるあの悩ましさと同じであることに気が付いた。ここしばらく自身を悩ませていたしこりの正体を、クリノはようやく知ったのだった。もっとも認めがたく、また受け入れがたい事実として。
おずおずとした足取りで木陰を出ると、視界がぱっと明るくなった。その目にあらゆる光を入れることが憚られる気持ちになって、クリノは思わず顔を手で覆った。森の中へと一歩足を踏み出すごとに、若人達の話し声がまた一つ遠ざかる。身体の輪郭すらも溶けていきそうな闇の中を、クリノは黙々と歩み続ける。
無限に続くとさえ思われる木立の向こうから、微かに小川のせせらぎが聴こえる。クリノは途方に暮れた心をずるずると引きずりながら、そのしるべに向かって歩を進めた。
続
〈作者 あとがき)
次回は、少し時間を遡り、クリノとレヴァンタの馴れ初めから現在までを描くお話となります。二人の関係性の変化を是非お楽しみに。